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20-03. 梅棹忠夫:情報革命を的確に捉え直した卓抜の知性

 梅棹さんの生年は1920年、申年です。年齢的には、1944年生まれのボクの二周り先輩に当たります。昨年は2020年、生誕100年に当たりました。 
 で、彼が創設した国立民族学博物館では、2020年の秋、「梅棹忠夫生誕100年記念企画展『知的生産のフロンティア』」が開催されました。

 さて、確か2003年の秋でした。中国の有人宇宙船・神舟5号が成功したというニュースが伝えられました。その直後、すでに視力を失っていた梅棹さんに出会って、その話をしたところ、

 「へぇー、ほんまかいな。それ、誰か見てたんか?」

 というのです。当時のニュースでは着陸地点の数キロ四方に「人払い」が行なわれたとも伝えられていました。で、そのことを伝えると、梅棹さんは、

 「そうやろうなあ。あの国は、そういうこと、平気なんや」

 とつぶやくのでした。

 その梅棹さんは、中国の23省すべてを踏破するほど中国文化に深い関心を寄せ、かつそれを好みもしたようです。が、そこで営まれている「文明=制度と装置」には少なからざる疑義を留保していたように思われます。同時に「自分の目で見たこと以外は容易に信じない」というスタイルを堅持してもいました。
 同じころ、梅棹さんの「情報産業論」の持つ意味を、多少は「ヨイショ」の気分を込めながら、プラトン『国家論』マルクス『資本論』と対比しながら話したところ、

 「まあ、そういうことやな」

 という返事が返ってきました。そのとき、
 「エライ自信やな」
 と思ったものです。が、それについては本文に記したとおり、上記の評価に加える変更はなさそうだと今も思っています。

 そんな梅棹さんは、いうまでもなく「知の巨人」と呼ぶにふさわしい人なのでしょう。が、彼自身は、

 「わたしは○○になれなかった」

 という思いを抱いていたようで『裏がえしの自伝』(中公文庫)という本を書いています。その目次を参照すると、
 「わたしは大工、わたしは極地探検家、わたしは芸術家、わたしは映画製作者、わたしはスポーツマン、わたしはプレーボーイ」
 という6つの「なれなかった職業」への憧憬が記されています。

 手先が器用だったし、冬山登山の経験も豊富だし、フィールドノートのスケッチは上手だし、写真の腕も確かだったし……みな実現可能だったのでしょう。ただ「生涯を知的遊戯に費消した」という点では、すでに「プレイボーイ」だったようにも思います。

 「ぼくは二流の学者ですよ。そやけど、日本に一流の学者て、いますか?」
 フランス文学者の桑原武夫が得意とした、痛烈かつ酒脱な修辞のひとつだ。その桑原も、「文明の生態史観」を書いた後輩の梅棹忠夫には、きわめて高い評価を与えていた。無理もない。結論を先にいえば梅棹は、人類文明史における3つの大転換を思想化した3人の1人だと言えなくもないからだ。
 その3人とは、農業革命によって成立した国家とそこに生きる人間を『国家論』で対象化したプラトン、産業革命がもたらした資本主義社会の終焉を『資本論』で論じた工業社会の殉教者マルクス、そして情報革命を受肉化した梅悼忠夫である。 

 1920年、京都の商家に生まれた梅悼は、大正デモクラシーの豊かで自由な気風を呼吸しながら、 昆虫への興味をきっかけに、大自然への遊戯的な好奇心を育んだ。それが第三高等学校時代に植物と登山への関心に広がる。で、そこから京都帝国大学理学部動物学科に進学する。それは第二次世界大戦のまっただなかで、のちに自然学をとなえる今西錦司が、いくつもの海外学術調査を始動させた時期でもあった。

 こうして梅悼は1941年にミクロネシアのポナぺ島、1942年に中国東北地方の大興安嶺、1944年から2年間は中国河北省北端のモンゴル文化が支配的な張家口での遊牧民の野外調査に従事する。で、帰国後はオタマジャクシを素材に「動物の社会干渉」を研究して、これが1961年、博士論文に結実する。つまり梅棹の学究史は動物の生態学的研究に端を発したのだった。

 が、2年間のモンゴル滞在で、彼の関心は羊をはじめとする家畜の群れから、その飼育を生業とする牧畜民の生活とその社会・文化の研究へと発展的に推移する。その結果、1955年の中国・インド・パキスタン・アフガニスタンに広がるカラコルム・ヒンズークシ、1957~58年の東南アジアへの学術調査には社会人類学者として参加した。結果、その後の彼の動向が決定されることになる。

 その展開は驚くほど速い。1955年の海外調査から帰国後1年で、彼の最大の学問的業績のひとつである「文明の生態史観」の執筆に着手し、それが翌1957年2月号の『中央公論』に掲載された。それは、その直前に来日したイギリスの歴史学者アーノルド・トインビー(1889~1975)の『歴史の研究』に集約される、梅棹の言葉を借りると(日本に対して極めて)「挑戦」的な学説への「応答」として執筆された。

 梅棹さんと話していて意外だったのは、実に多様な領域への強烈な好奇心を示されるのに、音楽を忌避しておられたことです。
 「きみ、モーツアルトて好きか? ぼくはあれを聴くと、耳から脳に手を突っ込まれて、かきまわされるような気がするのや」
 これには驚きました。が、1984年に失明されてからは、音楽への関心を持ち始められたようです。エレクトーンを購入して、エリック・サティの曲を弾いたりしておられました。そんなとき、
 「それって一種の『言行不一致』ですね」
 と失礼なことを言ったところ、梅棹さんは眉ひとつ動かさず、

 「言行不一致はあかんか?」

 とおっしゃるのです。で、ボクは、
 「いやいや、そういう言行不一致は大歓迎です」
 と、梅棹さんは、

 「サティの曲は、つぎにどんな音が出てくるか、予測できひんところが面白い。なんでも『家具の音楽』と言うらしいな」

 ボク自身も結構サティの音楽が好きです。で、彼のつけた曲名の面白さなどの話題を交わしたのが懐かしく思い出されます。

 今ひとつ、思い出すのは2005年ごろのことです。
 「なあ高田。竹を割ったような男というのはナンギやなあ。どうつきおうたらええのんか、ほんまに困る」

 こう切り出されたことがありました。そのわけは当時、
 「郵政民営化に賛成か反対か」
 と、文字通り「竹を割る」ような問いを突きつけて圧倒的な権力の座を確保した「単純明快を旨とする人物」の登場への驚きにも似た感想だったように思います。
 いうまでもなく世の中には当然タテマエもあれば、ホンネもあります。だからボク自身も、物事を単純に「竹を割る」ように決めつけることには違和感を覚えることがあります。

 ただ、そのときボクは何故か、小松左京さんが命名した梅棹さんの「白紙還元法」をめぐるエピソードを思い出していました。
 「はてしない議論がつづくなかで、梅棹さんは突如として、それまでの議論がぜんぶまちがいである、と論断し、すべてを白紙に戻して、梅棹見解で押しまくるのである」(加藤秀俊、1982『わが師わが友』中央公論社)
 いうまでもなく白紙還元法の論拠は「竹を割る」ように単純ではありません。が、ときに梅棹さんが振り回す大段平には「束にした竹をぶち切る」ような破壊力があったという気がします。
 このことは彼の「文明の生態史観」にも「情報産業論」にも感じられる気宇壮大さなのではないでしょうか。

 誤解を恐れずにトインビーの学説を極度に単純化する。と、
 「現存する地球上の6つの文明のうち健全さを残しているのは西洋文明だけで日本文明も12世紀から解体期に入っている」 
ということになる。梅棹は、こうした学説に不満を覚えて、それへの「応答」として「文明の生態史観」を執筆した。
 で、大胆にも多様な文化の系譜関係を無視してユーラシア大陸を2つの地域に類型化する。その一つは、この大陸の東西の端に位置して20世紀に帝国主義的侵略を試みた国々からなる第一地域であり、いま一つは、この大陸の中央部に位置して、第二次世界大戦後に勃興しつつある国々からなる第二地域だという。

 こうすることでユーラシア大陸の歴史は、カール・マルクスに典型的な、古代奴隷制から中世封建制を経て近代資本制、さらに未来の共産制へと必然的に発展すると考える一本道の進化史観(史的唯物論)の普遍性では説明できなくなる。

 その上で梅棹が採用したのは「進化への類推」に代えて、生物の共同体の歴史を実証的に捉える「サクセッション(遷移)」という生態学の概念である。それを用いて人類文明史を説明する作業仮説として「生態史観」を提起したのだ。それは、要約すれば、

 「主体(=ある地域の社会)と(それを取り巻く)自然環境との相互作用の結果が積もり積もって、それ以前の生活様式ではおさまらなくなり、つぎの生活様式に推移する現象」

 だという。

 その背景には、梅棹の学究史の初期を彩った生態学の素養がある。その上にモンゴルや中央アジアで出会った牧畜という、工業社会を生みだす農業とはまるで異なった生活様式の体験が重なる。で、生態史観は、社会変化のパターンが多様でしかありえない必然性を提示する。と、近代世界を支配した西洋文明の絶対的な優位の神話が解体した。同時に日本人の、理由のない西洋世界への劣等感の払拭のきっかけをもたらしたのだった。
 それは学説というより新しい思想の出現だったのかも知れない。同時に、驚くべき広がりと豊饒さで噴出する、その後の梅棹の言説と活動の源となった。

 その典型のひとつが「情報産業論」(1963)である。それは世界的なベストセラーとなったアルビン・トフラー『第三の波』より20年近くも早くに発表された。
 そこで梅棹は、動物の進化史を踏まえつつ、受精卵の発生と組織や器官への分化から個体の発生までを考察する発生学(Embryology)とのアナロジーを試みる。で、トフラーよりも包括的かつ本質的に農業革命と産業革命に続く人類文明史における第三の革命を論じたのであった。

 梅棹さんからは多くを学びました。が、彼が、前回に紹介した白紙還元法の直前に、しばしば口にした文言をマネると、

 「ちょっと違うなあ」

 と思ったこともあります。その一つが彼の造語の「こんにゃく情報」論(『情報の文明学』)です。
 「(コンニャクは)歯ざわりその他味覚に満足を与え、消化管の中に入ることによって、満足感を与える。……情報というものは、かなりの程度にこのコンニャクに似た点がある。情報を得たからといって、ほとんどなんの得もない。それは感覚器官で受け止められ、脳内を通過するだけである。しかし、これによって感覚器官および脳神経系はおおいに緊張し活動する」

 ここでは「ほとんどなんの得もない」というのが「ちょっと違う」という気がします。で、情報の果たす役割をメッセージ性とマッサージ性で捉えてはどうかと考えてみました。
 科学や技術、政治や経済に関する言語情報などは何かに役立つことが期待される「メッセージ性」、音楽や絵画、詩や小説などは人間の心身を喜ばせ楽しませ、珍しがらせ面白がらせる「マッサージ性」が卓越していると考えてはどうかというわけです。

 今ひとつは人類史への見方です。彼は、人間の体の働きを「消化器系」「筋肉・骨格系」「脳・神経系」に分けた上で「農業革命」は「腹の足し」、「工業革命」は「筋肉と骨格の足し」、「情報革命」は「脳・神経系の足し」になるのだと言います。

 ならば、梅棹さんの「すべては遊び」という「危険思想」を人類史は自ら体現してきたと考えてみてはどうでしょうか。
 まず、農業革命以前の人類の生業は狩猟と採集でした。が、農業革命は動物の狩りや魚釣り、果物狩りなどを「遊び」に変えました。ついで工業革命は「園芸」という「農業のマネゴト」に「遊び」の資質を付与しました。で、情報革命の進行は「工業のマネゴトとしてのものづくり」を「遊び」の領域に取り込みます。「ものづくりの素材や道具を売る東京ハンズ」のような業態の登場と人気が、このことを雄弁に物語っています。

 ただ、現実は今なお「経済成長」に至上の価値を置く「はしたない価値観」に支配されていて「生産性に役立つ知識や技術」ばかりが求められているようです。梅棹さんが生きていたら、

 「すべては遊び、なんやがなあ」

 とつぶやきそうな気がします。
 なお、梅棹さん影響でもないのでしょうが、昨今、ジャレド・ダイヤモンドユヴァル・ノア・ハラリなどが壮大な文明史を論じるようになりました。彼らの思想と学問を梅棹さんの議論との比較を通して検討してみようかと考えているところです。

 いわゆる「情報化」の意味を、今なお大方の議論は「経済社会の効率アップ」に求めがちだ。が、梅棹さんは、それを「脳・神経系の代替と充足」だと考えていた。「より良い生活」をめざす人間の生み出す文明が「物質エネルギー」の充足の果てに求める「心身の遊びと楽しみ」に「情報化」が役立つというのだ。

 だから、なのだろう。彼は、人類文明の到達点と多様な民族文化を展覧し、それを遊び楽しみ、かつ学ぼうとする日本最初の国際博EXPO70に積極的に参与した。
 で、その後は多様な民族文化を研究し、彼らが用いるさまざまな生活用具と彼らの生活様式を見せてくれるビデオ映像を広く一般に公開する国立民族学博物館(略称・民博)の創設に精力を注ぐ。それは「文明の生態史観」で論じた、地域ごとに多様化せざるを得ない人類の生活様式の実態とそれぞれがはらむ価値の等価性を、人々が遊び楽しみながら理解することのできる媒体として提供しようとする試みでもあった。

 が、ここで彼の知的探求が終わるわけではない。日本の都市に文化開発の種を蒔いたかと思うと、パリのコレージュ・ド・フランスで、近代に西洋と対等に伍し得た日本文明の特質を講義する。文明史における女性の役割を論じたかと思うと、研究活動の経営論を発表する。京都文化への深い思い入れを吐露したかと思うと、独特の人生論を展開する。それは文字通り「情報革命を受肉化した卓抜の知性の仕業」だというほかあるまい。

 しかも、いずれにも斬新な独創と見事な説得性が満ちている。その背景には多分、本人自身が「やや危険思想だ」と語る、あらゆる存在に、ただ知的な面白さだけを追求する純粋な遊びの精神があるのだろう。

 無論それだけではない。今ひとつは異なった価値観に支配される諸民族の世界を渡り歩くことで培われた強靱な相対観がある。さらに、やや唐突だが、千年以上もの間、権力の興亡が繰り返されてきた京都という土地に特有の、無辺の虚無感が裏打ちしている。これらの要素が相まって彼の営みは、人類文明への冷徹で包容力に満ちた思想に結晶したのではないか。

 そんな梅棹の人となりを、最も身近な年下の学者仲間の一人、石毛直道は「虚無に遊ぶカルテジアンデカルト主義者)」という、的確だが不思議な一言で捉えた。それは、役に立つことを懸命に追求した20世紀という時代を、それを貫くデカルト主義に立脚しつつ、だが、やっぱり根底から覆そうとする知的な遊戯に人生を費やした知の探求者への賛辞であるように思う。

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