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人間関係において「完璧に分かり合えている」ことは、絶対的に良い事なのか??

今回は、「お互い完璧に分かり合えている」というのは、本当に良い事なのか??ということを書いてみます!

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■ 人気小説「三体」


最近、三体というSF小説にどハマりしています。

内容は、三体人という異星人が地球を侵略するという定番のストーリー。しかし、細かな設定、科学技術のリアルな背景、それに対する人々の心理描写など…かなりリアルで相当面白い。


三体Ⅱの上巻の序盤で、とても示唆深いシーンがあるので紹介します。

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■ 「思う」と「話す」の違いがわからない三体人

三体人が地球人の言語を理解しようとする場面がある。
その中で、三体人が「思う」と「話す」の言葉の違いに苦しむ。

地球人にとってこの2つの言葉の違いは、明確。

しかし、なぜか三体人は違いが理解できない。

なぜか?

三体人には思考を他者へ伝える器官(口、声帯など)がない。
自らの思考は、自動的に、外部へ波長として視覚化される。
他者はそれを視覚を通じて、随時理解する事ができる。

つまり、地球人は ❶思う → ❷話す と2段階で意思疎通するのに対し、三体人は❶❷を同時に行ってしまう。思う事は常に話す事(相手に伝える事)と同期してしまっている。

よって「思う」と「話す」に違いが無い…という設定。

更に、自らの思考は常に公開されていて、思考を自らの内部に「留める」事ができない。

それによって、相手を「騙す」「驚かせる」という概念がない。

三体人は圧倒的な技術革新を遂げているが、意思疎通において決定的な弱点を抱えている事が明らかになる…

■ 「分かり合えない」私達

僕はこれは現実の僕らの生活において、とても示唆深いと思います。

人間は皆、無人島に住まない限り、必ず自分以外の他者と接して生活する。

家庭、職場などコミュニティに所属すれば、尚のこと他者と接する機会が増えます。

そうすると、皆価値観はそれぞれ異なるので、「どうしても分かり合えない」場面が出てくる。

「なぜ、あの人はあそこであんな事を言ったのか?」
「なぜ、誰も自分の話を聞いてくれないのか?」

「どうして、私達は互いに理解し合う事ができないのか…?」

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脳にある情報のうち、言語化できるのはごくごくわずかです。

さらに、相手の言っていることが本当なのかどうか、他者からすると確かめることができません。

よって、人は互いに完璧に理解しあえると言うのは不可能です。

だから、上記のように理解しあえない他者に対して不安や不満を抱える事は多くあると思います。

「分かり合えない事」は悪い事。

でも果たしてそうでしょうか?

 

■ 「分かり合えない」から生まれるもの。

これに対し、三体の話は「分かり合えない事」の良さを提示してくれます。

もし仮に、互いの事を完璧に分かり合えるとする。

そうすると、相手の事がわからないから、想像しようとする思いやりは生まれません。

また、相手を驚かせて喜ばせる…という事もできない。

更に広げれば、芸術や学問、文化についても、生まれない部分もありそうです。

「分かり合えない」から感じる不安や不満もあれば、

「分かり合えない」から生まれるものも沢山ある。

「分かり合えない」事は必ずしも悪でないと、気付かされました。

■ 「わかろうとする姿勢」が相手の心を打つ

人は他者のことを完璧に理解する事などできない。でもその前提があるからこそ、「相手を理解しようとする姿勢」に心を打たれるのではないでしょうか?

どれだけ相手を実際に理解したかよりも、
「分からないなりに」相手を理解しようと、意識や愛情を向ける事の方が、

他者と信頼関係を築く上で圧倒的に大切だと思います。

「分かり合えない」という前提を共有し、その上で「相手に何ができるか?」「少しでも理解したい」と思いを巡らせる事で、

家庭や職場のメンバーがまとまっていくのではないでしょうか?

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最後までお読みいただき、ありがとうございました🙇‍♂️

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