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【小説】恋の病

 恋煩い、という言葉が浮かんだ。
 恋というもの、それ自体が病気なのだ。
 恋に罹患した者の目をくらませ、思考を奪い、不条理な行動を取らせる。
 これが病でなくて何なのか。
 同級生の女は頬を赤らめて僕の魅力とやらを語っている。
 クールで、優しい。稀に見せる笑顔が可愛いと。

 誰のことだ?

 女が顔を上げる。音楽室の分厚いカーテンの隙間から黄金色の夕日が侵入し、悩ましげな額を照らす。
 期待に潤む瞳。気持ちを伝えたいだけ、それ以上は望まないと言っておきながら。
 病が嘘を吐かせている。

 女は黙って僕の目を覗いている。待っている。

「気持ちには応えられない。ごめん」
 どこかで聞き齧った、上っ面の言葉。何故僕が謝らなければならないのかもわからずに。

 そっか、そうだよねと呟く女の目から涙が零れる。
 立ち去ろうとした僕の制服の裾を女が掴む。
 どうして駄目だったのか、本当のことを教えて、と。
 真っ直ぐな視線が痛くて、試されている気がした。正直に答えることがせめてもの誠意かと、魔が差した。

「気持ち悪いから。そういう目でみられるの」

 女はぽかんと口を開け、それからみるみる顔を紅潮させた。

 僕は逃げた。扉にくっついていた数人の女子生徒が音楽室に駆け込んでいく。

 失敗した。傷付けた。敵を作った。
 本音など言わなければ良かったと、後悔してももう遅い。

   ***

 教室に入ると冷ややかな視線が一斉に飛んできて、すぐに逸らされた。
 昨日の女の席には彼女の友人たちが集まっている。
「大丈夫だよ、カオリ」
「あんな奴のこと、気にしないで」
「うちらが守るから」
 級友たちの励ましに気丈な笑顔で応える彼女の瞼は桃色に腫れていた。

 敵対的な視線とひそひそ話に耐えて夕方のホームルーム。いつものだらけた空気はそこにはなかった。
 カオリの友人たちは待ち構えるように身を乗り出している。
 他のクラスメイトは素知らぬ顔をしているが、抑えきれない好奇心が彼らの落ち着きを奪っている。

 配られたのは原稿用紙。
 作文を書けと、担任の相良さがらがよく通る野太い声で命じる。
 テーマは、性的少数者の差別。

 クラス中がカオリと僕に注意を向けているのを感じる。
 僕は何も書けないまま、白紙の原稿用紙が後ろの席から回収された。

   ***

 部活に顔を出す気にもなれず、図書室の隅で時間を潰して帰宅した。
 本来は物置の、エアコンもない狭い自室。スカートを脱いでほっとする。今日もどうにか乗り切った。

 雑なノックの音、返事も待たずに引き戸が開く。
 一つ上で同じ高校に通う兄が、下卑た笑顔を侵入させる。

「お前、女にコクられたんだって?」
 何故知っているんだと顔に出たのか、兄は部活の後輩に聞いたと付け足した。
「良いじゃん、付き合っちゃえば。女同士って、なんかそそるし」
 僕は引き戸を勢い良く閉めた。指を挟まれた兄は、いってぇと悲鳴を上げた。

「他人の恋愛を自分の欲のために利用しないでください」
 言ってやると兄は憎々しげに舌打ちした。

「なんだよ、お前が男みたいだから、彼氏なんかできないんじゃねぇかって、心配して言ってやったのに」
 僕は無言で部屋を後にする。
「そんなんじゃ恋人なんて一生できねぇな。一人で孤独死してろよ」
 追いかけてくる声を振り切って、玄関に掛けられた綱を掴む。
「ソラ、おいで」
 呼ぶと食パン色の中型犬が尾を振りながら駆けてくる。僕が抱きしめると嬉しそうに身体を押し付けてくる。

 ソラだけだ。
 僕を枠に押し込めようとしないのは。
 そのままの僕を愛してくれるのは。

   ***

 ソラと二人の時間が好きだ。
 ゆらゆら揺れる尾とふさふさの尻を眺めながら歩いていると、人間の勝手な決め事なんてどうでもよく思えてくる。
 ソラは雄だけれど、若い頃に去勢している。
 そのことを気にしているようには見えない。他の雄犬と会っても堂々としている。

 ソラみたいに、僕も性的な機能を取り去ってしまえればいいのに。
 子宮も卵巣も乳房も捨てて、女でも男でもない、ただの人間になれればいいのに。

 ソラは去勢なんて望んでいなかっただろうけれど。人間が犬たちの幸福のためにと親切の押し売りをしているだけかもしれないけれど。
 望まないまま性的な存在であり続けている僕と、どちらが幸福なんだろう。

 ピンと立てた尾の向こうにコンビニが見える。店の前には制服姿の男が三人。同じクラスの生徒たちだ。
 僕に気付いた彼らはにやにやと顔を見合わせる。
「女に告白されて振ったって」
「男にも興味ないとか」
「人間に興味ないんじゃね? 犬とヤってるとか」
「うわ、獣姦? えっぐ」

 僕が睨みつけると男たちは「こわ」と言って笑い合う。

 歩きながらソラが振り返る。「おさんぽ楽しいね」と言いたげな緩んだ顔で。
 僕はソラに微笑み返す。
 ソラに嘲笑が理解できなくて良かったと思う。

   ***

 玄関でソラの足を拭いていると、両親の会話が聞こえた。
 僕のことを話している。

たまき、ちょっと来なさい」
 父に呼ばれ、すごすごと居間に入る。

「レズビアンの子に酷いことを言ったんだって? 相良先生から電話があったぞ」
 僕は黙ってテーブルの傷に視線を留めている。残酷なことを言ったのは嘘ではない。どう説明していいかわからない。
「断るにしても言い方ってものがあるでしょう」
 母が加勢する。
「誰かと出会って、好きになって、相手にも自分のことを好きになってもらいたいって思う。こんなに素敵なことはないでしょう。相手が男の子でも、女の子でも」

 わかっている。
 ずっと聞かされてきた、この人たちの理屈。
 虚像しか見ずに好意を押し付ける。好意を返されることが当然だと思っている。それが幸せだと思っている。
 恋という発作がもたらす一時の快楽を聖化している。

「明日、ちゃんと謝りなさい。いいね?」
 はい、と返事をして僕は立ち上がる。

 ソラが緩く尾を振りながら追いかけてくる。心配そうに僕の顔を見上げる。
 柔らかな頭を撫でる。熱い涙が溢れてきた。

   ***

 放課後、生徒指導室に呼び出された。長机の前に相良とカオリが座っている。
「なんで呼ばれたか、わかってるな」
 僕がパイプ椅子に座ると相良が不機嫌な声で唸る。
「すみませんでした」
 僕は頭を下げる。とにかく下げる。きっと恋を理解できない僕が悪いのだから。

「すみませんで済む問題じゃないだろう。しっかり反省して、お前の中にある差別意識を改めろ」
 僕の前に原稿用紙が滑ってくる。懺悔の言葉で埋めるための。
 許しを請うべき僕の罪は、何だろう。

 顔を上げる。
 しかめ面の相良。俯くカオリ。

「――恋愛感情を向けられるのが、嫌だったんです。性別に関係なく。あんなことを言ったことは後悔していますが、先生が考えているような差別とは、少し違うと思います」
 声が震えた。冷や汗が出た。それでもなんとか言葉になった。

 相良は眉間の皺を深くする。何を言っているんだこいつは、と顔に書いてある。

「カオリはどう思うんだ」
 相良に水を向けられ、カオリはちらりと僕を見た。

「ほんとは環さんのこと、まだちょっと好きだけど。そういうことなら、ただのお友達として見れるように、努力するね」
 僕に向けられた微かな笑顔。胸が痛い。

 相良は釈然としない顔をしていたが、わかった、もういいぞと言ってカオリを帰らせた。

 二人きり。
 相良は立ち上がり、僕のすぐ横に立った。幅広く太い胴に押し潰されそうで、息が苦しい。

「お前、人を好きになったことないのか」
 相良の声が僕の頭を押さえ付ける。
「……恋愛という意味なら」
 詰られると思った。しかし相良は同情するような声色を作った。
「だからカオリの気持ちがわからなくて、傷付けるようなことをしてしまったんだな」
 相良の顔が近付いてくる。

「なら、担任の俺が、責任持って教えてやらないとな」

 耳にかかる息。
 鳥肌が立ち、身体が硬直する。

「恋愛は楽しいぞ。女の悦《よろこ》びを知ればお前にもわかる」

 スポーツブラで平くした乳房を太い指が掴む。
 油ぎった顔が視界を塞ぎ、ぬめぬめと蠢《うごめ》くものが口の中に侵入する。

 雑音が消えた、

 何も目に入らない、

 残されたのは、透明な、殺意。

 獣のような咆哮を上げて男がのけ反る。
 僕の手に握られたシャープペンシル。
 顔を押さえた男の指の間から真っ赤な体液が垂れる。

 カオリと女子生徒数人が駆け込んできて悲鳴を上げる。
 別の教師もすぐに駆け付ける。

「そんな人とは思わなかった」

 喧騒の中、カオリの声がぽつりと落ちた。

 これで本当に、僕の居場所はなくなった。この世界のどこにも。

 頭の中で誰かが嘲笑う。
 糾弾されたくないのなら、黙って犯されるしかなかったのに、と。

 ソラに会いたい。
 可哀想なソラ。
 誰より僕に懐いていた。
 僕のいなくなったあの家で、ちゃんと愛してもらえるだろうか。

(了)

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