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日本ではない、どこかでの物語

ほんの感想です。 No.37 堀辰雄作「聖家族」 昭和5年(1930年)発表

「聖家族」には、堀辰雄が、いかに師芥川龍之介を敬愛していたかなど、作品の読みどころがたくさんあります。その中から、今日は、「ここは日本なのか?」と思うほど、日本の生活感がないと感じたことをご紹介させてください。

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「聖家族」は、師の突然の死による主人公の心の乱れと、その回復の兆しを描いています。

登場するのは、故人の九鬼と、彼に縁がある次の三人です。
河野扁理(こうのへんり)(二十歳)。主人公。九鬼の弟子
 細木夫人を偶像視していたが、その娘の絹子を愛するようになる。
細木(さいき)夫人。五年前、扁理が、九鬼に伴われ訪れた軽井沢で知った未亡人。
 九鬼を愛していた。
細木絹子(十七歳)。細木夫人の娘。扁理を愛するようになる。

九鬼の死による扁理の心の乱れは、「乱雑」と表現されています。その状況は、「愛しているものから遠ざかるために、別の女と関わったが、その女のために非常に疲弊させられる」というものでした。

そして、この「乱雑」は、扁理が、死んだ九鬼が彼の裏側に生きていて、いまだに彼を力強く支配していることに気づいたことで、終わる兆しが感じられます。

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そんな、「聖家族」の冒頭は、次のように描かれています。

 死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。
 死人の家への道には、自動車の混雑が次第に増加して行った。そしてそれは、その道幅が狭いために、各々の車は動いている間よりも、停止している間の方が長いくらいにまでなっていた。
 それは三月だった。空気はまだ冷たかったが、もうそんなに呼吸しにくくはなかった。いつのまにかもの好きな群集がそれらの自動車を取り囲んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓に鼻をくっつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持ち主等が不安そうな、しかし舞踏会にでも行くときのような微笑を浮かべて、彼らを見返していた。

この自動車の硝子窓に人が群がる様子は、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」で主人公達が踊り場に向かう途上の場面を彷彿とさせます。「舞踏会にでも行くときの微笑」と相まって、「日本ではない、どこか」を感じてしまいました。

さらに読み進めると、その「日本ではない、どこか」という感じは、益々強まります。というのも、登場人物たちが、「あの人を愛している」、という台詞を口にしても、違和感を覚えなかったからです。

日本の夏に、「聖家族」をお勧めします。

ここまで、読んでくださり、どうもありがとうございました。

*堀辰雄の軽井沢作品に関する過去の記事です。


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