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「ちがう」に慣れていきたい

アクセスありがとうございます。
越路つぐみです。


人と関わっていると、同じ意見/違う意見に出会いますね。
私たちは、同じだと安心したような、まるでそれが正しいかのように感じることが多いのかなと思います。

でも一方で、「ちがう」だと一瞬ドキッとします。
これは私だけでしょうか。


先日ちょっとした依頼を受けました。
私は先方が仰った条件のまま引き受けることが可能だと感じたので、そのまま引き受けたわけですけれど、そのことを知った周りから「お話したい」とお声がけがありました。

伺ってみますと、私が「まぁいいか」と思っていた条件の1つが、その方にとっては「まぁいいか」と捉えることができない、引き受けてしまうことが、私に無理をさせていたり、遠慮をさせているのではないかとのことでした。

私は「まぁいいか」でしたので、その理由もお話をしたわけですが、理由を聞いても相手の方は「まぁいいか」にはならない。
私は「まぁいいか」だけれども、このまま自分が感じたことをそのまま知らんぷりするのが難しいので、依頼先に話をしてみたいとのことでした。

内輪で起きていることですし、相手の方が気になるというのであれば、「自分が気になるのだ」というスタンスでお話しいただくことは問題ないので了承しました。
この1件は私からすると、相手の意見は私では想像もできなかったことでしたので、ちょっと戸惑いました。


しかし落ち着いてよく考えてみると、相手の方の視点や元々の大切にしているものを鑑みたら当然のご意見であったように感じています。
私たちは言葉を交わし、話をしましたが、この件については最終的な意見(このまま引き受けてよいか)は同じにはなりませんでした。
依頼先へのアクションは、相手の方の行動を受け容れることで同じになりましたが、もともとの考え方は違ったままです。


私はそれでよかったと思っています。
私たちは生きている過程の中で様々なことを経験し、取り入れ、その先につなげています。
誰一人として人生を同じように体感することはないのですから、考え方やアクションなどに違いがあるのは当然です。


ですが、「違っていた」がやってきたとき、多少なりともドキッとします。
もしかすると、違うことで何かしらまずいことがあるのかも…と感じていたりするのかもしれません。


足並みをそろえていくために同じにした方がいいところもあれば、違っていることが広がりを見せたり、結果として足並みがそろうことにつながることもあります。

そういった意味でも、違うに慣れていく必要があるなと感じましたし、違っていた時に「相手には相手の世界がある」と感じながら関わっていくことはとても大切だと感じました。


ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
またの機会に。

サポートしてもいいかなと思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いします。 いただいたサポートは、何らかの形で社会に還元します。