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教科担任制と部活動

中学校に入ると、ホームルーム以外はいわゆる教科担任制になり私の人生は大きく変わった。

小学校は基本的に担任がほぼ全ての授業を行う。音楽や図工など苦手な先生は、それぞれフォローし合うか、専科の先生に授業自体をパスする。なので担任がいわゆる“ハズレ″だった時は何もかもが最悪だった。担任に嫌われると、それまでずっと5だった音楽の評定が3になった事もある。先生も人の子である。がしかし、小学校という場所は子どもの学齢が小さいためか、先生の好き嫌い、えこ贔屓が激しく、合唱部の松本先生と音楽専科の相本先生、4年生時の担任である角先生以外にはとても苦しめられた思い出しかない。

その点、中学は教科ごとに先生が変わり、思春期反抗期真っ最中の生徒たちを相手にするせいか、先生たちもかなり公平に評価してくれる人が多かった。(ちなみに私は今でも公立の中学校が大好きであり、家庭教師やピアノの生徒の中に中学2年生だとか、反抗期まっしぐらな男子生徒が居たりすると、ワクワクして血が騒ぐのである)

教科担任制の良いところは、教科を専門的に教える先生が1限ごとにコロコロ変わり、楽しかったりつまんなかったりするのだが、この生徒は母子家庭だから…とかバカみたいな色眼鏡をかけ、生徒の成績を適当につけたりしない事だった。(これは実際自分が中学校4校小学校2校で勤務していた時にも感じた)

やる気を出して頑張れば、それなりに報われるということを知り、好きな教科は徹底的に頑張れたし、苦手だった体育も“この先生好きだから授業頑張ろう“と思う事ができたりもした。家庭内は相変わらず暴力の巣窟みたいな状況が続いていたが、学校に行く事がとても楽しくなった。私を散々いじめていた恵子ちゃんたちともクラスがバラバラになり、相変わらずだがピアノ伴奏でおかしなマウントを取られたり、様々な嫌がらせ、悪口を言いふらされたりもしたが、家で過ごす事を考えると…そんなもの私からすると蚊に刺されるくらいの事だった。

中1の時の国語の担当、山根先生は部活の顧問でもあった。私たちの時代は“部活動は必須″で(これは学校ごとに違ったりする)残念な事に合唱部が存在しなかったので何部に入ろうか迷い、結局合唱部で一緒だったゆうちゃん友達と同じ放送部に入部した。
放送部と聞くと最初は文化部だし暗い人多めなのかな?と勝手に想像していた。実際部活見学に行ってみると、当時生徒会活動をバリバリやっていた3年生の先輩、学校イチ巨乳で可愛いと誰もが知る先輩、宝塚を本気で目指している人、クラシックバレエをガチでやっている人など、何だか想像していたより華やかでキラキラした人が多い事に驚いた。

アナウンスって何だかカッコいいからやってみたい&文化部だから何とかなるっしょ…と甘くみていたのだが、入ってびっくり!毎日運動部並みの筋トレプラス、両足首に重しのような物を巻きつけて学校の外周を延々と走らせれ、そのメニューが終わらないと発声練習さえさせてもらえない厳しい部であった。
顧問の山根先生は非常に厳しい人だった。それもそのはず、入部してから知ったのだが、我が放送部は毎年全国大会で上位入賞者を輩出する強豪校だった。

よく、テニス部やバスケ部など体育会系の部の子から『なんで放送部なのに毎日外周走ってんの?なんで文化部なのに毎日筋トレしてんの?』と聞かれ、私もそう思うんだけどさぁ…なんて返せる雰囲気ではなかった。

放送部は大きく2つの分野に分かれており、アナウンス部門と朗読部門があり、私とゆうちゃん友達はアナウンス部門に希望を出し、日々アナウンス専門のメニューをこなしていた。
小学校の合唱部時代から一緒だった“ソプラノの夕ちゃん″は、とにかく持って生まれた声が非常に美しくすぐに頭角を現し、他の部員や先輩たちを抜き、アナウンス部門で全国優秀賞をもらった。

私はいわゆる全国大会出場レギュラーメンバーに入れないことを早々理解し、お昼の校内放送で″ラジオDJもどき″を提案し、その時流行っていたみんながかけてほしい曲を選曲したり、アナウンス専門でも朗読部門でもない“番組制作“の部門に力を注ぎ、そのBGMを選曲したり音響をいじったりと裏方業務を楽しんだ。

ある年、私たちの育った市を紹介する“番組制作″の部門で見事、全国入賞をした。アナウンス原稿はレギュラーメンバーたちが読み上げ、私はいわゆるBGMと音響を担当し、家にある数あるCDを校内に持ち込み、当時はまだ珍しかったオルゴール曲を用いたり、効果音をどれにしようか皆で悩んだり、自分が普段家でしていた音楽(ピアノ)がこんなところで役に立つのか!と感激したのを覚えている。
この原稿の時にはこの曲、エンディングにはこの曲がふさわしいかも、ココにはこの効果音が効くと思うなぁ…と次から次へと頭に思い浮かび、ずっとピアノを、音楽を続けていて良かったと思える一瞬だった。顧問の山根先生も、その選曲スタイルや音響をとても気に入ってくれ、私が唯一褒められたのはそこだけである。

当時はアナウンサーになりたいから放送部に入るといった動機の部員は少なかった。
しかし全国選抜メンバーの“ソプラノの夕ちゃん″が画面に映ると、ハッとした。夕ちゃんは小学校の頃から声だけでなく、顔立ちも非常に美しかった。丸顔で目も大きな二重で丸い、整った顔立ちをした画面越しの夕ちゃんは、いわゆる“テレビ画像映えする顔“である事に気づいた。なるほど、そういう事か…と一人で納得した。
私はというと、モニター越しに原稿を読む自分を見てある時びっくりした。
『何これ!私いつもこんな顔して原稿読んでんの?恥ずかしいったらありゃしない…それにしても私ってこんなにブサイクだったっけ…』と呆気にとられ絶望した。あぁそうか、そういえばテレビのアナウンサーも皆容姿端麗だな…私はお昼の校内放送で顔が見えない原稿を読んで、ちょっと面白い事を話してみんなを笑わすなんちゃってラジオDJもどきで充分だ…。

顧問の山根先生は女性だが、全国選抜メンバーを容姿で選ぶような人ではない事は重々分かっていた。が、画面に映る自分の顔を見て、コリャダメだ…とガックリきたのは言うまでもない。
そこからは気持ちを切り替えて、自分はアナウンスそこそこ、BGMと音響担当になってそっちを頑張ろう!と決意した。

話は飛ぶが、小中学校勤務時代、体育祭などの学校行事で放送担当を自ら申し出た。自分が読むアナウンス原稿や体育祭で用いる“リレーでかかるときの曲″から入場行進や合間の曲は全て自前で用意した。すると周りの同僚の先生や管理職がビックリした顔をする。
『先生はプロみたいなアナウンスするねぇ、何だかすごいけど何かやってたの?』『君みたいにアナウンス読める人中々いないから助かったよ…』
そんな時は『私、自分が中学の頃放送部で全国メンバーでしたから!(半分嘘)』と満面の笑みで答える。すると、なるほど、そうだったんですね!そんな才能をお持ちとは…初めて知りました、と大概返ってくる。職場でもそこだけは評価されていたと後になって思う。

そんな時は、体育会系並みに厳しかったガチ放送部だったけれど、山根先生の指導受けていてホントに良かった…社会に出ても案外役に立つもんだなとつくづく感じる。

先月とあるピアニストのリサイタルでもアナウンスを頼まれた。リハーサル時、ちょっと一回アナウンスしてみて!とピアニスト先生に言われ、私もリハーサルついでだと原稿を試し読みすると、そのピアニスト先生が私を見てビックリしていた。

フフン、タバコを吸うから昔ほどいい声は出ないけれど、これくらい任せなさいよ!(プロのアナウンサーには負けます、すみません)

中学生活は山あり谷ありだが、自分の中ではやっと“一人の人間として皆と平等に扱ってくれる先生たちとの出会いの場“でもあり、居場所にもなった。とりあえず教科担任制万歳、そして部活もありがとうだ。

次は思春期独特の“アレ″について話していこう。


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