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【最初で最後の一打席】野球大好き少年が3年5か月間の松葉杖生活を乗り越えた後の感動の結末

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あなたはこんな言葉を聞いたことがありませんか?

「苦あれば楽ある」

「人生山あり谷あり」

「明けない夜はない」

このような言葉があります。

これは僕が体験した苦労を乗り越えた先にあった、
最高の喜びを伝える物語です。

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2016年6月。場所は渦潮が有名な徳島県。

当時は半袖でも汗が出る日だった。

その日は僕の忘れられない一生の思い出の日になった。

この物語を見て、

辛いことがあってもいつか必ず、
笑える日が来るということを知ってほしいと思います。


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ぼくは小学1年生のころから野球を始めました。

そのころから野球が大好きな少年で、
もちろんプレーをするのは大好きですが、
試合を見るのも大好きでした。

ぼくは広島出身なので広島カープファンです。
だからジュニアカープの会員で、
旧広島市民球場が近いのでよく試合を見に行っていました。

しかし、それよりもはまったのが

高校野球”でした。

あの全力プレーで観客を魅了する姿や
3年生最後の夏のために苦しい練習に耐えてきて
甲子園をかけて全力で試合をする高校野球が大好きでした。

ぼくが小学校3年生の時、いとこに
広島の強豪校、

広陵高校”の試合に連れていかれ、

そこからハマりあげました。

ユニフォーム、応援団、プレーする選手、
すべてがかっこよく見えました。

それからは、

毎年一人で旧市民球場へ1回戦から決勝戦まで試合を
見に行き毎年500円で売られているパンフレットを
集めたりしていました。

パンフレットは広島県のすべての高校の選手の名前が
記載されていて、
出身地も記載されていて、

「大阪からきとる!!!」

「沖縄!!??」

と見るのが好きでした。(笑)

「てか、ぼっちかよ!」

⇒クラブチームに入っていて、
小学校で野球をしていたのはぼくだけです。(笑)

このころから同学年に負けないほど、高校野球に憧れていました。

中学生になっても旧広島市民球場からマツダズームズームスタジアム
新しくなっても自転車で汗を垂らし、
ジュースを飲み、アイスを食べながら時間をかけて高校野球を
見に行っていました。

中学生になるとクラブチームの野球友達が増え、
みんなで見に行っていました。

それから、

中学生になり、そろそろ、とうとう待ちに待った、
憧れの高校野球が出来るとわくわくしていた矢先、
歯車が狂いだしました・・・

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中学2年の冬の出来事でした。

中学生らしく、休憩時間
鬼ごっこをしていると突然股関節が

「ポキッ」と小さく音が鳴り、
股関節に違和感を感じました。

そのときは違和感がありましたが、

どうせすぐ直るだろ!」と考えていました。

当時、違和感を感じたのが冬の時期で
野球をしている人はわかると思いますが、

野球部の冬=陸上部です・・・
とにかく走ります。

それがさらに追い打ちをかけるのでした。

最初は股関節の違和感でしたが、次第に
違和感⇒痛みに変わっていきました。

しかし、負けず嫌いの性格がさらに
状況を悪化させていきました。

休めばいいものの、
休んだら周りより遅れをとると思い、
絶対に練習を休みたくありませんでした。

その頃から、
練習の前には必ず、
ロキソニン(痛み止め)を服用していました。

痛みはどんどん激しくなり、
歩き方もおかしくなり、会う人全員に

大丈夫?」と声を掛けられ、

それでもぼくは

どうせ治るだろう!」と思ってました。

ぼくらは中学3年の夏に引退で、
それまでは薬を服用しながらなんとか耐え、
中学の野球を引退しました。

野球を辞めて1ヶ月しても痛みがとれず、
ついに初めて病院に行きました。

これが悪夢の始まりでした。

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広島にある小さな整形外科に行きました。
レントゲンを撮り、結果を医者が言う。

「すぐにこちらの大きな病院に行ってください」

ぼくは確信しました。

「これやばいやつじゃん・・・」

後日、
広島でも大きな大学病院に行き、
そこでもレントゲンを撮り、
結果は、

「手術です」

病名は

大腿骨すべり症”でした。

 ほんとなら病室が空くのに5か月以上待たないといけないのに
手術日は2週間後。

その病は成長期の男性が10万人に1人の確率でなる病で

「なんで俺なんや。」

ととても悔しかったのが鮮明に覚えています。

いよいよ、やばい状況なんだと実感しました。

それでもぼくは、
「1ヶ月くらいでまたスポーツできるだろ!」

と吞気に考えていました。

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中学3年の9月。1度目の手術が行われました。
股関節にボルトを入れ、固定する手術でした。

それから1ヶ月間の入院&リハビリ生活。
ナースさんがいたから頑張れました。(笑)

手術して1ヶ月間入院してこのように思いました。
「歩けるようになる気がしない。」

手術したほうの足は絶対力を入れてはいけない。
とても苦痛の日々でした。

しかしそれでもモチベーションだったのは

”高校野球がやりたい。”

この思いでした。

それから退院しましたが、
松葉杖でした。

この時は思いませんでした。

松葉杖を3年5か月も使うことになるなんて・・・

退院したぼくは同級生が休憩時間にサッカーを
しているのを教室の窓から見るだけ。

「ドラマかよ!」

それでも同級生が時々、

サッカーのキーパーをやらせてくれて、

松葉杖を使ってキーパーしていました。
松葉杖があれば日本代表の川島永嗣にも匹敵していました。

「うそです。」

そのころから、
さらにしてはいけないことをしてしまい、
結果、

更なる最悪な状況を自分で招くのでした。

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この頃から、松葉杖に慣れてきた僕は、

「そろそろ大丈夫だろう。」

と勝手に判断し、

勝手に歩いたり、
ボーリングをしたり、野球の素振りを行っていました。

医者からは手術した足に体重をかけていいのは5割程と
言われていましたが破っていました。

中学3年の3月。
中学の時に所属していた野球のクラブチームの
同級生と親で大分県の杉乃井に旅行に行きました。

この旅行は結果、
最大の悪化する原因を作ってしまう旅行になりました。

旅行となるとやはりテンションがあがり、
松葉杖で思うように動けないのが苦痛で、
松葉杖を使わずに過ごしていました。

杉乃井ホテルではボーリングをし、
次のテーマパークに行き、

アトラクションが松葉杖あるの邪魔で乗れないので、
すべて松葉杖を使わず、
遊園地を楽しみました。

しかし、足は楽しむことはなく悲鳴を上げていました

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高校に入学して野球部に入部した僕は、
まだ松葉杖だったので、
もちろん野球をすることはできず、

筋トレをしたり練習を見たり、
出来ることをしていました。

周りが野球できている中、

「おれは何をやっているんだろう。」と

歯がゆい思いをしていました。

いつも思うのが、

「なんでおれなんだろう。」

考えても仕方のないことですが、
常に頭にありました。

中学三年の9月に1度目の手術をし、
そろそろ1年が経つ頃でした。

1度目の手術の時、医者から

「1年で治る」と言われていました。

しかし、
無理をして手術した足を使っていたので、
痛みが治らず、本当に治るのかなと考えていました。

それから病院に行くと、
案の定聞きたくない答えが返ってきました。

病名は大腿骨すべり症から、

「大腿骨壊死骨端症」という病にかかりました。

「手術をする。入院の準備をしてください」
「どれくらいで治りますか?」

と聞いたところ、答えは

「1年以上かかります。」

高校1年の秋に病院に行き、
1年以上。
ということは高校野球をするのは無理でした。

「なんでおれが。」
「神様なんかくそくらえ」

小学校から高校野球に憧れていたのに、
目の前にして、出来ない。
これほど悔しいことはありませんでした。

その時初めて病室で泣きました。

・親に申し訳ない気持ち
・野球が出来ない悔しさ
・後悔

様々なものがこみ上げてきました。
始めて、人生がどうでもよくなりました。

それでも何とか耐えることができたのは、

・毎日病院に来てくれる親

・自転車で時間をかけてきてくれる中学、高校の友達

このとき僕は、

「幸せものだなーー。」

と感じました。

辛い入院生活、リハビリを乗り越えて無事退院しました。

入院期間は3ヶ月。

泣きそうなくらいの痛み、思うように動かせない足。

それでもなんとか乗り越えました。

それから、退院し大きな決意をしました。

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ぼくは退院しました。

そこでぼくは現実を見ることにしました。

「高校野球でプレーするのは諦めよう」

そして、

「チームのためにサポートしよう。」

そう決断しました。

それからは、
今まで自分の筋トレや、自分のことしかしていませんでしたが、

・部室の掃除
・練習の手伝い ・ノックをうつ ・試合のスコアを書く
・飲み物を用意する
・試合のビデオを撮影

足に無理がない程度に自分に出来ることは
なんでもやりました。

でも、
悔しい気持ちはなかなか消えませんでした

それでもチームメイトの

「いつもありがとう!」
「ノックうってほしい」

そんな言葉をくれるから頑張ろうと思いました。

さらには監督から

ぼくにノックバットをプレゼントしていただき、
とてもうれしかったです。

さらに新チームになって最初の大会。

秋季大会でなんと

「広島県で優勝」

プロ野球選手になった投手相手にも勝利し、

みんなのためにがんばってよかったなと思いました。

それから月日は流れ、
最終学年になりました。

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それから月日は流れ高校3年生。

とうとうその時が来ました。

高校3年になる前に春休み、
とうとう松葉杖がとれ、
自分の足で歩くことが許されました。

このとき当たり前のことがこんなにも
幸せなんだなということを知りました。

しかし、
松葉杖が取れたからといって、
野球ができるわけではありませんでした。

それからも変わらず、
チームのために自分が出来るサポートを
一生懸命しました。

そして、高校3年の6月。
すべてが報われた時が来ました。

高校3年の6月。
徳島県に高校3年生全員で遠征に行きました。

しかし、ぼくはいつもように試合のビデオ撮影。
その試合もビデオを撮影していました。

試合も終盤にさしかかったとき思わぬことが起きました。

ビデオを撮影していると、
同級生が僕のところに来て、

「監督がよんどる!」

そう言われ、ベンチに行き、監督の元に行きました。
すると監督は、

「足大丈夫か?」と言われ、
ある程度完治していたので、

「大丈夫です。」
「次の回試合にでるぞ。」

ぼくは思わぬことを言われ、びっくりしました。
それよりもうれしさが勝ちました。

道具を何も用意していなかったぼくは

どうしようかなと困っていました。
するとチームメイトが、

「おれのスパイク使っていいよ!」
「手袋使っていいよ!」
「バット使っていいよ!」

すべての野球道具を貸してくれました。

そしてついに憧れの高校野球をするときが来ました。

バッターボックスに入り、
3年ぶりのバッターボックスから見る光景は
とても懐かしかったです。

3年以上野球をしていなかったので誰もが、
結果を期待していませんでした。

打席に立てただけで幸せ。しかし奇跡が起きました。

誰もが打てないだろう。そう思っていた矢先。

ピッチャーが投げた第3球目。

ぼくはその球をバットで打ち返しました。

するとファースト、セカンドの間を抜け、

「ライト前ヒット。」

野球をしている人ならわかると思いますが、
野球をしていない期間が3年以上。
しかも最後にしたのが中学生の時。

普通は打てないでしょう。

しかし、
ヒットを打つことができました。

これは僕の力ではなく、

・応援してくれたチームメイト
・野球道具を貸してくれたチームメイト
・試合に出させてくれた監督

皆の力で打つことができました。

このときこれまでの苦労が報われたなと思いました。

こちらが実際の映像です

https://vimeo.com/403852717

辛いことがあっても
必ずその先に良いことがある。

それを教えてもらいました。

本当に辛いことがありました。

これ以上辛いことはこの先あまりないと思います。

僕一人ではここまで耐えることができなかったでしょう。

・親

・チームメイト

・友達

・野球部の監督、コーチ

様々な人の支えがあり、
乗り越えてこれました。

あなたも辛いことがあっても、
我慢してください!

その先に明るい未来が見えなくても、
今は耐えてください。

必ずその先に明るい未来が来ます!


※これはフィクションではありません。(笑)

















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