田舎で育ったサッカー馬鹿がサッカーを始める前のお話。

僕はサッカーを本格的に始めたのは小学4年頃からだ。
それまでに起こった事を書こうと思う。

僕の家族は小学の頃は、曽祖母、祖母、祖父、父、母、三人兄弟だ。

僕の幼少期は、空手から始まった。
一度体験に行ったらそこから一気に熱中した。
地元で有名な道場にほぼ毎日通った。
その中で、昇給試験というものがあり、級が上がるのがとても楽しかった。
最終的には初段まで取得した。

その中で、県大会など大会に出場する事になった。
僕は、体がものすごく小さかった。
学校での背の順に並ぶと、前から3番目くらいだった。
だから、毎回相手は僕より大きい。
だけど負けたくないという気持ちが強く、無我夢中で立ち向かった。
自分で言うのもあれだが、結構厄介だったと思う。


そして県大会ではベスト8まで勝ち進んだ。
そこで僕は小さな、大きな壁とぶち当たる。
身長は僕とほぼ一緒。
僕は、正直負ける気はしなかった。
でも始まってすぐにわかった。
「これは、負ける」
全ての動きに無駄がなく、対戦している僕でさえ綺麗な動きというのがわかる。
結果はもちろん完敗。

悔しかった。
それが初めての負けだった。

僕はこのままだと勝てないと思い、違う支部の道場に出稽古に行くようになった。
ほとんど周りは大人。
その中に小学生。
今考えたら異様な光景だ。

僕はそれと同時に算数にハマっていた。
答えを導き出す楽しさに完全にハマった。
そして、そろばんを始めた。

学校終わってすぐにそろばん教室行って、帰ってきて、空手の道場に行く。
そんな生活を繰り返していた。

空手の大会では、幾度となくその同じ相手に負け続け、意を決して道場を変えた。
たまに臨時で来てくれる先生の所に変えた。

そこの道場は10人いるかいないかの小さなとこだった。
初日に事件は起こった。
僕はその道場で唯一の黒帯だった。
そこで先輩の何人かにレベル試しだと言われ練習が始まる前に戦わせられたが、複数人相手に勝てるわけもなく、大泣きして帰ったのを今も鮮明に覚えている。
なにもできない。
だけど、それが僕にとって心に火をつけてくれた。

負けてられない。
次の日の練習では、もちろん先生もいるから1対1。
全部勝った。
それを何回か繰り返していたら、みんなに認めてもらえた。
その後、団体戦ではみんなで力を合わせて戦った。チームワークはズバ抜けてよかった。
初めて、自分の為にではなく、チームの為に戦った。

そろばんの方はというと、それが大苦戦。
伸び悩むもなにもさっぱりダメだった。
悔しさしか溢れていなかった。

そして、土日も違う教室に行くようになった。
いろんな所に行き過ぎて、1人でいるのが全然苦痛に感じなくなっていた。
その結果もあり、徐々に成績は上がって行き、なんとか珠算2級、暗算1級ぐらいまでは行った。
そろばんの大会だと、上には上がいて毎回頭を悩まされていた。
だから、そろばんは人と競うのを辞めて、自分の計算スピードを上げる事にした。
(完璧な言い訳)

そして、四年生なった時に、野球とサッカーを一緒に始めた。

野球は放課後にやっているのに行き、サッカーは土日にあるベガルタ仙台のスクールに通った。

野球の方は、人が多く中々混ざらずにいた。
サッカーは、体験の時にコーチの人に、
「エースストライカーだ」って褒められたのが、めちゃくちゃ嬉しかった。
その日に、ボールを買った。
そして、後日親の知り合いの少年団に練習に少し参加させてもらえるようになった。

学校終わって野球やって、遅れてそろばん教室に行って、夜は空手。
そして、土日は午前中はベガルタ仙台のスクールに行き、午後はそろばん。
たまに夜に空手。

そして、そんなある日だった。
毎日充実していて、楽しい毎日が一変した。

僕は、倒れた

朝起きたら、体がおかしい事に気づいたがなんとかなるだろうと普通にトイレに入った瞬間だった。
目の前が真っ暗になり、後ろに倒れた。
後頭部を強打した。
意識がはっきりしたのは親が病院に運んでいる時だった。

診断結果は、極度の疲労。
あとなにか言われたが、よく覚えていない。
そこから1週間は絶対に安静にしろとの事だった。

まだ10歳の子どもが少しはしゃぎ過ぎた。

やりたい事を全てやった結果だった。

そろばんをして、空手やって、サッカーやって、野球もやって。
3週間ぐらいしか体がもたなかった。

そして、親と相談した結果、スポーツを1つにするという事になった。

実をいうと、体がきつかったのは重々承知だった。
だけど、自分からやるって言った事だから中々区切りをつけれなかった。

そして、僕はサッカーを選んだ。

野球はまだ体験期間だったから良かったけど、空手は日本武道館での選考合宿も控えていてとても心が痛かった。
選考合宿を終わってからっても考えたが、それをしたら中途半端だし、先生にも迷惑がかかると思い、それも参加しない事も伝えに行った。

先生の家に挨拶に行った時だった。
僕はその先生が大好きだった。
僕が連絡した時には先生はもう辞める事を察していたのだろう。
目が真っ赤になっていた。
僕は、しっかりと自分の気持ちを伝えた。
先生に出会えた事、お世話になったこと、空手をやめてサッカーを続けること。
先生は頷いてるばかりだった。
僕は怒られると思った。
先生から言われた言葉は
「好きな事をやればいい。俺に気を使うな。サッカーの道で頑張れ。競技は違うけどずっと応援してる。」
まだ小学生だった僕は感情を我慢できるわけもなく声を出して泣いた。
「人前で泣くな。」
そう言ってる先生も泣いていたような気がした。


もし僕が先生の立場なら、引き止めていたかもしれない。
それを先生はなにも言わず了承してくれた。
器が大きい、こんな大人になりたいと思った。

そこから僕のサッカー小僧への道は始まった。
ベガルタ仙台のスクールもわざわざ違う地域にも行き、ただがむしゃらに楽しんだ。

そして、今へとつながっている。

今になって思うのは、多くの人の協力がないと今というのは確実にないという事。
家族にしても、いつも僕だけ夜遅く帰って来ても、みんなが待っていてくれる。
今は亡き曽祖母が作るおにぎりは毎回家を出る時に持たされていた。
爆弾並みの大きさだ。
中身は、赤しそで色付けした真っ赤な自家製梅干しだ。
そして、祖母、祖父には毎回送り迎えを軽トラでしてもらった。
嫌な顔一つせずに、毎回学校が終わる時間になると駐車場で待ってくれていた。
両親にはやりたい事をやらせてもらった。
お金の面、スクールなどへの移動など多大なる迷惑をかけた。

こうして、僕はやりたい事をやれる環境を作ってもらった。
あの時は、なにも思わなかったが、今になってこの環境を作ってもらった事には感謝しかない。

そして、もし僕が親になった時にはしっかりと環境を作らなければいけない。
やってもらった事は、しっかりと受け継いでいこうと思う。

家族以外にも、出会った人にも僕は恵まれている。
人生の分岐点には必ず良い人が関わっていただいてる。

中には意味もわからないおかしな人もいるが、そんなのは気にもしないし、興味がない。
一生、影でこそこそしていればいい。

僕は、これからも感謝の気持ちを忘れずに自分に正直に生きていきたい。
そして、いつしか恩返しできればと思っている。

今の環境に感謝し、今出来ることを精一杯進んでいく。

空手少年からサッカー少年へとなった。
なぜ空手なのかなぜサッカーなのか。
偶然と奇跡の巡り合わせで今がある。

幼少期の僕へ
空手をやっていてありがとう。
そろばんをやっていてありがとう。
野球をやっていてありがとう。
サッカーに出会ってくれてありがとう。

橋本光晟



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