見出し画像

吾唯足知

世界中で皆が行動を制限されはじめた去年、ブックチャレンジというのがSNS上でまわっていた。

それは、友人知人たちの本棚をこっそりのぞき見できるような感じ。

おとなしそうに見えてた人の意外な自意識や(すごいエライ著者と会ったって自慢話だったり)、カタブツと思っていた人の意外なチャラ男部分(ホイチョイ本が好きだったとかね)がみえて、実に楽しかった。

それをみながら、中学一年の国語の授業で「好きな本を一冊選び、あらすじと理由を発表する」時間があったことを思い出した。

自分が何を選んだかは覚えていない。けれど、本当は大好きな本は「パタリロ」と「ガラスの仮面」なのに、ちょっとかっこつけた本を選んだことだけは確実だ。
今でいえはまさに厨二病。
あ、中学生だったんだからいいのか。

「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言いあててみせよう」

ブリア・サヴァランの有名な言葉は、もちろん本にも当てはまる。

SNS上の投稿を見ながら、もしも私にお鉢がきたら、いったいどの本を選ぼうかなと妄想に浸っていたところ、奇遇にも友達からバトンが回ってきた。
うわーい!なんだかうれしいぞ。

一番最初にくる絶対的に「好きな本」。それはシェル・シルバスタインの「ぼくを探しに」(The Missing Piece)だ。
好きな映画はといえば「推手」、好きなごはんはといえば「もつ煮込み」と同じくらい、ここに迷いはない。

この本との出会いは、その国語の授業にさかのぼる。
自分が選んだ本は記憶にないが、クラスメイトのE子ちゃんが発表した「ぼくを探しに」は、ミステリアスで寡黙な彼女が、思い入れ強く称賛した、しかも「絵本」だったことで、私の記憶に刻まれた。

青山のクレヨンハウスで日本語版を買い、のちに、マンハッタンのBarnes & Nobleで英語版を買った。
その英語版は、ニューヨーク→東京→ウィスコンシン→ミネソタ→東京→ロンドンと旅して、今も私の本棚にいる。

もう35年くらい経つのに、いや、年を重ねれば重ねるほど深く考えさせられる不思議な本なのだ。

何かが足りない 
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを 
探しに行く

自分には何かが足りないと気づく。
それを探しに行く。
そして。

中学生の時も、高校生の時も、大学生になってからも、そして、たぶん、社会人になったいまでも。
周囲の目には、私は「行動して、いろんなことを叶えてきた人だね。恵まれてるね」と思われているだろう。

でも、私はいつでも、「何かが足りない」焦燥感に駆られていた。

それはまさにこのパックマンのような絵本の主人公と同期する。

私も同じようにゴロゴロと地表を転がっているようなきもち。

それは、大きな自意識が、自分はスゴイ何者かになるはずで、なのに今の自分とはギャップがあるという焦りだったのかもしれない。

自分が達成したいと思うものが、走れば走るほど、さらに逃げていくような感じだ。

そして、20代の私はアメリカに飛び出した。
高校からの夢だった日本語教師という目標をかなえるために。

ところが。
実際になってみたら、「あれ、これじゃないかも?」というのが感想だった。
愕然とした。
おかしいな、じゃあ何をしたいのかな。
何が足りないのかな。

そのまま日本には帰れない、と、MBAを取った。

いい仕事がその不足を埋めるかもとキャリア形成に汗だくになった。

そうやって「足りないなにか」を埋めようと走るうちに、気づいたらイギリスまで来ていた。

そして、巨大でチャレンジ続きだったけれども、同時に大きな達成感のあるプロジェクトにたずさわった。

イギリスでの生活は、また、ヨーロッパの仕事観、生活観に触れ、ライフ-ワークバランスを新しい視点で見直す機会でもあった。

そして、そこで、ようやく。

「足らないと思って、探しもがく道程こそが人生」なのだと気づいた。

あれ?
これって、あの絵本の最後で、敢えてまたゴロゴロと転がる、あの主人公のことじゃない?

「自分はまだ足らぬ」と認識し、足りないものを見つけにいく旅。

その旅の先にあったのは「足りないと思い、探しもがく自分は、しかし視点を変えれば充足しているのだ」という境地だった。

足りている、と認知することで、自分がこれまでに達成したことを感謝とともにポジティブに評価して、受け入れられる。

その自己肯定の上で、健全な向上心と共に、さらに歩み続ける。

肯定できてるからこそ、かっこつけや誰かとの競争心に駆られたり、でいらないものを追いかけたりはしない。

そんな気持ちが生まれた。

この心境を表しているものが京都にある。
龍安寺のつくばいだ。

五・隹・疋・矢の文字が中央の口と合わさることで「吾唯足知」となるそのシンプルかつ考え抜かれた意匠もさることながら、「ただおのれは足ると知る」と庭先の苔むした石が諭すことの深さ。

初めてこのつくばいを目にしたのは高校の修学旅行の時だ。

その後何度も京都を訪れるたび、自分のおかれた状況ごとに、私はこの言葉をいろんな味にかみしめてきた。

足らない足らないと歩き続けたその先の今。

貪欲にあれもこれもと欲しがり汗をかいたその時間を経て、ようやく至った、自分のこれまでを認め、必要なことに焦点を絞って研鑽していく気持ち。

それは自然と自分を紡いでくれた環境と歴史への感謝にも繋がる。

「すごい誰か」にはなれなかったけど、「誰かじゃない私」、結構悪くない。

大丈夫、だいじょうぶ。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。