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とある屋敷の読書日記No.1 宇佐見りん『推し、燃ゆ』感想・考察

 ごきげんよう。
 あなたの心と本棚を侵略する、本好きVtuberの古書屋敷こるのです。

 本日は、試しに読書感想日記のようなものをしたためてみようと思いまして、筆をとった次第です。
 食事よりも読書の方が好きな私は、何かしらの本を毎日読んでいて、その感想をあなたに、誰かに話したくなってしまうことも多いのですが、配信や動画でお話するのはおすすめできる作品のみと固く誓っているため、あまり読了報告はまめではありません。
 読む数が多ければやはり、太鼓判を押して薦められる作品、これはnot for meかな……という作品、特に私が強いて語ることはないかな!という作品、色々あります。
 しかしながら、水面下に眠る語られなかった作品群を無かったことにしてしまうと、なんでもかんでも面白い面白いと言っているようにも見えてしまうかな?とも思うわけですね。あと全然本読んでない人に見える。これは由々しき事態です。うむ。
 ということで、この読書日記では本を選ばずに!配信などではなかなか言い難い、率直な意見や忌憚なき感想も含めた感想を書いていこうと思います。寝る前に書く日記のように、私的な意見や個人の感想、私だけの追憶などを過分に含んだものとなるでしょうから、あまり間に受けずに、気楽に読んでいただければと思います。文章量は、とてつもなく長かったり、2秒で読み終わる短さだったりと変動します。ちょくちょく更新です。
(追記。今回はあまり考えず書いたので、とても雑多な文章になっています、雑味を愛して!)

1冊目はこちら。

○宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社,2020

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https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309029160/


逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。(上記リンク 河出書房新社HPより)

あらすじ
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」
アイドルグループ「まざま座」のメンバー・上野真幸を熱烈に推している主人公・あかり。ある日、あかりの推しはファンを殴ったことをきっかけに大炎上してしまう。それでもあかりは推しを解釈し、信奉し、我が身を削って推し続ける。けれど、騒動はどこまでも大きくなっていき……。
SNSの炎上、現実の生きにくさ、そして推しを推す切実にして熱烈な気持ちを通じて、主人公の精神・内面を鮮烈に描き出す。突き刺すような、溺れるような、生々しい感情が魅力の第164回芥川賞受賞作。

○感想(ネタバレ含)

 店頭に『推し、燃ゆ』が並び出した時から、帯には「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」の一言。インパクトある一文かつ、端的にこの本を表しているかのような簡潔さ。この一文のキャッチーさの功績は大きいだろうなと思う。
 反して、個人的には推しが燃えた話というものの新鮮味はあまりなかった。なぜなら推しがよく燃える界隈が身近だから。私はSNS世代を生きていて、推しがいて、推しを推している友人が数えきれないほどたくさんいる。そういうものを描いた文学作品が出るのはわかるな、時代だな、でも知っているからな。やっぱ誇張されているのかな?なんて考えながら、横目で見ていた。
 読む前は、推しを推すことに傾倒していって人生が壊れていくけどそれでも推し続けるMadな話なのかな、と思っていた。というか、既読の人間にそう紹介された。(その方は非SNS世代、Twitterも知らない方だった)どんどん推しを推す行為がエスカレートしてしまって過激になって……そういう人って今は多いのかしら、と言っていた。そうですね、多いと思いますけど、大概の人はうまく付き合っているんじゃないでしょうか。もちろん、過激な人もたくさんいるにはいますけどねえ。私のお友達も、熱心にジャニーズを追っていますよ、グッズとか買って。課金……お金をたくさん払ってソシャゲのイベント走ったりとか。ソシャゲ?って何?ゲーム機?スマホで出来るゲームみたいなものです。そうなの、じゃあ、やっぱり寝ずにやったり、学校に行かなくなったりするの?ええと、そこまでいっちゃう人は少数派なんじゃないですか。へえ。そう。なんだか不思議ね。
 やっぱりそんなに過激な推し活が描かれているのか、ネガキャン代名詞のようになっていたら嫌だなあ、と思いながら文藝春秋の芥川賞掲載号を購入。失礼でしたね。でも、こう、センセーショナルな煽り文句がついていると、読者としては怯えてしまうのですよ。


 読後一番に思ったのは、この小説の核は過激さや苛烈さなんかではなくて、もっと繊細で微妙な心のゆらめきだということ。推しが燃えた話ではなくて、少女のアイデンティティの物語だということだった。
 肉体の気持ち悪さとやりきれなさ、推しの非人間性、SNSでの振る舞いのちょっとしたペルソナ、現実の遠さ、推しへの複雑で真っ直ぐな尊い感情。全てが酷く冷静な筆致で描かれていて、ちょっと怖いくらい。予想していた鮮烈感情小説というイメージは消え去り、伶俐な分析のもとで描かれた鋭い、とぎ澄まされた小説という位置付けに落ち着いた。
 全然衝動的じゃなかった。主人公は衝動も持っていたけれど、それを描く筆致はとても客観的で、計算されていた。そのことが伝わってくるほど、整理された配置をした小説だと思った。とても芥川賞的(悪い言い方ですね)だし、獲るべくして獲ったのだとも思った。なぜなら、突飛なシチュエーションの物語ではなく、わたしたちの話だったから。


 以下ネタバレを過分に含みます。

 ねえ、これは過激な話でしたか?
 とても現実的で、生活の範囲内で、驚く行動なんかなかった。エスカレートもしていないし、しているとしても「ある」範囲内だと思った。過激な衝撃話なんかではなく、ただの、推しを熱心に推している女の子の心の揺らめきの話。
 それだけに、小さな描写のひとつひとつがとてもリアルだった。
 「やっば」という時、小さい「っ」に力を込める。わかる。やばあ!やっっっば。身の回りでよく飛び交っている。言葉は感情を込めて使う。その時代の慣習がある。わたしたちの慣習だった。
 「生きてて偉い」「生きてるだけで偉い」飛び交う言葉Part2。推しにいうなら「存在してくれてありがとう」「息を吸ってて偉い」「起きれてえらい」。何の疑問もなくインターネットには溢れている。偉い、はもはやミームか何かなのではないか?人々は褒めあっている、コウペンちゃんも流行ったし。
 友達同士推しがいて、推しのジャンルは違うけど、推しを推しているという点で繋がっている。ジャニオタの子、配信者グループを推す子、アニメのキャラクターを推す子、俳優を推す子、Vtuberを推す子、ソシャゲのキャラクターを推す子、歌い手を推す子、地下アイドルを推す子。それぞれがそれぞれのジャンルを詳しく知っているわけではないけれど、友達の推しだから何となく知っている。私の友人は妙にミステリ作家に詳しい。
 たまに戦争をしていることもあるけれど、必要な時に協力しあうこともある。それもあって、友達と推しは被らない方が良いとされている。各1配慮とか知ってますか?私は最近知りました。概念としてはかなり理解できるし、自然にやっていた気もする。平和主義者なので。○○担、リアコ、ガチ恋、夢女子、地雷。CDを積み、最前を取り、ライブに遠征して全通(全ステ)する熱心なファンたち。そういう世界は実在する。私のとても近くに。

 私自身が自分のジャンルとして持っているのはミステリで、正直あまり特定の誰かを推している感覚というのはない。作品を誰かにおすすめするのも推し活のひとつと言えるかもしれない。(汀こるもの、殊能将之、茅田砂胡、伊吹亜門、島田荘司を読んでください)でも、ライブはないし、握手会券付きのCDも売られていない。トークイベントやサイン会はあるけどね。そういうイベントに遠征する人も、推し作家を推している人々でしょう。

 好きなものがあるというのはいいことだと思う。推しがいるのは素敵なことだ。感情が動いたり、これを見たいと強く思うことは、なかなか体験し難い貴重なことで、大切にしたい。してほしい。何かを好きだと思えることは、本当に素敵なことだ。きっと滅多にないことなのだ。
 好きなものの話をする友人を見るのは好きだ。私も、好きなもののことを考えているときは幸福だから。好きという気持ちはとても珍しくてよいもののように、私は思う。誰でも簡単に抱けるものじゃない。好きという気持ちを信頼している。理由になっていいと思う。

 8000円するたっかい目覚まし時計を高いな!と思いながらも買っちゃう気持ち(これはジャニオタの友人のグッズを代わりに買いに行ったときに見た値段設定と完全に一致してて笑っちゃった)、推しに似合わない別人みたいな甘いボイスを聞いて笑っちゃう気持ち(シチュエーションボイス的なものが本人と乖離している時のあの微妙な安らかさ)、短い一言からいろんなことを想像して泣きたくなっちゃう気持ち(知っているから)。全部、そうだよねって思った。わかるよ。わからないけれど、わかる。そうだよね。好きだから。愛だよね、愛しさだよね。そうだね。
 歌が上手いから好き、話が面白いから好き、顔がかっこいいから好き、運命的な出会いをしたから好き、どこか共鳴するものを感じたから好き、性格の解釈をして好ましいから好き……。全部後付けか、もしくは遊戯のような理由付けなんですよね。全部そうで、全部違う。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆って、本当に上手い言い回しだと思う。息を吸って吐くから好きなの、って、いつか出会った女の子は言っていた。そうだよね。存在が好き、そういうもの。理由はあったしあるけれど、きっかけはとても劇的で、忘れることはないけれど、増えたり減ったり変わったり新しく生まれたりして、全部溶け合ってまなざしになる。
 推しという言葉は言葉でしかなくて、その言葉に託している意味は使っている人の数だけあって、決して同じではない。それでも、『推し、燃ゆ』の、あかりの推しに対する気持ちはよくわかった。異常な感情なんかじゃないとちゃんとわかった。私はそうだった。できればみんなにもそうであって欲しかった。多分、推しを知らない人たちは、そうだよね、とは思わない。いつか伝わったらいいと思う。

 よく、「推しってなに?」と知人に聞かれる。説明しても、上手くは分かってもらえない。実感がないから。「かわいいってなに?」も同じ。推しはかわいくて、ピンクとかフリルとかじゃない、ななつのこに感じるかわいさと同じかわいさを持っている、という天才的な説明に脱帽。つまり愛しさ、慈しみなんですね。守ってあげたくなる、切ないかわいいは最強だから。今度、「推しってなに?」と聞かれたら、一度『推し、燃ゆ』読んでみてって紹介しようかな。

 推しへの気持ちを描くにあたって、この冷静な方法をとってくれてよかった。衝動的で熱量重視で苛烈な描写じゃなくてよかった。これなら、推しを推すわたしたちの物語として迎え入れることができる。

 共感、リアル、感情の面で同じところに立ってくれたあかりとは反対に、宇佐見りんは徹底して物語に対して距離をとっている。ひどい、とさえ思う。好きな酷さだ。現実を見据えている冷たさだった。

 推しを推さない私はあたしじゃない 推しのいない人生は余生だ


 推しを推すことがアイデンティティになっている主人公、でも私たちもそうでしょう?ミステリを読まない私、映画を観ない私、コンテンツに触れない私。ひとつひとつ失うたびに、別の「わたし」に人はなる。私もなる。今の、真幸を推しているあかりは、推すことをやめてしまったら死んでしまう。推し事は、そこまで深く彼女の精神に関わっている。推しの死は自身の死だった。

 アイドルでなくなった彼を解釈し続けることはできない

 とても分別があるファンだと思った。アイドルでなくなった推しは、推してはいけない。推せない。この世には、推せる人・推していい人と、そうでない人がいる。この境界を意識しているのは、とても理性的だと思う。あかりと推しには隔たりがある。安らぎを、安心を、快適さを産んでくれた隔たりは、それでも壁で、絶対的なものだ。推しているときも、推せなくなったときも、最初から最後まで、その隔たりがなくなることはない。なくなってはならないし、なくなったら推しはまた違う形で死ぬだろう。
 引退したら推しは推しでなくなり、「人」に戻る。そうあかりは思った。そう書かれていた。こんなに理性的な視線があるだろうか?
 推しは人じゃない。人ならざる何かなのだ。人よりも素敵で、神々しくて、素晴らしいもの。そして、人らしさを、人権に近い何かを奪われたもの。人でない自分を受け入れているもの。だから、推しのことは推していい。人ではないと、最初から提示されているのだから。
 芸能人、配信者、キャラクター。初めから、解釈され愛を向けられ好き勝手に欲望を押し付けられ見られ望まれ推されることを受け入れている存在。(もちろん人によるとは思いますが)
 推している相手のことを人間扱いしていないって考えながら誰かを推している人って、どのくらいいるんでしょうか。そう多くはないんじゃないかな。推しを、消費しているって、自覚している人はどのくらいいるんだろう。あかりはその上で推しを推していて、炎上なんかじゃ嫌いになんてならなくて、解釈違いも起こさなかった。自覚的で、冷静で、強い気持ちを持った良いオタク。うん。でもとても怖いです。

 この作品を、この温度感で書ける作者に畏怖がある。技量、賢く適切な配置。見抜く視線。すごいと思う。尊敬する。間違いなく筆力ある作家だと思う。そして怖い。

 コメントを打てなかったあかりを見たとき、また、そうだよねって思った。何も不思議じゃなかった。そうでしょ。打てないよ。あかりには。推しとファン(便宜上の呼称)って、そうだと思う。あれだけ熱量を注いでたんだから、望む様子を見せてたんだから、なんて思えるひとは多分推しがいない。いやいるかも。でも、うん、私にはとても当然に思えました。打てないよ。打てないよね。

 好きなものは、失っても自分のからだに残っている。いのちの構成要素のひとつになって。忘れても、いつか記憶のひとかけらを思い出す。だってそれは自分だから。わたしそのものになる。そういうものだと思う。推しとあかりは重なりあっていて、あかりの解釈した推しはあかりの中にしかいなかったとして、その推しはあかりの中に確かにいるということになるでしょう。何かを好きだと思うたび、似た声を聞いて、もしくは全く関係のない場所で、ずっと重なり続けていくの。そうなの。そうやって、生きていくんじゃないか。

 あかりの置かれている環境、状況は、何もかもが幸福な世界なんかじゃない。でも、肉も骨もあかりだ。全て抱き合わされていて、ひとつのもので、混ざり合って、そういうものだ。推しを救いとして、清らかなものとして、聖なる遺骨として後生大事に飾っておくのもそれはそれで素敵だと思う。けれど、生き抜くための選択として、あかりはそれを選ばなかった。わかった、と彼女が思った。それが終わりで、全てで、それ以上でも以下でもない。

 そうだね。この小説に対する感情は、全部この一言で済んでしまう。
 それでいいとも思う。少なくとも私は。


○蛇足

 これは読書感想なのか?正直『推し、燃ゆ』に巨大感情があるわけではない(これだけ書いておいてよく言いますが)のですが、最近読み直したのでね……。日記としてはそれっぽいのかなと思います。ミステリ以外を読むとこういうことが書けていいですね。『推し、燃ゆ』、最終的な感想としては、とてもよく出来ている作品、適切、わかる、以上。好き嫌いで言ったら、まあ普通に好きかな……。感情がめちゃくちゃ揺さぶられるという感じではなかったけれど、共鳴はすごかった。私が無感動な人間だからかもしれない。琴線は人によるからね。心血注いでた推しが引退したこと、まだないし……。作家は続刊を出してくれています。殊能将之は出会いが遅かったのでノーカウント。
 ちなみに私は推しを神視点から高く評価するタイプのオタクです。推し、好きなもの、全部お気に入りの本に見える。何度でも最後まで読みたいけど、本と肉声で会話したり、本にケーキを食べさせたりしない。


○宣伝

 先日、小説系Vtuberの書三代ガクトさん(@sho3dai_gct)とイシュア=シュキさん(@IsyuasyukiV)と『推し、燃ゆ』の読書会配信をしたので、もしご興味のある方はぜひアーカイブの方を確認してみてくださいませ!書いてないことも色々みっちりお話しています!
(読書会配信で使わせていただくにあたって、改めて書籍版の方を購入いたしました)


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