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死角

 見られている。
 視線を感じる。歯磨きしていても、授業中のノートに落書きしていても、眠ろうと目を閉じていても。

 見られるのは好き。
 だって私、可愛いから。
 可愛さは私の才能。そして義務。
 可愛い私を見てみんながにっこりするの。
 赤ちゃんの頃からそう。ずっとそう。
 だから私はもっともっと可愛くなって、もっともっとみんなを照らしてあげなきゃいけない。
 それが私に与えられた役割だから。

 なのに最近、私に届く視線がくすんでいる気がする。
 称賛が濁っている気がする。

「あの、可愛くね?」
「どれ?」
 ひそひそちらちらと私を盗み見る少年達。
「贔屓されていいよねぇ可愛い子は」
 溜息を吐く女友達。
「苦労するわね、私に似て可愛いから」
 ママは誇らしげに笑う。

 見られている。
 私は可愛いから。
 後頭部がむずむずして、振り向くとさっと影が走り去る。
 また後ろから見られている気がして、素早く頭を回す。
 どっちを向いても、見える範囲の外側から視線がべたべたとこびり付いてくる。
 いくら頭を振り回しても、隅々にまで目を光らせたつもりでも、一度に確認できるのは百八十度にも満たない範囲だけ。
 顔の裏側には、決して見ることのできない世界が広がっている。
 どんなにおぞましい怪物が背中に張り付いていたとしても。
 私はそれに気付くことすらできない。
 気付かないうちに食べられてしまう。
 ぐちょぐちょ。
 ぴちゃぴちゃ。
 食い荒らされた肉片は可愛くない。
 可愛くないのなんて私じゃない。

 ストーカーだ。
 視ているあいつは、ストーカーに違いない。
 だって私、可愛いから。
 捕まえて、懲らしめてやらなきゃ。
 だって――
 だって、何だろう?
 可愛い私をみんなが見ている。
 みんなは良くて、あいつは駄目なのは何故?

 ――そんなこと、どうだっていい。
 あいつが私を脅かして、不快にさせて、私の快活な愛らしさを損なったんだから。
 それは罪。社会の損失。
 罰してやらなきゃいけないんだ。

 同じクラスでタマって呼ばれている奴に言った。
「あんた、機械オタクなんでしょ? カメラ貸してよ。小さいやつ」
「なんで」
 長い前髪の向こうから無表情な目が私を見返す。覗き見しているみたいで嫌い。
「ストーカーの証拠を撮ってやるの。いつも後ろにいるから見えないんだけど。全方向同時に見て、今度が私が見てやるの」
 言い放って、背を向けた。見ていることに気付かれないよう一方的に見ようとしているような、気持ち悪い視線が追いかけてきた。

 翌日、タマが私の机にビニール袋を置いた。
「頼まれてたカメラ。スマホと連携できるから」
 夢中で袋を破り、「どうやんの」とせっついて設定させた。親指の先くらいのカメラをポニーテールの髪留めに付けて、真後ろを向くように設定する。
「みぃちゃん、なんか変」
 頬を引き攣らせて去っていく女友達がスマホの画面に映る。

 私の目がカバーできない範囲はカメラが見張っていてくれる。けれどカメラはストーカーを見ても知らせてはくれない。
 視界の全域に神経を張り巡らせながら、スマホに映し出される映像にも目を向け続ける。
「みぃちゃん、食事中くらいスマホ置きなさい」
 ママの小言が耳に届く。
「ストーカーなんて気のせいに決まってるでしょ。あんたみたいな子供に付くわけないんだから」
 ママは私を子供扱いする。みぃちゃんなんて、ペットみたいに呼んで。胸だって大きくなってきたのに「まだ早い」ってブラも買ってくれない。この前だって――
 あれ?
 なんでこんなこと考えているんだろう?
 私はママのこと大好きなのに。
 ママみたいに若くて綺麗なお母さんになりたいのに。
 心の中でママに憎まれ口なんて。悪い子――
 可愛くない子。

 視界の端で影が動いた。
 咄嗟に振り返って、何もいなくて、スマホの画面を確認する。録画映像を巻き戻す。誰もいないキッチン。頭を動かしたタイミングで映像が横に流れ、色彩の奔流になる。あいつが紛れているかもしれない。目を凝らす。
 でも――
 こうして映像に集中している間、背中は誰も見ていない。あいつが接近しているかもしれないのに――
 映像をリアルタイムに戻して、それでも足りないから直接振り向いて見る。誰もいない。
 視界の中でもクリアに見える範囲は狭い。トイレットペーパーの芯を目に当てているみたい。筒の外側の曖昧な領域に、あいつが紛れ込んでいるかもしれない。
「きょろきょろするのやめなさい。みっともない」
 外でやってないでしょうねと言うママの声が遠ざかる。ママの姿は目に入らない。ママなんか見てる暇ないもの。
 廊下の姿見が視界に入る。髪を振り乱して目をぎょろつかせた少女が映っている。
 可愛くない。
 あんなの私じゃない。

 瞬きの間は闇だ。どれだけカメラを設置しても、その一瞬だけは無意味。
 できるだけ目を閉じたくなかった。目がひりひりして開けていられなくなったら、片目だけ閉じる。それも視界が削れるからできるだけしたくない。乾燥した目から涙が溢れた。
 眠るなんてとんでもない。次に目を開けた時、怪物の顔が間近にあったらどうする?
 マットレスに背中をぴったり付けても、頭の真上は見えない。足の真下は見えない。ベッドの下から視線が貫通してくる。
 頭から布団を被ったって無意味。布の目の隙間からあいつが覗いている。こんなにはっきり感じるのに、カメラで捉えられない。あと少しなのに。
 あいつさえいなくなれば、みんなに愛される可愛い私に戻れる。

 学校に行けなくなった。授業中でもじっとしていられないから。
 家にいられなくなった。誰も信じてくれないから。
 真っ直ぐな道をずんずん歩いた。
 周りは住宅街。家の中には人がいる。こっちを見ている。視線に追い付かれないように、ずんずんずんずん歩く。
 息が吐けない。息を吸って、吸って、首から上に血液が巡らなくなって、膝から崩れ落ちた。フリルのスカートが汚れてしまう。お気に入りなのに。「どうしたの?」
 コンビニの前にいた大人の男の人が駆け寄ってくる。
「一人じゃ危ないよ、こんな可愛い女の子が」
 男の人がごく自然に、皮の捲れた私の膝に手を当てる。指を腿に沿わせて、誰かが見ていても気付かないくらい微かに、撫でる。
 剥き出しの脚に粘着する、大きな手。

 頭が真っ白になった。
 こんなのは、違う。

 周りを見る。前と後ろと。上と下と。右と左と。
 見慣れた顔が視界に飛び込む。
 曲がり角で見ていたタマに私は駆け寄る。腕にしがみ付く。
「助けて、タマ」
 男の人はどこかへ行ってしまった。タマは黙っている。どこを見ているのかわからない。
「私、可愛いよね。可愛いからみんなに大事にされて幸せだよね。ね?」
 タマの顔を覗き込もうとする。タマは首を捻って避ける。
「本当に?」
 タマが低く吐き捨てる。
 意味が分からなかった。
「可愛いって言われて、嬉しいの?」
 タマがこちらに顔を向ける。前髪の隙間に、目。あっちの隙間にも。こっちの隙間にも。
 顔中の目が、私を見ている。
 ママの目が私を縛る。
 同級生の目が私を非難する。
 男の目が私を犯す。
 ――わかってしまった。
「あんたが、ストーカーだ!」
 タマを指差して叫ぶ。私を助ける振りをして、カメラで私を見ていたんだ。だからずっと見付けられなくて、でもずっと視線を感じていたんだ。
 そうに違いない。
 そうじゃなきゃいけない。

「君のことなんて誰も見てない」
 タマが前髪を上げる。
 真っ暗な顔に、たくさんの目。こちらに向いているようで向いていない。
 見ていない。
 瞳の中に映っているのは。
 可愛い、お人形。

 二つだけ。
 別のものを映している目があった。
 とぼけた顔をした、子供と大人の中間の、人間。

 タマがぱさりと前髪を下ろす。
 前髪が鬱陶しいだけの、ただの人の顔だった。
「僕は君に興味ないから」
 さらりと言って踵を返す。

 取り残された空っぽの私は、何故だか安堵に包まれていた。


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