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【小説・読むセラピー】あなたが世界を愛する日(1)

「自分は男の子だったら、よかったのに」
5歳の小鳥 優(ことりゆう)はいつも残念に思う。弟が生まれて、両親が弟を大切に扱い始めてからそう感じている。悔しいという気持ちも混じっている。どこか落ち着かない。ここが自分の居場所ではない感じだ。

大好きなカレーを食べているときも、幼稚園の友達とおもちゃで遊んでいるときも、一人で絵本を読んでいるときも、どこか気が晴れない。
ママやパパが弟を褒めるのを見るだけで、ざわざわする。女の子に生まれた自分は、そんなに褒められたことがない。
「男の子だからだ。ずるい」優はそう思う。

ある日、ママとパパが弟の描いた絵を見て喜んでいた。ただそれだけのことなのに、おもしろくなかった。「ひいきにされていて、ずるい」と思う。優は、自分の居場所がなくなった感じがした。
昼間は幼稚園の友達やママと話したり、ご飯を食べたり遊んだりして気がまぎれるが、夜、布団に入って目をつぶると、一人だと感じてじわりと涙が出てきた。

「誰も私のことなんて、大切にしていない」
どこからも切り離されたような独りぼっち感。突然誰もいなくなったときの不安感。布団にくるまれてあたたかいはずだが、体の中心がすうっとした冷たさを感じる。
このまま消えていなくなってしまいたい。

寝ているような起きているようなうつらうつらした状態で、だいぶ時間が経った気がした。突然、背中がふっと暖かくなる。暖かい圧を感じた。ママがそっと優の背中に手をあてたのかもしれない。
優はあえて振り返らなかった。どこかホッとして、深い眠りに落ちていった。

*   *   *

「何かに…、乗っ取られたように…なったんです」
言葉を選びながら、真下 千果子(ましもちかこ) は小鳥優にゆっくりと言った。そして、少し間を置いた。
優は黙ったままうなずいた。「乗っ取られる」という言葉がひっかかる。両目から眉間にかけたあたりに意識を集中させ、全身から発している千果子のエネルギーを感じ取るようにした。

千果子は一重だが大きな目を右左に行ったり来たりさせている。ぷっくりとした肉付きのよい体型で、ぷっくりした左手はぷっくりした右手首を、その存在を確かめるようになでている。
顔、手指、バスト、ヒップ、ふくらはぎなど、ぷっくりとして尖ったところがないからか安心感を覚える。

胸元に小さなタックフリルがついた小花柄の薄いブルーのブラウスに、紺色のスカートを履いていた。小さな淡水パールのイヤリングをつけ、口紅もネイルもベージュでメイクは全体的に控えめ。派手さはないが、自分の身体一つひとつの細部を大切に扱っている感じがした。

優は小学校時代のひょうきんな同級生を思い出す。彼女もぷっくりとしていて、話すだけで笑いが巻き起こり、クラスがいい感じにまとまる。そんな愛されキャラの要素を千果子はもっている気がする。千果子も、ふだんは明るく冗談を言うタイプではないだろうか?
だが、今の千果子の顔色は暗い。言葉だけでなく視線にも重さがあり、周囲の空気全体を淀ませている。

「千果子さんが乗っ取られたのですね」
優は感情をこめずに、淡々と復唱した。
「はい。なんと説明したらいいのか。あの、自分ではないようなことをしてしまいました。自分が何かに乗っ取られてしまったようでした」
千果子は視線を下に向けて、言葉を探しながら説明する。

優は、話にちゃんと聞いていますよと伝えるために軽くうなずく。「自分ではないようなこととは、どんなことだろう?」と疑問が湧くと同時に「この重いエネルギーの根っこには、何があるのだろう?」という問いも思い浮かぶ。
いつも、思考は同時並行でスピーディに進む。目の前の相手が発する言葉や態度と、相手のエネルギーの両方を一度に処理していく。

「自分ではないこととは、具体的にはどのようなことだったのですか?」
優が質問をすると、千果子の視線は優の顔まで上がり、止まった。
「話せるならば…で結構ですよ、無理のない範囲で」
優は目でゆっくりと2度うなずいた。カウンセラー相手だとはいえ、話したくないこともある。まだ信頼されていないのかもしれない。
千果子は視線を落として、少し間を置いた。

「夫と2人で、外で缶ビールを飲んでいて。急に気持ちがモヤモヤしてきて、まだ飲んでいない缶ビールを地面にたたきつけて、思いっきり踏んだのです。ビールの中身は全部流れてしまいました。そんなことをなぜしたのか、自分のことながら分かりません。でも、どうにも気持ちがおさまらなくて、そうしたくなったのです」
優等生の千果子がビールを地面にたたきつけて、足で踏む。勢いでプルタブが外れて、ビールが道路にあふれ出す。泡立った液体。麦芽の香ばしい匂い。ツンとくるアルコール臭。映像や匂いが次々に浮かぶ。

自分自身の細部を大切にする千果子でも、そんな荒々しい行動をするのか。
「おかしいですよね、私」
 千果子はぷっくりとした両手で、頬をおさえた。
「いまだに、なぜそうしたのか、理解ができないのです。自分のことではないみたいで」
千果子の目には涙がにじんだ。今にもこぼれ落ちそうだが、踏みとどまっている。

「そうでしたか。自分のことではないみたいだったのですね」
「はい。夫にも結婚生活にも不満があるわけではないんです」
「不満はないのですね」
「もちろん、小さなことはあります。トイレの蓋を閉めていないとか、帰ってきたら靴を揃えないとか、料理はつくるけれど食器は洗わないとか。それはどこの家庭でもあることでしょう」
「そういう小さなことは、どこの家庭でもあります」
「なのに、なぜそんな風に感情を爆発させてしまったのか、自分でも理解できないんです」
「そうですか。そういうこと、あるものです。私も以前、経験があります」

優は共感しながら言った。うそではなかった。過去に感情を爆発させた経験は何度もあったし、暴力的な行動に出たことも1回ではなかった。
「職業柄、今までにいろいろ話を聞いていますが、そういう経験をお持ちの方は多いですよ」
そう。千果子よりも、もっと暴力的な人はたくさんいる。
「そうなんですか」
千果子は目をあげて、ホッとする表情をした。
「自分だけじゃないと知って、安心します」
千果子の発する空気が少し柔らかくなった。

「缶ビールをたたきつけて、踏んだ。その直前にどんなことがありましたか? 何かきっかけなどありましたか?」
千果子は遠くに目の焦点を合わせて、記憶を探り始めた。
「何があったか? 思い出せないですね…」
「お2人で、何か話をされていたとか?」
「あっ!」
千果子は目を大きく開けた。
「夫が甥のことを褒めたんです。才能があるねって。あまり笑わない人なんですが、なぜか心の底から嬉しそうに喜んでいました」
「そうですか」
「そう。ちょっとお恥ずかしいのですが、なんというか、盗られた気がしました」
「盗られた気がした」
夫が甥を褒める。盗られた気がする。缶ビールを叩きつける。

「嫉妬、ですね」
千果子が先に言葉を発した。優は肯定するように、うなずく。
「私は嫉妬していたんですね。今、気づきました」
千果子は自分で気づいた。千果子の周囲を覆う薄い膜が1枚はがれて、また少し緩んだ気がした。
「なぜ甥に嫉妬したんでしょう…」
千果子の視線があちこちに動き始めた。脳の記憶を探っているのだろう。

「その嫉妬の感情は、たとえていうと、どんな感じですか?」
「どんな感じ?」
「例えば、心臓のあたりがドキドキするとか、お腹のあたりが熱くなるとか、心がソワソワして落ち着かなくなるとか」
千果子は、ぷっくりとした手を頬にあてて考え始めた。
「胃のあたりが…、ムカムカするというか、いてもたってもいられなくというか、落ち着かなくなる」
「そうですか。そのいてもたってもいられなくなる感じ、昔にも経験したことはありませんか? できれば、一番古い記憶にまで戻ると、いつごろでしょうか?」

千果子は、眉間に皺を寄せた。視線の先が遠くなった。記憶の中を必死に探しているのだろう。沈黙が続いた。
優も沈黙し、待った。

「あ、そういえば。思い出しました。私、弟がいるんですが、弟は両親からよく褒められていて。明るくひょうきんで性格もよく、勉強がよくできて。親にとっての自慢の息子で、親も親戚も近所の人も弟をよく褒めていたんです。褒められるたびに、胃にムカムカが上がってきてました」
「弟さんが褒められたときに、ムカムカした気持ちになった…」
優はうなずいて確認する。
「すっかり忘れていました…。なんか、人としてダメだというか、小さいというか。そんな自分が嫌で、そんな自分が出てくると目を逸らして、なかったことにもしていました」
「ご自身をダメだと思いこんでいたのですね」
「はい」

千果子さんは優等生なんだな。いわゆる、いい人。正しい人のあり方を、もともと持っている純粋な人。優はそう思う。
「その目を逸らして、なかったことにしていたことが、本当の原因かもしれません」
「えっ?」
千果子は目を大きく見開いた。
「本当の原因というか、最初の火種というか」
「……?」
「例えば、木が燃えます。燃え尽きるとまっ黒な炭になります。バーベキューなんかで使う炭です。炭は炭のままでは何もありませんが、火をつけると炭火としてまた燃えます。その状態が、今なのですね」
「炭ですか…」
千果子は神妙な顔をしている。
「千果子さんは、甥ごさんに嫉妬したのではないかもしれません」
「え?」
千果子は目を丸く見開いた。
「甥ごさんへの嫉妬が炭火だとすると、それ以前に木が燃えた経験があったのかもしれません」

「……なるほど。弟への嫉妬が、今回、再燃したということでしょうか」
千果子さんは頭の回転が早いなと、優は感心する。
「弟さんに嫉妬の感情を抱いたときに木が燃えて炭になり、炭のまま心に残っていた。そして、今回、旦那様が甥ごさんを褒めたときに、嫉妬の感情が炭に火をつけて燃え始めた」
「そうですか…」
「だとすると、どんな感じがしますか?」
千果子の目は涙でいっぱいになった。
「…でも、そうかもしれません。今、つながりました。腑に落ちたというか。胃のあたりがクっと締まるような、納得感のある感じです」

千果子を中心として、部屋の空気全体が緩んだ感じがした。こわばりが減り、明るさが少し上がり、両腕を開いて何事も受け容れる雰囲気。部屋自体が微笑んでいる。
優はその状態を感じ取り、少し安心した。
「よかったです。もう半分以上は解決しています」
「これから、どうすればよいですか?」
「そうですね。また怒りが湧いてくるかもしれません。その時には、今日の話を思い出してください。今目の前のことで怒っているのではないのですからね」
「はい」

千果子から、ゆるい空気があふれている。
「今ね、すごく安心した顔をしていますよ」
千果子は両手を自分の顔に当て、ゆっくりと口角を上げた。

*   *   *

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