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[日記]麩菓子に興奮し無くなった

昔、麩菓子がかなり好きだった。

近所の駄菓子屋さんで麩菓子を買っては貪り食っていたのだ。麩菓子の神に憑かれていたかもしれないという程に。何がそんなに好きだったのだろうと、今ではわからない。多分、甘くてサクサクしてたから好きだったのかもしれない。単純に。

それから現在。

令和6年になり、麩菓子を貪っていた幼少期から随分経過した今日この頃。父が「YouTubeで見てたら食べたくなっちゃった☆」などと、現代のキッズみたいな事を言い出して麩菓子を買ってきた。

1本分けてもらい、「甘すぎる」と唸る。袋に6本くらい入っていたけれど、他は父が全部平らげてしまった。

「めっちゃハマらない!?美味しいよね!」とハイテンションで麩菓子を食べ終えた父。私は愛想笑いで適当に誤魔化した。ごめんね。

確かに久しぶりに食べた麩菓子は美味しかった。だけど、幼少期のような情熱は沸いてこない。麩菓子に熱意を掛けていた時代が遠く感じた。

麩菓子だけじゃなくて、「なんであんなにハマっていたんだろうなー」って事は結構色々ある。

例えば私は学生の頃、とある戦隊にハマっていた。変身アイテムがガチャで登場し、死に物狂いで回した。今は実家に積んである。

それから、ソーシャルゲーム。私はアイドルの音ゲーにドハマりし、課金こそしなかったが、担当アイドルのイベントが開催されたら朝も夜も譜面を叩きまくった。

戦隊の変身アイテムも、ソシャゲも、麩菓子と一緒なのだ。憑りつかれたみたいにハマって、貪る。一瞬一瞬の喜びを逃さない為に躍起になっていた。

私は、一度物事に執着し始めると、満足するまでその熱意を燃やす。好きだ愛してると戯言を繰り返して、愛情をぶつける。

でも時は移ろい、いつのまにか熱意を掛けていたものからサッと離れていく。何だか全てが遠い昔のように感じて、セピア色の記憶をなぞる。

麩菓子を食べて、麩菓子に対する熱意がない自分の事を見つけて思う。「ああ、少しずつ変化を繰り返して生きているのだ」という事を。

新陳代謝。繰り返して、新しくなる。ずっと、意識が変わっていく事を恐れていたのだけれど、抗う事は出来ないのだなと知る。

でもむしろ、ポジティヴに考えれば、一つの物事に固執する事がないという事でもあるのかもしれない。

麩菓子を駄菓子の中で世界一美味いという思想を他人に振りかざす事なく生きてくれたのは、もしかすれば幸福なのかもしれない。

結構「こうであるべきだ」と決めつけて話してくる人は多い。そういう価値観を持ってして、その人は自分を保っているのだろう。そういう事はある程度理解している。それを変化させようなどという度胸も力量もない。

私は、一人で行ける所まで行こうと思うのだ。麩菓子や多くのものを貪った過去の事をたまに思い出しながら。他人を変えるなんて事はせず、私一人が変わって行けばいい。

様々な知識、価値観などを吸収して、適当に暮らしていきたい。「ああ、貴方はそうなるべくしてなったのね」と軽くかわしながら。過干渉はせず、期待もせず。

そして、熱意が移ろう事に恐れをなさないでいたい。愛したいものを、愛したい時に愛していく。その覚悟で、私は世界に飛び込み創作をする。誰にも指図などさせない。

いつまでも、熱を帯びていられたら。
空になった麩菓子の袋を見て思う。

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