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法事の後

 長年、仕事終わりに冷えたビールを飲むのが生き甲斐のようなものだった。
 グラスを掴もうとした手が空を切る。客は皆帰り、目の前に今や誰のものでもないビールや寿司が並んでいるのに、俺はただただそれを眺めることしかできない。仏前の小さな茶碗には少量の米が盛られ、そしてこれまた小さな湯呑みには水が入っている。俺が口をつけることができるのはこれだけだ。酒と寿司を供える文化だったら良かったのにとため息をつく。
 俺はこの家に嫁をただ一人置いてきた。それなのに仏壇は俺のために用意され、まるで俺がここにいることを主張するかのように毎日お供え物が置かれている。そんなものは必要ないと言うこともできない。その優しさが辛い。

 俺は、この家の主だった。死んでもなおこの世界にいるのは、自分の死を受け入れることができないでいることの表れなのだろう。一体何に未練があるというのだ。

「そろそろ線香が終わるね」
嫁がそう言いながら俺の横に座る。線香独特の香りと白い煙が立ち上り消えていく様子は不思議と寂しさを覚える。嫁の顔を見ても面白くないので、部屋をぼんやりと眺める。ここは家の中でも一際立派な客間だった。だが今のこの状態を見た人はきっと笑うに違いない。畳は擦り切れてささくれができている、窓枠も少し歪んでいるからだ。掃除も適当だったせいか埃っぽい部屋の中で嫁が座布団に正座する姿が妙にしっくりきている。俺よりもよっぽど似合あっていると感心してしまった。目を閉じ、手を合わせる。その行為だけが唯一彼女を生者らしく見せているように思える。こんなことを言った日には殴られてしまうだろうか。いや、それも悪くはないかもしれない。

 生きているときよりもずっと彼女のことを考えるようになった自分に苦笑しながら、それでもやっぱりどこか安心している自分もいることに驚く。
「少しいただきますね」
嫁が小さい缶のプルタブを引くと、プシュッという音が耳に響く。待ち望んでいた音だったが、俺はまだそれを飲むことができなかった。彼女が飲んだ後に一滴舐めるだけでも良い。嫁は酒をほとんど飲めないのだから、どうせすぐに酔いつぶれることになるだろう。嫁は一気に半分ほど飲み干し缶を置いて小さく声を上げる。相変わらず美味しいとは思ってなさそうな表情をしていたけれど、その瞳は潤んでいて何かしら満足げではあった。彼女もまたあの頃の思い出に引きずられて生きているのかもしれない。

 嫁が壁にもたれかかりゆっくりと目を閉じると、俺の手でもようやく缶を持つことができるようになった。ゆっくりと持ち上げ、口をつけてみる。温くなっているということはないのだけど、やはり物足りない味がして、喉を通る時には少し痛かった。しかしそんな感覚さえも久しく忘れていたことだったから新鮮な気分になる。
 横で目を瞑っていた嫁はいつの間にか眠りに落ちてしまっていて静かな寝息を立てている。酒によってやや上気した頬に触れると温かい。ふと、俺の未練は嫁なのかもしれないと思った。今もこうしてもうこの世にはいない俺のために日々を過ごしてくれている有り難さ。死んだ人間は皆平等だと言うけれどそんなことはないと俺は思っている。死者への扱い方には個性が出るのだ。嫁は本当に良くしてくれていたと思う。俺のことを気遣ってばかりで自分が辛くなってはいなかっただろうかと心配してしまうくらいには献身的に世話を焼いてくれたように思う。感謝の言葉だけでは到底伝えきれないほどの恩があったはずなのに、俺はその気持ちを表す術を知らず、何も伝えることなく死んでしまった。それがひどく悔やまれる。

 彼女の頬が冷たくなるまで俺は成仏できないだろうなぁとぼんやり考えながら、最後の一口を飲み干した。

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