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雄牛の血の町で

私がアメリカで暮らしていたころ、姉は旅行ガイドを書く仕事をしていた。

スマートフォンなんてなく、ポンキッキーズのコニーちゃんが描かれた外付けキーボードをドコモの携帯につないでメールを送るような、そんな時代。

まだピーヒャラヒャラヒャラと音を出してパソコンを時間限定でインターネットに接続し、メールを取り交わすくらいがせいぜいの。

なにもかもネットでググれてしまう、前。

そんなころに、大学生の海外旅行にはおそらく必携といわれていた、あの、ぶ厚いガイドブックだ。

「それでね、次に担当するのはハンガリーなの」

その前の夏には、北欧三ヶ国を担当していた姉は、なかなか好評だったようで、次の仕事がもらえたらしい。

「経費もみんなギリギリしかもらえないから、ごちそうもなにもできないけどさ。また通訳と荷物持ちしにくる?」

もちろん姉は海外で取材ができるくらいには英語ができる。
けれど、当時は、観光情報も、レストラン情報もとにかく現地にいって話をし、地図と現物を照らし合わせ、料金をひとつひとつ確認しなくてはならなかった。
だから、

「ぱぱぱって英語で話してくれる人がいたら、楽だしさ。カバンも重くなるし」

デジタルカメラの、スマートフォンの、何年も前の時代。
取材で撮影する写真は、これでいけるかと思った風景を何枚も写真に収め、帰国後日本で現像するまでわからない。
だから姉は経費持ち出しでも現地でフィルムを買い足して、山のような写真を撮っていた。
増えていくパンフレットと取材ノートとフィルム。
カバンはずっしりと重くなる一方だ。

もちろん、大学院生活で疲弊した私を、気分転換に誘ってくれているというのも十分わかっていた。

「うんうん、それは、去年で十分わかってるよ。オッケー。じゃあ、ブタペストで待ち合せればいいのかな」

姉が日本からブタペストに入る日づけと、その日に予定しているホテルを教わり、そこで落ち合うことにした。

その頃の私は、「外国≒アメリカ」という発想だった。

大学院で、インドやアイスランド、中国からの留学生と仲良くはなったけれど、他の国への関心が芽生えるよりも「アメリカで通用するようになりたい」という気持ちが強かった。
すこし意地悪にいえば、それは大半のアメリカ人が「世界≒アメリカ」と思っているのに似ている。

10代の終わりに、一度だけロンドンとパリを数日間だけ旅したことがあった。
けれど、アメリカ英語の耳になっている当時の私にはイギリス英語のアクセントは理解できず、パリはフランス語ができないなら無視という時代で、とにかくつらかった。
だから、そのあとアメリカに着いたとき、アメリカ英語を耳にして思わずホッとした。

姉の誘いは、そんな私を「心地よくなった外国」から、「さらにその先」にひっぱりだしてくれるものだった。
アメリカがわかってきたからって、世界を心得たように思いあがっている私の勘違いを、しっかり正してくれるような。

「もうね、ブタペストの取材はほとんど済んでいるから、ワインで有名なトカイにいこうと思ってて。列車の駅と時間は調べてあるから、バスの情報をもらいに、バスターミナルに行くわよ」

ホテルで集合してすぐ、1年ぶりに顔を合わせたという感慨もあまりなく、姉はちゃきちゃきと計画を話した。

ガイドブックには、その街のいろいろな交通手段について説明をしておかなくてはならない。
ネット路線検索など存在しない時代のこと。
列車の時間は、鉄道駅へ。
バスの時間は、バスターミナルへ。

そして、到着したバスターミナルは、ラッシュアワーだったろうか。
大勢のひとたちでごった返し、夕刻というだけでなく建物や人々の衣類など全て少し沈んだ色合いの暗さを含んだ風景だった。

北欧のときには、私はそこそこ英語の通訳として役に立っていた。だから今回も活躍する気満点だった。
けれど、いまから20年前のハンガリーでは、観光案内カウンターか、観光スポットのレストランでもない限り、ほとんど英語は通じなかった。

地元の利用客であふれたバスターミナルの切符売り場でも、やっぱり英語はダメ。私の出番はなかった。
姉が、ハンガリー語辞典を手に奮闘し、なんとかバスの時刻表を手に入れた。

「オッケー。時刻表がもらえたから、行きを鉄道に、帰りはバスにしよう」

「おばちゃん、これ、いくら?」

翌日。
そういいながら、鉄道駅の売店で、大きな水のボトルと思われる薄緑のペットボトルを指さした。
日本語で。

もう、開き直っていた。

だって、相手が英語を話さないんだから、自分がわざわざ英語を使う意味がない。
返事がかえってきても、わからないので、指で確認してコインを渡す。

プッシュっと蓋を開けたそのペットボトルの中身は、まるで温泉水のような匂いで、すこしシュワッとした。

「うわっ、これ、なんか変な味がする。硫黄みたい?しかもシュワシュワして。水すら普通のがないのかなあ」

スパークリングウォーターも、硬水なんてものも知らなかった私には、言葉が通じないこともあいまって、すべてが調子が狂うことだらけだった。

かっこよく姉を助けられていないことは、ストレスでもあった。

なまじアメリカという外国をようやく御しはじめた気持ちだったぶん、その「アメリカ風」が通用しないことも不服だった。

「ああ、そうそう。なんか、ペットボトルの水はその炭酸温泉水みたいなのが多いんだよねー。たまに普通のやつのときもあるんだけどさ。
毎回、今度こそ普通のやつに当たりますようにって思って買うんだけど、いろんな銘柄がありすぎて、どれが普通のやつか、まだわかんないんだよね」

さらっと姉が答えた。

ガタンゴトンと電車に揺られ、私たちは、トカイの街に到着し、目的であるワイナリー訪問をしていった。

と、いっても、当時の私は貴腐ワインのことも、その価値もまったく知らない。
歩きながら姉にレクチャーをうけ、それがいかに貴重で高級なのかということを飲みながら学んだようなものだった。

「明日は、エゲルっていう町に移動して、そこの『美女の谷』っていうワイナリーがいっぱいあるところにいくよ。そこで作られる「雄牛の血」と呼ばれる赤ワイン、エグリ・ビカベールには訪問の価値がある、と…」

姉はもう原稿の書き出しを思いついているようだった。

翌朝、ワイン漬けの胃袋に朝ごはんをいれ、次のワイン漬けへと備えた。
エゲルに着き、観光案内所に荷物を預けると、私たちはさっそく町の中心から歩きはじめる。
と、いつの間にか私たちは、地元のひとたちが空のペットボトルを手に坂を下っていく流れと一体化していた。

なんとなく、期待がたかまる。
すごいな、みんないくんだな。

実際にたどりついた「美女の谷」は、なんというか、思ったものとは全く違っていた。
岩肌にそって、入り口がいくつも並んでいて、屋根やテラス席を作ってるもの、ただ簡素にドアがあるだけのものなど、いろいろなワイナリーが確かにある。
地元のひとは贔屓のワイナリーが決まっているのだろう。みな目的の店で、樽から持参したペットボトルにいれてもらって買っている。

雄牛の血という仰々しい名前に、美女の谷。
もっとファンタジーの世界にでてくるような神秘的な場所を想像していた私は、その明るいカジュアルさに、すこしがっかりしてしまった。

「さ、ブダペストに戻ろうか」

荷物をピックアップし、姉が事前に調べていたバスの時間を頼りに、私たちはバス停へとむかった。

外国によくある、バス停といっても、なんの看板があるわけでもない地点。
でも、ここのはず。
立っていても、バスが来る気配がない。
おかしいな、間違った場所に立ってるのかな。

「$%&(@)*@_$(&?”£}%&)_"_/」

おばあさんが寄ってきて、なにやら話しかけた。

「なんていってるの?」

姉にたずねる。

「うーん、バスがどうとかっていってるのはわかるんだけど、なんだろう。でも、ってことは、ここがバス停ってことだよね」

今度はおじいさんがやってきた。

「$%&(@)*@_$(&?”£}%&)_"_/」

わからない。

町の人が、遠巻きに、日本人二人の立ちつくす姿を眺めては、話し合っている。
やっぱり違うところに立っちゃってるのかな。

バスは来ないし、町のひとは増えるばかり。
不安がピークに達したところで、その輪に若い男性が加わった。
おうおう、ようやく来たか、といった感じで、おじいさん、おばあさんが若い男性に何かを話し、私たちを指さした。

よし、と決意した顔で、その若者がこちらにやってきた。

「バス、今日、走らない」

どうやら、英語ができる若者をだれかが呼びに行ってくれていたらしい。
町の人たちは、今日はバスが臨時休業の日だと知っていて、教えようとしてくれていたのだ。

私たちの納得した顔に、彼らも一斉に笑顔になった。

「クゥスヌム!(ありがとう)」

その輪にむけてお礼をいった。

「どこからきたの?中国?」

「いいえ、日本人です」

若者が、私たちが日本人であると伝えると、どよめきのようなものがあがった。

すでにその日のブダペストへの交通手段はなくなっていたので、そのやさしいエゲルの町に予定外に一泊することになった。

困ってる誰かを助けようと、町を挙げて若者をみつけてきてくれたあのエゲルの経験は、旅に出る醍醐味をあらためて教えてくれるものだった。

それは「ことばを越えたなにか」。
もちろん、ことばができたら素晴らしい。
でも、できなくたって、根っこのところで人間として繋がれた感覚というのは鮮烈な印象を残してくれる。
たとえ同じ言葉を話せないからといって、相手を思う気持ちがなくなるわけじゃない。

ボゴタや、杭州や、ポルトの街で、誰かとことばを越えてつながったときのことは、スムーズに観光できたときより、もっと記憶に残っていたりする。

だから。
新しいどこかに行くとき、少なくとも「ありがとう」はその国のことばで練習していく。

スーパーマーケットで、緑いろがかったペットボトルの炭酸水をみると、いまでも、あの風景を思いだす。

あれから20年が経ち、世の中はさらに便利になった。

誰かが写した素敵な風景がつぎつぎ手のひらに飛び込んでくる。
旅に行くにも、もう重いフイルムなんて運ばない。
ぶ厚いガイドブックすら持たない。
パンフレットも地図もみんな手のひらの画面ひとつ。音声通訳だってしてくれる。

でも。
素敵な写真をSNSに載せるのもいいけれど。
その土地に行き、時にトラブルにあい、
そこに暮らす誰かと交流して、
携帯のカメラ越しでなく、
自分の目に、心に、
その経験を焼きつけてくることこそ旅にでる醍醐味なんだと、
緑のペットボトルの炭酸水は云っている。

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