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宗教戦争

世界中のどこかでいつの時代も戦争が起きている。
大概多くの戦争は聖地エルサレムの取り合いから始まり、それがどんどん違う方向に向かっている気がしてならない。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教がそれぞれ聖地と名付けるエルサレムの取り合いを、我々が生まれる遥か昔からしている。

大体の人が一番最初に知る宗教戦争は、社会科の時間に必ず出てくるルターの宗教改革だろう。今も昔もそう大して歴史の教科書のその部分は変わっていない。


まだ記憶にない3歳の頃、クリスチャンと名乗る女性が聖書を片手に昔の家を訪ねてきた。その頃はまだ父親と3人で暮らしていた。母は冊子を受け取り、その女性と聖書の勉強を始めたという。


祖父母の家は仏教で、本家のおばさんは檀家として家一軒分つぎ込んだと親戚中が知っているほど熱心な人だった。そのお寺に行くと、寄付金の多い順に、氏名が書かれた木札が並べてあり、本家のおばさんの家の名前が上から二番目にあった。


祖父は商売人によくありがちな占い、祈祷、神道、色んなものに手を出し、神棚にはいつも新鮮な榊とお酒、色んな神社仏閣からもらってきたお札を所狭しと並べていた。祖父の占いについて行った際、なぜそんなに占いや祈祷へ行くのか尋ねたことがある。祖父は『信じれる者が誰ひとりいないからだ』とだけ答え、私はそんなものかと思った。
自営業というものは良い時も悪い時もある。なんとかの神頼みってやつだろうとのんきに考えていた。経営者だった祖父はいつも『夜中にかかってくる電話はロクなもんじゃない』と言っていた。

しかしながら日本人あるあるの独特な宗教観で、クリスマスにはケーキを食べ、お正月は初詣に行き、法事となるとお坊さんを呼ぶ典型的な家でもあった。

初め母は聖書を純粋に勉強したかったらしい。彼女の好きな西洋史や海外の純文学は大概聖書がベースになっている。クラシック音楽も同じだ。全ての文学は聖書とシェイクスピアが基になっている、ともよく言っていた。確かに聖書の内容が頭に入っているかいないかで、海外の文学や絵画、映画、クラシック音楽等への理解度は全然違う。

聖書の教えの原則とは裏腹に母は離婚したが、まだ正式なクリスチャンではなく、研究生と言われていた。私も幼い頃から“集会″というものに半ば強引に連れていかれ、日々の聖句を読んだり、ひととおり聖書の中に書かれたあらすじは頭に入るくらい″勉強″させられた。

ココまで読んだだけでピンときた方もいるだろう。母が学んでいた聖書の勉強とは、カトリックでもプロテスタントでもなく、ユダヤ教から派生した新興宗教のひとつであった。だから日曜日のミサもない、十字架もマリア像も当然ない、偶像礼拝は禁止されていた。

ただ私が接した“姉妹や兄弟″と呼ばれる人たちはとても親切で、後々私の人生を助けてくれる人たちであった。母は私が中学1年生になった時、“水のバプテスマ″を受け、晴れて姉妹と呼ばれるクリスチャンに仲間入りした。
火曜と木曜の夜、そして日曜日の集会に行くと、ようこそお越しくださいました、と毎回笑顔で迎えられる。兄弟、長老と呼ばれる人たちが前に立って、その日の決められたテーマを聖書を引用しながら話していく。
私は英語の辞書をひくより、聖書の言われた聖句をひくほうが得意になるほどよく覚えた。

その頃の母は、日々会社で祖父と大喧嘩をし、家ではヒステリックに私を叱り飛ばすか叩くかで、集会が開かれていた約2時間の間だけとても静かで平穏だった。後で聞くと、あの時は集会に行くことで気持ちを落ち着かせていたらしい。
私は神がどうとか特別信仰があったわけではない、ただ母に連れられて行くのが当たり前だっのと、何より静かで心穏やかな母を見る事ができた唯一の時間で、それはそれで嬉しかった。私も研究生として、市川姉妹という年配のベテラン姉妹から週に一度聖書の教えを学んでいた。市川姉妹は亡くなった旦那さんから壮絶な暴力を受けていた時に聖書の仲間に出会ったと話していた。市川姉妹はとても苦労人で、当時の母の様子を見て、ある時祖母に二十歳そこらの娘さんくらいの精神年齢だと話していた。

聖書の教えの中に『親を敬いなさい…』というような聖句があり、そこだけがいつも私の中で引っかかっていた。現在は宗教2世と呼ばれる人たちがYouTubeなどで様々な証言をして物議を醸している。泣いても泣いてもムチで叩かれたとか、学校で騎馬戦の時は見学、君が代は歌わない、誕生日も祝ってはならない、婚前交渉は禁じられていたし、他にも様々な掟があった。戒律はとても厳しく原理主義的なものであった。

『家で暴力をふるう親は聖書の原則に反していないのか、聖書の中に子どもが言う事をきかなければ鞭で叩きなさいというというような表現があるが、私の場合はどうなんだろう』というような事を市川姉妹にこっそり尋ねた。市川姉妹は母の特性をよく見抜いていた。『基本的に子どもは親の言う事をきくという聖書の原則はあるが、あなたのお母さんの場合はねぇ…』と困った顔をされた。
母は集会に行ったり、兄弟姉妹たちの前ではいつも笑顔で優しい人の仮面をかぶっていた。それを見破っていたのは、市川姉妹1人だけであった。

祖父母はそんな母の宗教をとにかく毛嫌いしていた。理由は『同じキリスト教でも普通のならまだいい、あれが(母)やっとるのはキチガイ宗教だ、恥さらしだ、レナは決して入信しないように』と言っていた。結局のところ、ユダヤ教がベースになっている新興宗教というのが気に入らない、普通のカトリック教徒ならまだ格好がつく、世間体のことを指していた。

とにかく私が中学生になってから母の熱心な信仰は増し、祖父母からの反対は日に日に正比例のグラフの如く増した。祖父と母は会社で大喧嘩をし、家では宗教の事でモメにモメた。

私が1番悲しかったのは、それまでは友達を家に呼んで母がケーキを焼いてくれ、お誕生日を皆に祝ってもらっていたのに、ある年から何の前ぶれもなく全てなくなってしまった事だった。当然クリスマスもなくなった。
それから先は、不憫に思った祖母が毎年ホールケーキを用意してくれ、誕生日を祝ってくれた。隣町の好きな洋服屋さんで、値段の張る大人っぽいブルーのトップスとチェックのミニスカートを買ってもらった。
毎月の小遣いとは別に、中学生だからあとは欲しいものは自分で買いなさいと、母には内緒で一万円札をくれた。祖父もまた五千円札をくれた。当時母からの小遣いは月2000円であった。

とにかくその宗教は″キリストの死の復活″とバプテスマで誰かがクリスチャンになった時以外のお祝いを一切しない。お正月に皆で集まる時、あけまして“おめでとう″を母が決して口に出さない事を祖父母は事細かに観察していた。

ある休日の日、母は自分がクリスチャンに改宗しましたと祖父母に証言したいと市川姉妹に相談し、祖父の暴力が怖いので一緒に来てついてほしいとお願いし、日時を決めて祖父母宅を訪問すると決めていた。

忘れもしないあの日、私は朝から嫌な予感しかしなかった。今日は何かが起こる、どうか助けてくださいとトイレの中で神に祈った。
母は市川姉妹と一緒に時刻を合わせて祖父母宅に行く約束を守らず、母だけ先に祖父母宅に行った。私はこれから何かが起こると感じ、怖くて近所の川沿いに逃げていた。すると10分もしないうちに近くの消防署からピーポーが聞こえた。直感で『この救急車はウチだ!』と思い、祖父母宅に戻るとやはり家の前に救急車が停まっていた。市川姉妹が呆れた顔をして玄関内に立って救急隊員に何やら話している。

私は怖くて怖くて、そっと祖父母宅を覗くと『お前はどこに行っていたんだ!』と祖父に怒鳴られた。何だか奥の方から悲鳴とも何とも言えない叫び声が聞こえてくる。声の主は母なのだが恐ろしくて見に行くことができなかった。そうこうするうちに担架に載せられた母が目の前を通り過ぎ救急車に運ばれた。母は痛い痛いと叫び、悲鳴をあげている。見るとありえない方向に右足首が向いていた。
私は市川姉妹と一緒に救急車に乗り、近くの病院へ運ばれる母に付き添った。

病院内の待合室で市川姉妹と2人でポツンと椅子に腰掛け、医師の診断を待った。その間、ギャー痛い〜痛い!ギャー!と、奥の診察室の中から母の叫び声が廊下にこだまするほど大きく響き渡っていた。休日でシンと静まり返った薄暗い病院の廊下で母の叫び声だけが響き、それも怖かった。

市川姉妹がポツリポツリと事の次第を私に話す。母は市川姉妹が来るのを待ちきれず、一人張り切ってアホみたいに祖父母の家にあがり、私はクリスチャンに改宗しましたとバカ丁寧に冊子を取り出したそうだ。すると激昂した祖父が母を殴る蹴るの暴行を始めた。何故か母は逃げようとせず、頭を抱えてその場でうずくまっていた。祖母がこのままでは殺される!と思ったらしく、『バカ!逃げなさい』と窓を開けたらしい。
その声を聞き、我にかえった母は窓から思いっきり庭にダイブしたらしい。できるだけ遠くに逃げようとしたのだろう。一階の出窓からかなり離れた所にダイブした母は、着地に失敗して右足を骨折した。と同時に不審に思った市川姉妹が祖父母宅の中に入って、即救急車!となったらしい。

医師が診察を終えて出てきた。『右足、複雑骨折してますね。骨も砕けているし、入院手術で最低でも2ヶ月はかかりますね。全身に打撲もみられますが、警察に連絡しますか?』と聞かれた。
結局暴力をふるって大怪我をさせたのは祖父である、警察に連絡したところでその当時の家庭内暴力は痴話喧嘩で片付けられる、という事から警察に連絡はせず、母はそのまま入院となった。

もしも祖母がその時逃げろ!と母に言わなかったらどうなっていたのだろう…想像しただけでも恐ろしい。市川姉妹と私は深いため息をし、暗い病院をあとにマンションに一緒に帰宅した。

中学1年生の秋も終わりかけの晩秋の頃だった。


母は2ヶ月間病院に入院し、手術をして右足首をボルトで固定した。


私が怖くて逃げたからいけなかったんだ、私が逃げたから母は大怪我をしたんだ、母を祖父から守れなかった私が悪いんだ、自分だけ怖くて先に逃げて待っていた私は1番の卑怯者だ!お母さん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。とにかく私が悪い、心の中で自分を責め続けた。

その日から、わずか中学1年生にしてマンションでの“一人暮らし″という未体験ゾーンの生活が始まった。


母のその時の手術の跡は今でも痛々しく残っている。



(※長い長い文を最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます)

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