三十路インタビュー: Andreas Dose 活動家&教育家 1/2

色々と紆余曲折ありましたが、三十路インタビューまだ続けていきます。というか、三十人の人生に問う!ということで始め、残り三人ですか、、、頑張って走り続けたいと思います。さてさて今回インタビューさせていただくのは教育家です。青年教育というか、高等教育に進まない若者の支援でにほんでいうひきこもりとか進路が決められない人達を育てております。

彼はまた面白い企画をやっています。そのことについて聞こうと思って一つ質問をしたら、30分ほどノンストップで話してくれました。ということで、三十路インタビュー始まっていらいの二部構成となりましたが、今回は前半部分。ドイツ人で教育家といえば、話も止まりません。では、楽しんで読んでみてください。


>>さっそくですが、自己紹介をお願いします<<

私は、Andreas Doseです。53歳になったばかりです。1965年にDessauという町で生まれ育ちました。Dessauは歴史がある町だけど第二次世界大戦では90パーセント以上の建物が破壊されました。当時は戦闘機の部品を生産していたからね。

彼の事務所にレッツゴー

私は5歳からいろいろなことを理解するようになって、その時のことを思い出すことができるんだどね、当時は古い建物には銃弾の跡が残っていたりとね。東ドイツの時代には新しい団地が建てられたけど、古い建物がリノベーションされることはあまりなかったんだ。私の家族はがちがちの社会主義者達でおじいちゃんはSED (Sozialistische Einheitspartei Deutschlands: ドイツ社会主義統一党) の党員で今でいう大きな工場の工場長だった。私の両親も両方ともその工場で働いていた。父は技術者で工場のチームのリーダーをやっていて、母はデータの処理とか書類処理をしていた。

さっきも言ったけど、5歳くらいから記憶がめきめきとでき始めてね、その時に初めて第二次世界大戦時代のナチスの強制収容所Buchenwald(ブーヘンヴァルト強制収容所 - Wikipedia)というところに訪問したんだ。5歳だった私は一部を見学することが許されなかった。その展示内容を両親に聞いたら、銃弾で打ち抜かれた心臓とか子どもにはかなり衝撃的なものが展示されていたらしかったのだ。現代では色んな問題で展示できなくなっているものもあったんだ。両親はその際に私にナチスの話とかをしてくれたんだかけどね、私は安定した暖かい家族で育ったから、それはそれは衝撃的だったんだ。なんといういかその衝撃は私の人生を確実に変えたし、私の生きる道を示してくれたような気がしてるんだ。

「Nackt unter Wölfen」 という本を知っているかな?(Nackt unter Wölfen – Wikipedia ) Bruno Apitz という著者がBuchenwaldの強制収容所にいた話について書いているんだ。いつか強制収容所で生き延びた人の話を聞く機会があったんだ。その話をしてくれた人は「ペペ」というあだ名で呼ばれてね、あのBrunoの本にもペペがでてきてね、そしたら、彼はやっぱり本に出てきた張本人で、歴史と現実が重なったんだ。その時のショックが強いから今でもそういった社会活動に身を置いているのかな、と思う。長くなったけどこれが私の自己紹介かな。笑


>>Doseさんはどうして現在の仕事についているの?<<

自分は東ドイツ時代から教会に通っててね。それが深いところにある。当時あまり言論の自由がなかった東ドイツ時代でも教会では色々なテーマについて話し合うことができたんだ。そしていつも人と生きてきた。
老人をサポートするボランティアもしたりした。ある人は一日に一杯のワインやシャンパンしか飲まない方でただ死んだ旦那さんのところに行くのを待っていた人。時にはボクシングをやっている人。いろいろ人生を教えてくれたんだ。戦争の前では何をして稼いだとかいくら稼いだとか。その中で過去とか歴史の重要性とか意味を強く感じていたかな。教会関係の人を通して、さらに人と知り合ったんだ。そこで人形劇をやっている人たちと仲良くなって人形劇の俳優が自分の夢の職業になって、、Berlinの大学に行って俳優というものを学ぶことにしたんだけど当時はDresdenに住んでいる彼女がいて、最終的に遠距離は難しいからと夢を選ばずに彼女を選んだんだ。
そして彼女と結婚するために現実的に何か手に職をつけようと「道具をつくる職人」の職業訓練を受けることになったんだ。そしてすぐ後に兵役もあったんだ。当時は簡単に兵役拒否できなくて、兵隊のサポーター役でスコップを持って基地を作ったり、ひたすら何かを掘っていた。
一年半の兵役終えて家に帰ったんだけど、道具職人もする気も起きず。そのときになぜか幼稚園の先生になろうと思って、職業訓練を受けなおすんだ。その職業訓練学校はちょうど東西ドイツの統一があって多くの見直しがあって結果的に職業不足になったんだ。

私が実習していた幼稚園で応募があったんだけど、当時「男」の幼稚園の先生はまだ少なくて、保護者会では「男の先生反対運動」もあって幼稚園の先生になるのは辞めた。そして自分が何ができるのか考えたら、教育については学んだし道具を作る職業訓練もしてたから、もう少し勉強して職業学校の先生になることにしたんだ。それが現在の仕事だ。

現在は職業訓練の先生兼サポーターをしている。中卒の人とか、学校を途中で辞めた若者とか「教育の機会」に恵まれなかった若者と一緒に将来を探す感じかな。良くも悪くもここでの経験を通して劣悪な環境で育っている若者がいることを知ることもできて、そういった経験を通してそういった若者をサポートしようと自分プロジェクトをするようになったんだ。

いつかある少年が私に真剣な顔をして「ヒトラーっていつベルリンの壁を建てたんだっけ?」と聞いてきてね。本当にショックだった。自分と同じ国で育っている人でそんなことを本気で思っているなんてね。彼らの背景を見てみるともう家庭もめちゃくちゃで、その親自身が学校行ってなかったりとかあるんだ。そんで少し調べてみたら授業計画では中卒だったら、ヒトラーの話やベルリンの壁のことや民主主義が何なのかなど現代に必要な教育がずり抜けていることに気がついたんだ。つまり私たちがどんな流れの上に、現在の民主主義の社会に生きているのかという繋がりも教えられない。そんな人たちがこの民主主義社会をどう生き抜いていくのだろうか。これは私たちの責任でもあるのかな、とも感じるよ。政治を見るといつも教育に回されるお金が削られていくのだよ。なんというか福祉社会にあるべきの、「お金をたくさん持っている人が持っていない人をサポートする」という考え方が薄れてきているんだよ。

今の話題の右翼AFD(ドイツのための選択肢 - Wikipedia)のこともね、一つは若者が善悪の判断できないんだよ。AFDの言葉はさ、あなたたちが不満に思っていることや抱えている希望は全て正しいというんだ。「正しいとか正しくないの単純な問題ではなくさ、大事なのはそれが実際の社会でどう機能するか」ってことでしょ。それがわかっていないんだ。

強制収容所を生き延びて、東ドイツの崩壊も見た人の話でね「私はナチスや社会主義、そして資本主義など様々なシステムを見たけどね、システムとか以上に大事だと思うのはそれぞれが人間として生きることが大事、それは社会の中で他者と生きるということを理解することだ。」ということを言っていてね。私なりに解釈するとだね、「社会にいるすべての人は何かできることをすればいいんだ。それを探せばいい。」それが前提条件になるべきだ。

現在はびこるエゴな社会よりも、誰もがそれぞれの社会問題や課題を解決できる受け皿であることを意識することが大事だと思うし、そうあるべきだと思っている。だからさ、自分が面倒を見てた若者が子ども出来てさ、社会の中で一つの機能となって他人を助けたりするのを見ているとさ、なんというかほっとするよね。サポートがもらえる人はそれに感謝して、サポートする人はそれがどんな職業でも人を助けることはできるからね。

話を戻すとね、そういうこともあって辿り着いたのが、教育機会の少ない若者たちと「感情の日記 (Tagebuch des Gefühle)」というプロジェクトを始めることになったんだ。


この話を聞きたかったのだが、後半に続く



。。。とても長いインタビューになりました。これが前半です。とにもかくにも、後半は彼のプロジェクトに近づいてみようと思っています。



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