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社会貢献の意識と当事者性

昨日ある会社の面談を受けていた。カジュアルな面談ということで、ざっくばらんにお話させていただいたのだが、そこで「なんで社会貢献に取り組みたいのか?」という質問を受けた。

ソーシャルセクターにこれまで以上にコミットしたいと言っているし、ファンドレイジングをやっていきたいと言っているし、これまでもそれなりに取り組んで来たけれど、改めて聞かれるとなかなか難しい。

最近、感じているのは、社会課題にもっとお金や人などのアセットが注ぎ込まれるような、社会のデザインが必要だということだ。それはそうなのだが、なんかそれって根源的な体験ではないよなとも思う。。。

そこで話をしていてふと頭を過ぎったのが、まだ横浜に住んでいたといた時に近所のコーヒー焙煎屋さんで世間話をしていた時のこと。そこは障害者の就労移行支援施設にもなっていて、僕は自分の統合失調症という病気の話もしていた。

ある日、言われたのが「加藤さんも統合失調症の人のために何かしたいと思わないですか?」ということだ。言われてみれば、当然のことだ。精神疾患、統合失調症の当事者として、自分と同じ悩みや困りごとを抱える人のために何かできないか?ソーシャルグッドとか言う、随分手前にそういう話はあるべきところだろう。

が、僕はあまりに統合失調症という皆目検討つかない難敵に太刀打ちするのに、自分の症状としての対処はできこそすれ、そういう人たちの就労とか、社会復帰とか、自立支援とかいうことに、アイデアもなかったし、なにかできる気もしなかった。

というところに、もどかしさがあったんだな。

先日、ITに特化した就労移行支援の企業さんの話を聞いたのだが、そこは統合失調症の患者さんもカバーしているらしい。逆に親を頼れない子どもたちが虐待を受け、統合失調症を患ったり、逆にその親御さんがそもそもそういう疾患を抱えているということもあるようだ。

気が付けばそう遠くないところにいた。

就職を諦めたり、フリーランスを選んだり、入院をしたり、経済的に自立していくことに悪戦苦闘したり、苦渋とは言わないが、それなりにタフな人生だ。そういうちょっと悔しいような、口惜しいような、経験って、やっぱり社会貢献に関わりたい、みたいなことに少なからず繋がっているんだな、と感じた。

こないだこれからお世話になることになった近所の会社の面談を受けている時に、体調を崩した話をしたら「お辛い思いをされたでしょう」みたいなことを言われたので、咄嗟に出たのが「まあ、人生の肥やしだと思えば」という言葉だった。そう「人生の肥やし」。

おそらく、統合失調症の当事者としての経験がなければ、ET Luv.Lab.もユレッジも生まれてなかったし、カナエールやコエールにも関わらなかったかも知れないし、今、40歳を過ぎて、ファンドレイジングに関わりたい、というような話にもなってなかったかも知れない。

自分のハンディキャップがアイデンティティになるような感覚は僕は持たないんじゃないかと思うままに病気と向き合って来たけれど、こと、モチベーションの深いところに当事者性というのは根付いていて、反骨精神なのか、ハングリー精神なのかわからないけど、そこから突き上げられるものにここまでドライブされて来たのも確かなんだろうという気がする。

以上、僕の当事者としての社会貢献へのモチベーションについて少し書いて来た。

ところで来月、サポートしているコエールというイベントがいよいよ開催される。親を頼れない子どもたちによるスピーチイベントだ。当事者が広く一般の人に自らの声を届けようという試みだ。ここには、社会貢献の意識と当事者性の一つの形があると思う。

社会が本当はどうあるべきか?社会がよりよくなるにはどうするべきか?当事者としての経験が、社会をよりよくしていく可能性はあると思う。滅私奉公だけが社会貢献ではなく、社会のあるべき姿を提示できることは大事な社会への貢献だ。

くしくも参議院選挙を控えているけれど、政治家の描く未来と、こどもたちが描く未来の、どちらにリアリティがあるだろうか。


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