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【小説】僕と彼女の妄想日記。

「先生、こんばんは。」
彼女は今週もやってきた。

黒い楽器ケースを背負い、楽譜を入れた灰色のバッグを持った女性が現れる。
黒のブラウスに黒のパンツスタイルの全身真っ黒コーデに、彼女の黒髪の間から赤いイヤリングだけが目立っていた。
コツコツと床を鳴らして僕に近づいてくる。今週はハイヒールの日のようだ。

彼女は、レッスンに来るたびに服装の系統が違う。
先週は、キャリアウーマン風のジャケットを着ていたし、
先々週は、女子アナのような清楚系で、
そのまた前は、いい女風の、白シャツとタイトスカートに革ジャンを羽織っていて、
それより前は、森ガールのようなワンピースだったかな。

彼女はひとつのスタイルに留まることがなく、本当に掴めない。
ただ言えるのは、彼女はあまり柄物のない、シンプルな服装が好きらしい。

「こんばんは。こちらへどうぞ。」
僕は彼女をスタジオへ誘う。
ここは新宿にある音楽教室だ。狭い廊下にスタジオの小部屋が並ぶ。

小さな2畳ほどの部屋に案内する。彼女は警戒心もなく奥の席へ座り、講師である僕もいつも通り扉を閉めて手前側の席へ座る。
彼女は、慣れた手つきで持ってきた譜面をカバンから取り出し、譜面台に置いた。

しかしすぐにレッスンを始めることはない。
彼女はそのまま席に座り、僕を正面から捉えるように座り直した。
そして恥ずかしそうに笑い、あのね…と口を開く。

とあるきっかけで、僕たちはレッスン前に雑談をする仲になった。
それまで一貫して無口だったのに、今はよく喋るので、僕は野良ネコに懐かれた気分だ。
彼女は毎週違う話題を持ってきては、一所懸命に、熱弁してくるので、
今週はどんな話をするのだろうか、と僕も少し楽しみになっている。

「…先生、私、答えの出ない話を考えるのが好きなのよ。」
唐突に話し始める。彼女はいつも突然だ。

彼女はいたずらっ子のように、ふふふと笑った。
彼女の話題は、幅広く、そして深い。何を考えているのか全く読めないが、何やら凄そうと言うことだけが、僕にはわかっていた。
僕は特に返事をすることなく、話を促すわけでもなく、ただ静かに聴く姿勢をとった。
その様子を認めると、彼女は続ける。

「先生、もしも…もしも私が、連続殺人犯だったらどうする?」

今週の話題には、流石の僕も度肝を抜かれる。一体何の話をしようと言うのか。
驚き、目を丸くしたまま、彼女を凝視する。
その反応が大変お気に召したのか、彼女の目がキラキラと輝いている。

「私が殺人犯で、でも何にも証拠を残さずに、さほど表沙汰な事件にもならないように、人を殺して、それで何食わぬ顔でこの新宿駅を闊歩していたら…一体何人の人が私の存在に気付くんだろう? 警察に捕まる確率は何%くらいなのかなぁ?」

彼女は平然と自分のストーリーを続ける。
あまりに淡々としているので、これがフィクションなのか、本心なのかわからない。

「何をみたら、この人は殺人犯だってわかるのかなぁ。」

彼女は深く考え込み始める。僕も何と返事をしたら良いか分からない。
彼女は自分の頭で考え始めると、途端によく分からない方向を凝視する癖がある。ネコが何もない空中をじーっと見ている姿に似ている。彼女の目の光が、心なしかいつもより冷たく暗いようにも感じる。
そんな様子に少し冷や汗が出る。そういえば、彼女とは最近話すようになったけど、どんな会社で働いていて、どんな生活をしているかなんて知らないのだ。レッスンのある日の1時間だけで得られる情報はさほど多くなかった。
沈黙が気まずくなって、僕は口を開く。

「やっぱり雰囲気でわかるんじゃないですかね。何か抱えていたり、隠そうとしている人間は。…しかし、殺人犯が駅を闊歩していて判断つくかなんて、すごい想像力だね。面白いストーリーが書けそうだ…」

僕の最後の一言に憤慨したのか、思考の旅に出ていた彼女が急に現実に戻ってきて、僕の目を凝視する。

「違うよ、先生。本当にいるかもしれないよ。でも誰も気付いてないの。誰も気付かない。だってこの国の人は、みんな他人に興味が無いし、まさかそんなことあり得ないと思って生活しているんですもの。…だから時に、殺傷事件が発生しても、なんか悪い人が、なんか頭おかしい人が事件を起こしたんだな、って報道されるけどさ。頭おかしい人なんて、見た目じゃ分からないじゃない。じゃあ、どうやって事件が起こらないようにするかとか、事件が起きても自分の身を守るにはどうしたら、とか全然考えないよね。本当、お気楽。」

彼女は早口に捲し立てた。そして少し不機嫌そうに口を尖らせ、俯いてしまった。

「先日、映画を見たの。サスペンス映画。他の人はどう見ているのか知らないけどさ、殺人をする方の人間の気持ちも分かるような気がするからさ。まるで別者とか怪物って訳でもなくて、人間の心の弱さが、行動に出るか出ないか、みたいなさ……」

彼女はボソボソと、この話題を振った理由を話している。
そして話した後で、あっと気が付いたように顔を上げた。今度は混乱した目をしている。

「私が、現実と虚構の区別のついてないとか、虚言癖だって思ったでしょ…。まぁ思ってもいいよ、だって私やっぱり頭おかしいのかも知れないんだし。」

彼女の言動は、自分視点だったり社会全体の話をしたり、話し手の視点がコロコロ変わるようで混乱するけれど、彼女の中ではどうやら論理的に組み上がっているらしい。忙しい人だ。
しかしまぁ彼女は本当に表情がくるくる変わっておもしろい。見ていて飽きないんだよな。

「そんなこと思ってないですよ。まぁ想像力が豊かってだけですよ。それに危機管理能力があるというか、予測を立てて万が一のために準備したい人なんですね。話聞いてて面白そうだし、そんなストーリーの小説とか書いてみたらどうですか?」

僕は彼女の話を聞いた後に、いつも一言、アドバイスめいた言葉を渡す。
すると彼女は満足したような表情になって、また恥ずかしそうに、ふふふと笑った。

そして、おもむろに楽器ケースから楽器を取り出し始めた。
今日の雑談はこれでおしまいよ。の合図だ。

このお決まりの流れに、多少の退屈感はあるかも知れないが、彼女の突拍子もない話題に一瞬のワクワク感を持ちながら、これはあくまで雑談として終わり、彼女は僕の一言を欲しがる。このルーティンが心地よいとも僕は感じていた。

「レッスンを始めましょう」

僕と彼女が演奏を始める。あと30分間はこの奏でる音に集中しよう。

二人の音が満ちるこの部屋の片隅に、黒い肩掛け鞄が置いてある。その中には、僕の仕事道具が入っている。そして、ペンケースや、水筒や、お菓子類以外に、タオルに包まれたサバイバルナイフがいつも忍ばせてあるだなんて、彼女は知る由もないんだろうなぁ…。

ここは東京、新宿。何百万の人間が行き交う街。
その片隅の、たった2畳の部屋の中、たった1時間の内の出来事。
きっとどこかで行われている日常かも知れないし、夢物語かも知れない。

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