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恋愛就職?お見合い就職?

「うちじゃもったいないんですよね。その能力が」
「うちはね~、女性は男性のサポートについてもらうことになってるから」

中学はセーラー服で、高校は私服。
でも、もちろん大学には制服なんかなかったから、大学3年生になったとたんに唐突に紺ジャケ白シャツに衣替えしないとならないことがよくわからなかった。
同じビニール袋に入っていると大きさや色つやが比べやすいニンジンみたいなものなんだろうか。
みんなと同じひっつめ髪をして、黒い太ヒールのパンプスを履き、黒い大きなカバンを下げて「就職活動生」と名札をつけているみたいにわかりやすく、私はうろうろと東京の街を右往左往した。
「就職氷河期」ということばが初めて使われたころの話だ。

深夜のデニーズで、何杯もコーヒー飲みながら、友達と励まし合いつつ資料請求のはがきを書いた。
腱鞘炎になるくらい出しても、まったく反応なんかなかった。

同じ年のボーイフレンドの家には、請求せずともたくさんの会社から豪華な資料が送りつけられていた。
それは男子大学生だからだ、とか、彼が東大生だからだ、ということに思い至らなかった無垢で無知だったあの頃の自分。ナイーブすぎて、いじらしい。

もしタイムマシンがあったら、「お前の書いたはがきなんて、みんなきっと私書箱からそのままシュレッダー廃棄されてたんだぞ」と、世間ずれしちゃった今の私は意地悪に告げにいくだろう。

当時はエクセルなんてなかったから、スケジュール進捗管理はルーズリーフに手書きだった。
縦線で区切った紙の両面に、「企業名、資料請求日、試験日、面接日、〇✕」を記録した。資料請求は300社以上。でもそのほとんどは最初の行しか埋まらないままで、試験を越え、面接までいけたのは40社ほどだった。

いくらこちらが片思いをして秋波を送っても、相手が嫌だといえばそれまで。

就職活動は恋愛みたいなものだと思っていた。

思いもかけない相手から告白されたことはなかったけど、振られた数だけは貝塚を作れるくらい大量だ。

ようやく面接までいったと思えば、英語力や海外経験は一般職のオンナノコには要らないと面倒くさがられるか、こんな小さな会社の総合職にあなたみたいな学校の人がきても周囲とうまくやっていけないんだよね、とやんわり刺し殺されるかのどちらかばかり。

毎日、否定されるためだけに紺色の戦闘服を着込む。
春になり夏になり、猛暑がやってきても、バカみたいに裏地のついたスーツを羽織って、ダラダラに汗をかいて。
就職セミナーに向かう先はすでに東京ではなく郊外になっていた。



面接の回数が進むと、ああ、今度こそ運命の相手だ!ドラマチックなデートを重ねた末に、王子様が膝をついて、内定の封筒を差し出すんだわ。
そうこちらは盛り上がるのに、役員やら社長やら、たくさんのオジサンたちに会議室で会った後も、結局内定は全くでなかった。

大学の同級生たちは、どんどん、就職先を決めていた。
そう思って見まわしてみたら、附属上がりの同級生の大半は、お父さんが○☓商事の偉い人だったり、伯父さんが○☓銀行の偉いヒトだった。

まずい。このままじゃ、どこにも行き場がない。

やがてはアメリカの大学院に留学したいと思っていた私は、サークルにすら入らず、ひたすら毎夏アメリカに行き英語を磨き、留学時に必要な大学の通知表の平均点を良くすることばかり考えていた。

しかし、どの奨学金も試験には受かるのに、面接では「うちは母子家庭とか本当に学費に困っている学生さんのためにあるんだよ。ご両親に相談してみたら」とけんもほろろに落とされた。
留学に大反対の父はもちろんのこと、母親も「大学以降の高等教育は自分でまかなってね」という真っ当な方針だったので、まずはいったん就職し、留学費用を稼がなくてはならなかった。

恋愛感情で探してる場合じゃない。

なんだっていい、自分の個性なんて売りこまなくていい。
相手が求めてる風に自分をつくって、なんとか仕事をみつけなくっちゃ。

巻き髪に、幅広い白襟の紺ワンピースが新しい私の戦闘服になった。



TOEICの点も、海外での経験も、いっさい触れず、「附属のお友達と長く親しくしてきて、お母さんのように頼りになるといわれる」とニッコリ笑顔に方針変更。

決して嘘はついてない。

でも、同じ人間の20年が、スライスの仕方次第でこんなに違う印象にできるのかと思うと、自分でも恐ろしくなった。

そして、その作戦は、ある意味、成功だった。
当時の就職志望先トップ10の会社の一般職に滑り込んだのだから。

長く暑く苦しい就職活動の末、つかんだ内定は、丸の内にあるその会社と、今は影かたちもなくなってしまった安売り王の全国スーパーチェーン、そしてもう一つ直立不動で大声の挨拶をしないと面接が始まらないという宗教じみた旅行会社の3つだけだった。

その会社だけが突出して、「いい会社」だった。
だから、私は、突然みんなのアイドルと結婚できた一般女性のような気持ちで、自分が相手のことが好きかなんて関係なく、舞い上がっていた。

お互いを知り合って「恋愛」を成就させたかったはずなのに、結局のところ、それは世の中ウケのいい内容の身上書をみて、ホテルの喫茶コーナーでお話しただけの「お見合い」就職だった。

でも、サインした以上はまっとうする責任がある。なんとかその「関係」を破綻させずにがんばっていこうと思ったのだ。

男性先輩社員にみこまれ、一緒に遅くまで残って営業資料を作り、成果が出るのはとても楽しかった。

接待の席では、いろんな目にあったけど、そういうものだと飲み込んだ。
そういう時代だったし、そう思えという空気だった。

三年たったら一般職から総合職になる道がある、と人事の決まりに書いてあったから、がんばりさえすれば新しいキャリアが広がるのだと信じ、周囲の一般職には疎まれつつも、「それ、男性の仕事じゃない?」ということまでカバーした。

「職掌転換試験を受けたいんです。総合職のHさんもオマエが総合職ならもっとビシビシ鍛えてやれるのになって言ってくださってるし」

人事面接で、そう切り出した私に、支社長は顔中引きつった笑みを浮かべていった。

「あのね。今でも十分貢献している一般職のオンナノコを、会社がわざわざお金を投資して総合職になんかすると思う?」

費用対効果ということばがわかる今なら、言葉の良しあしはともかく、彼がいいたいことも企業論理としてわからなくはない。
でも。

それをいっちゃあ、おしめえよ。

転職、なんて、離婚と同じくらいめずらしくヒソヒソ声で語られるような時代だった。
あいにく留学資金もまだ貯まっていなかった。
仕方ない、次の支社長になるまで続けようと自分にいいきかせた。

けれども、がんばって仕事をこなせばこなすほど、他の女性社員の仕事が自分に回ってきた。
それもこなして6時に退社すると、なんであの人だけ早く帰れるんですかとさらに仕事が増えた。

「ってことは、『できませーん』『時間かかりまーす』ってゆっくり仕事するもの勝ちになっちゃいますよね?私は早く帰りたいから、担当と相談して、書類の記入を効率化したり、客先に事前説明したりして工夫してます。なのに他の人の仕事が回ってきちゃうんだったら、がんばろうという私のインセンティブはどこに生まれるんでしょうか」

そう訊ねたのは5年目の人事面接だった。
支社長は新しくなっていた。

「インセンティブぅ?あのさ、キミ、間違った会社にいるね。うちは100年続いた純血種の日本の会社だよ。そんな横文字使いたいなら、外資にいきなさい。ガ・イ・シ」

気づいたら、ニッコリ笑い返していた。

「わかりました。間違った場所にいるとおっしゃるのならそうなんでしょう。じゃあ辞めます」

あの横並びの就職活動の夏。
ここで就職先が決まらなかったら一生「行かず後家」と後ろ指をさされるから、お見合いで気に入られるよう自分を飾って、それでどっかに滑り込めればそれでいい。
そう妥協した末に、有名企業に入れたからと舞い上がった自分が良くなかったんだ。
そう思った。

こうして私は、アメリカに渡った。

アメリカでは、性別で仕事の可能性を制限されることはないようにおもえた。だから、自分の選ぶべき相手は純血種の日本の会社じゃないんだと思うようになった。あの時の上司の言葉はあながち間違っていたわけではないようだ。
けれど同時に、アメリカに身を置いてみると、自分の中の浪花節の部分がくっきりし、理論的にばっさり線を引く西欧人的発想になりきれないことも痛感した。
自分が「どっちにもなれない」ことを感じるばかり。

いったいどこが自分の居場所なのか。
いったい何がしたいのか。

大学院の卒業が近づくにつれ、自分の中に焦燥感が増していった。しかも、ちょうど911が起き、外国人の就職は壊滅的に期待できなくなっていた。

まずい。
もし仕事を見つけられなければ、あの、大学生の時のように自分をつくってどこかに無理やりねじ込まなくてはならなくなる。それではまた同じことの繰り返しだ。

しかし、サンフランシスコの就職・転職フェアで、運命的な出会いが私をすくってくれた。

人事が呼びに来るほど時間をオーバーしても話が尽きず、この人と働きたいと思うひとに出会ったのだ。
彼が変えたいと思う組織の方針、自分に何が貢献できるか、そんなことががイメージできる面接時間だった。

こうやって、その後一緒に働く上司が面接をして相性が確かめられるのは、デートをちゃんと重ねる恋愛関係そのものだ。
だから内定のメールが届いたとき、ああ今度こそちゃんとお互いをわかりあって「恋愛」就職できたと思った。

けれど。

「そして末永くしあわせにくらしました」は、やっぱりおとぎ話にしかなかった。

切磋琢磨し、鍛えられ、学ぶことだらけだった素晴らしい環境。
そこへ、企業買収の嵐がやってきて、その組織はズタズタに切り刻まれてしまった。
おとぎ話の最後のページが真っ黒な羊に食べられちゃったみたいに。

それから紆余曲折あり、私はかつては思いもしなかったイギリスという国にやってきた。ヨーロッパなんて考えたことも想像したこともなかったのに、気がついたら12年も経っている。

きっかけはイギリス本社主導のプロジェクトの話をきき、その目指すところに惚れ込んで、自分から売り込んでポジションを勝ち取ったからじゃないかと思うのだ。

やっぱり私は惚れないとダメなタイプらしい。

その仕事のミッションに。
働く仲間に。
そしてその仕事の与えるインパクトの大きさに。

そういったことに心がときめいているなら、たとえどんなにタフな仕事でも、情熱を注いでいける。

お見合いがいけないわけじゃない。
きちんと条件に納得したマッチングは失望もないし、驚きもないだろう。

だけど、条件がいいから、見栄えがいいからと頭でっかちに選ぶと、私の場合はどうやらうまくいかないみたいだ。

はたらくって、むずかしい。
はたらくって、なんだろう。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。