【小説】霊障
ちょっとした冗談のつもりだった。
学生時代からの友人の美奈と飲みに行った帰り道。一緒にもう一軒と誘ってくる若い男の二人組があまりにしつこかったから。
悪い霊が憑いてますよ。
夜道に気を付けてくださいね、なんて。
真顔で忠告してやったら、男は青い顔で引き下がったけれど。
霊なんて、男達を追い払うためのはったりで。
だから、私と美奈が離れた直後の交差点で、慣れない雪にスリップした乗用車にその男がはねられたのも、不運な偶然に過ぎないはずだった。
「沙利ちゃん、霊感あるんだね」
事故現場から逃げるように移動した駅前で、美奈はアルコールにテカった頬を上気させた。街の灯りを受けて輝く瞳。父親によく似ている。
「あの女の人の霊、すごく恨みを持ってるみたいだったよね。さっきの男の人に振られちゃったのかな。やっと見付けたって感じで、車道に引っ張ってたね」
秘密を打ち明けるような熱っぽい囁きに負けて、私は曖昧に相槌を打った。
ふかふかと温かい美奈の手が、じっとりと冷えた私の手を絡め取る。
「霊能を持つ二人がこんなに近くにいたなんて。これって運命だよね。二人の力を合わせればきっと何だってできるよ。私達、ずっと一緒にいようね」
私の手が美奈の熱を奪って、二人の手が生温く同化する。
嘘だったなんて、今更言えなかった。
土曜日、美奈の職場近くにあるカフェに呼び出された。
妙に明るい音楽が流れるボックス席で、美奈と四十代くらいの痩せた女性が待っていた。
女性は美奈の職場の先輩で、ここ一年ほど体調が優れないという。
お姑さんが亡くなった頃からじゃないですかと美奈が訊き、そういえばそうねと先輩が肯く。
「言い辛いんですけど……、お姑さんの霊が、良くない空気を引き寄せてるみたいなんです」
ね、と美奈は私を見る。そうですね、と私は焦って咄嗟に話を合わせる。
先輩はぎょっとして後ろを振り返る。背中に張り付いている霊が見えるはずもなく、木目調のファンが天井でゆっくりと回転している。
「確かにお義母さんとは折り合いが悪くて、亡くなるまでずっと冷戦状態だったけど、だからって死んでからも祟るなんて……」
「亡くなった方にも、生きていた時のように感情があるんですよ。大丈夫、死者とだって和解はできます。お墓へ行って、お姑さんと向き合ってみてください。あなたの気持ちを全部伝えて、許せるところは許してあげてください」
普段は大人しい美奈が、別人のように滔々と語る。気圧された様子の先輩は、わかった、そうしてみるわねと美奈を宥めるように言う。困惑しているのは私も同じだった。
後日、先輩が悩まされていた立ち眩みや胸の苦しさから解放されて溌溂としていると聞かされ、混乱は深まった。
似たようなことがその後も何度かあった。
美奈が連れて来る人は白髪の老人だったり、十代の若者だったり、同年代の会社員だったりしたが、いずれも悩みを抱えていて、美奈はその原因は霊だと言い、私の同意を求めた。
私に会った後、彼等には必ず不可思議なことが起こった。良いことも悪いことも。
正体を言い当てられた霊が騒ぐのだと美奈は言った。
なぜ私が同席しなければならないのかわからなかったが、どうしても必要なのだと美奈は言い張った。
二人の力が合わさって初めて霊と対話できるのだ、と。
桜が散り、紫陽花も茶色く枯れて、火のついた鍋で蒸されるような夏がやって来た。
美奈の実家に招かれた。お盆だからお線香を上げに来て、と。
古いマンションの五階。人の体温を思わせる、温かく湿った空気。入るのは二年振りだ。美奈のお父さんが亡くなって以来。
美奈のお母さんは留守だった。籠もった蝉の喚き声に包まれて、奥へ。
仏壇の前に、割り箸の脚の生えた胡瓜。遺影の彼は少年のような笑顔。――蘇るコーヒーの苦い残り香、伸びかけた髭のざりざりした感触。
「お父さん、帰ってきてるから。沙利ちゃんも会いたいかと思って」
美奈の顔を見られない。美奈が見ている前で遺影と視線を交わせない。
「沙利ちゃん、こっち見て」
美奈が仏壇の前に立ち塞がる。やっとのことで目を上げる。
「お父さん、私に憑いてるでしょ」
そうだねと、反射的に肯定する。
美奈は笑い出した。いつもの控え目な美奈に似合わない、大きな赤い口で。
「これでお父さん、ずっと私と一緒だね。私ね、沙利ちゃんに霊が見えてないの、知ってたよ。でもね、沙利ちゃんが憑いてるって言うと、本当に霊が憑くんだよ。お父さんを私に憑けてくれてありがとう、沙利ちゃん」
ごめんなさいと私は深く頭を下げた。暑いのに冷えてねっとりとした汗が顔中の毛穴から漏れる。
「沙利ちゃんのことは怒ってないよ。家族を裏切ったお父さんに、沙利ちゃんのことをずっとずっと見せてあげたいだけ」
美奈は復讐の悦びに息を震わせた。
美奈は知らない。私が謝りたいのは、美奈のお父さんとの不義のことではない。
奥さんの生霊が見ているよなんて、ベッドの上で私が冗談を言わなければ、彼は運転中に電柱に突っ込んで死んだりせずに済んだのだ。
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