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「楽式」

「ひとつひとつの音符を大事にする」
ということは、
「フレーズを分解しそれぞれの音を単体で出す」
という意味ではない。

音楽は音の繋がりによって作られるものであり、
その意味において
「フレーズにならなければ音楽ではない」
とも言える。

つまり
「音符1個づつで歌わない。フレーズとして歌っていく」
ということ。

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プッチーニの作品に多いのが、
細かな音符指定と速度変化記号。

これをどこまで忠実かつ明確に再現していくか、
それは、プッチーニの作品を
「安っぽい映画音楽」
のような代物にしてしまうか、
クラシックの舞台芸術作品として
仕上げていくかの分かれ道になる。

「なぜ三連符で続いていたものが
 8分音符2つに変化したのか?」

「なぜ、ここでは付点のリズムに
 変化しなければならなかったのか?」

そこに疑問を持ち、
その答えを楽譜から読み取り、
再現することこそが
「再現芸術」の「再現」たる所以ではないか。

「8分、三連符、付点8分の差を明確に認識し再現する」

決して忘れてはならない事である。

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「ボエーム」ミミを歌う際、
良く間違える箇所のひとつに、
P251二段目の"lascia ch'io guardi intorno."がある。

この箇所のフレーズは
1幕ミミのアリアと同じなのだが、
アリアの"quelle cose"には
フェルマータがついているのに対し、
4幕にはそれがない。

逆に1幕のアリアにはない
ラレンタンドの指示が記されており、
同じ旋律でありながら
実は異なるフレージングが要求されている。

これを1幕のアリアと同じように
フェルマータをかけて歌うと
"lascia"に言葉のポイントがくることになる。

プッチーニが要求している言葉のポイントは、
その先にある"guardi intorno"なのだ。

 
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音符を把握し、
速度記号や表情記号も
漏らさずチェック済み、
声にムラがある訳でもないのに、
それでも「バランスの悪い演奏」に
なってしまうことが往々にしてある。

この場合は往々にして、
目の前の音符やフレーズのみに
注意が向けられていて、
曲全体の構造を失念している、
あるいは把握していない故であることが多い。

いわゆる
「音を垂れ流している状態」である。
 
教会や橋などの建築物は無論のこと、
彫刻や絵画にも構図・構造があり、
各部のバランスが保たれることで
ひとつの完成品を成している。

論文におけるIMRAD、
漢詩などにおける起承転結、
戯曲や小説などにおける序破急や三幕構成、
これらも全て、
作品として完結するための「技術」。

そして
それは音楽においても例外ではない。

「音楽の形式(楽式)がなぜ存在するのか?」

「なぜ楽式に従って(あるいは逆らって)
 作品が作られているのか?」

それを考察することは
作品の構造を知ることであり、
バランスのポイントを知ることでもあり、
「この一線を越えると曲の調和が崩れる」
「このポイントに比重を置くことで
 曲全体の色彩が一層鮮やかになる」
など、
演奏上の「勘どころ」を探りあてていく
行為そのものであったりする。

つまりは
「曲の構造(楽式)を知り曲全体を把握すること」
これに尽きる。

※ ※ ※ ※ ※

 
・・・曲の構造とか楽式とか言うと、
どうしても音大受験の時勉強した
「楽典」や大学での「和声」、
「音楽学」「楽曲分析」などの
座学を思い浮かべる者も多いだろう。

レッスンや合唱・オペラ実習などの
ワクワクする実技に比べ、
座学は「卒業のために必要な単位だから」
・・と、
その程度の認識とやる気しか出せなかった者は、
私だけではないはず。

(私と一緒に単位を落としたお仲間も多かったな。ワハハ)
 
だが、本当は
和声を知り、楽曲の形式を知り、
「作品を構造的に捉えられる」というのは、
演奏家にとっては、とてつもなく
強力で頼りになる武器であり、
「この曲をどう演奏していけばいいのか」
という自身の暗中模索の中で
道を照らす光にもなるのだ。

・・・そのことに気がつくのに、
私自身、随分と時間がかかってしまったが・・・

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