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「不便の利便性」という話

第Ⅰ章:ポスト・ヒューマンと技術

 人間にとって「技術」とは何なのかと考えるとき、真っ先に思い浮かべるのは哲学者のプラトンが著書『プロタゴラス』の中で語った次のような神話です。

 むかしむかし、神々だけがいて、死すべき者どもの種族はいなかった時代があった。だがやがてこの種族にも、定められた誕生の時がやってくると、神々は大地の中で、土と、火と、それから土と火に混合されるかぎりのものを材料にして、これらをまぜ合わせ死すべき者どもの種族をかたちづくったのである。そしていよいよ、彼らを日の光のもとへつれ出そうとするとき、神々はプロメテウスとエピメテウスを呼んで、これらの種族それぞれにふさわしい装備をととのえ、能力を分かちあたえるように命じた。しかしエピメテウスはプロメテウスに向かって、この能力分配の仕事を自分ひとりにまかせるようにたのみ、『私が分配を終えたら、あなたがそれを検査してください』と言った。そして、このたのみを承知してもらったうえで、彼は分配をはじめたのである。
 さて、分配にあたってエピメテウスは、ある種族には速さをあたえない代わりに強さを授け、他方力の弱いものたちには、速さをもって装備させた。(中略)そして同じように公平を期しながら、ほかにもいろいろとこういった能力を分配したのである。これらを工夫するにあたって彼が気を使ったのは、けっしていかなる種族も、滅びて消えさることのないようにということであった。
(中略)
 さて、このエピメテウスはあまり賢明ではなかったので、うっかりしているうちに、もろもろの能力を動物たちにすっかり使い果たしてしまった。彼にはどうしたらよいかと、はたと当惑した。困っているところへ、プロメテウスが、分配を検査するためにやってきた。見ると、ほかの動物は万事がぐあいよくいっているのに、人間だけは、はだかのままで、敷くものもなく、武器もないままでいるではないか。一方、すでに定められた日も来て、人間もまた地の中から出て、日の光のもとへと行かなければならなくなっていた。
 そこでプロメテウスは、人間のためにどのような保全の手段を見出してやったものか困りぬいたあげく、ついにヘパイストスとアテナのところから、技術的な知恵を火とともに盗み出して――というのは、火がなければ、誰も技術知を獲得したり有効に使用したりできないからである――そのうえでこれを人間に贈った。

(プラトン 『プロタゴラス』)

 プラトンによれば、人間は「はだかのままで、敷くものもなく、武器もないままでいる」存在でした。そんな弱い存在の人間が現代まで生き抜いてこれた理由は、その弱さを補う技術があったからだといいます。

 例えば、槍や弓、住む家、着るもの、履くものなど、そういった技術を扱うことで、人間は他の動物たちから身を守り生き抜いてきたと考えられるわけです。

 『プロタゴラス』の神話から技術とは人間の弱さを補うものという考えられると思います。哲学者のベルナール・スティグレールは、こうした技術の側面を「補綴性」と呼んでいます。

宗教、言葉、政治、発明、これらすべては、起源の欠失という本質的な一撃にほかならない。(中略)人間は、みずから想像するものを(中略)実現する。それが前定位、補綴である。(中略)エピメテウスの過失を代補するため、プロメテウスは、人間に対して、みずからの外部に置くという贈り物、贈与を行うのである。

(ベルナール・スティグレール 『技術と時間1』)

 技術は、人間ができないことを補う存在、人間の能力を高める存在だと考えられます。つまり、人間と技術はともに支え合いながら存在していると考えられるわけです。

 ところが、こうした技術観は近年怪しくなってきました。近年、AIなどの科学技術の目まぐるしい発展によって、そもそも人間は不要になるのではないかという疑いが生じるようになったのです。

 AIが発展し、人間の労働を代替するようになれば、そもそも人間など不要なのではないか。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリはAIの発展に伴い、人間の労働者が必要なくなり、「無用者階級」と呼ばれる職を持たない人々が多く登場するだろうと予言をしています。

 二一世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、厖大な数の余剰人員をいったいどうするか、だろう。ほとんど何でも人間より上手にこなす、知能が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場したら、意識のある人間たちはどうすればいいのか?

(ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス』)

二一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

(ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス』)

 人間の能力を遥かに凌駕する人工知能が登場することを未来学者のレイ・カーツワイルは「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼びました。

 特異点とは何か。テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来のことだ。(中略)迫り来る特異点という概念の根本には、次のような基本的な考え方がある。人間が生み出したテクノロジーの変化の速度は加速していて、その威力は、指数関数的な速度で拡大している、というものだ。

(レイ・カーツワイル 『ポスト・ヒューマン誕生』)

 カーツワイルは、シンギュラリティが2045年には起きるだろうと予測しています。つまり、カーツワイルの予測に従うならば、あと20年ほどで「無用者階級」と呼ばれる人々が登場する危険性があるということです。

 実際、オックスフォード大学で『雇用の未来――コンピュータ化によって仕事は失われるのか』という論文の中で次のような興味深い指摘が出ています。

 この論文で、私たちは「(コンピュータによる現代の)テクノロジー的発展によって、どれほど仕事が失われるのか」という問題を問うている。これを考えるために、私たちは新たな方法を実施して、702の詳細な仕事をどれほどコンピュータ化できるか、という可能性を評価した。こうした評価にもとづいて、将来のコンピュータ化がどれほど労働市場に影響を与えるかを調べた。(中略)この評価によれば、アメリカの全雇用のおよそ47%がきわめて高いリスクに分類される。私たちは、こうした仕事が比較的近いうちにに、おそらく10年や20年のうちに自動化されると考える。

(C.B.Frey & M.A.Osborne 『The Future of Enployment』)

 シンギュラリティによって人間は不要な存在(=無用者階級)になり始めているのだとしたら、現代は、人間と技術の支え合いの時代から、技術のみの人間が不要な時代へと変化してきていると見ることができるのではないでしょうか。

 現代は、人間の能力を補う技術があまりにも発展しすぎたために、そもそも人間自体が必要ではない時代に突入し始めている恐れがあります。こうした人間を不要とするポスト・ヒューマニズム的な技術が増えていく時代に対して、それでも人間性を残すにはどうすれば良いのか。次章では、ヒューマニズム的な視点から技術を問い直していきましょう。


第Ⅱ章:コンヴィヴィアルな技術

 現代の技術は人間の手から離れ、独立しようとしているように思えます。人間のコントロール下を離れた技術は私たちへの脅威となり始めている。

 例えば、バイオテクノロジーの進歩により、クローン人間の生成やデザイナーベイビーの生成が可能になることは「人権」と言う概念を大きく揺るがしています。

 なぜなら、バイオテクノロジーは「人間」を消滅させる可能性があるからです。政治哲学者のフランシス・フクヤマはバイオテクノロジーについて次のように述べています。

本書の目的は(中略)現代のバイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、私たちが歴史上「ポストヒューマン(人間以後)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。

(フランシス・フクヤマ 『人間の終わり』)

 バイオテクノロジーによって、ポスト・ヒューマンの段階に入るかもしれないと指摘しているのはフクヤマだけではありません。科学者のグレゴリー・ストックは、ホモ・サピエンスが自らのゲノムを編集することで、「自らの後継者を生みだすだろう」と次のように明言しています。

ホモ・サピエンスで霊長類進化が終わりでないことは分かっているが、私たちが著しい生物学的変化の先端にあって、現在の姿や性質を超越する、新たな想像力の目的地に向かって旅立とうとしていることを把握している人間はごく少数である。(中略)私たちが最終的に姿を消すに至る道は、人類の失敗によってではなく人類の成功によって切り開かれるかもしれない。徐々に漸進的に自己変容していくことによって、私たちの子孫を、現在使われているような意味で人間とは呼べないほどに現在の人類とは違ったものに変えてしまうことができるかもしれない。(中略)ホモ・サピエンスは、その真価を急速に前進させることによって、自らの後継者をうみだすだろう。

(グレゴリー・ストック 『それでもヒトは人体を改変する』)

 バイオテクノロジーの発展は、人類(ホモ・サピエンス)そのものを終わらせる可能性があります。

 人間は、あらゆるテクノロジーを使い、ホモ・サピエンスの後継者を生み出そうとしているとハラリも指摘しています。ハラリは、ホモ・サピエンス以降の存在は、現在の人間を凌駕した、まるで神のような存在であると予想できることから「ホモ・デウス」と呼んでいます。

何千年もの間、歴史はテクノロジーや経済、社会、政治の大変動に満ちあふれていた。それでも一つだけ、つねに変わらないものがあった。人類そのものだ。(中略)ところが、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まる(中略)。二一世紀には、(中略)ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードするものになるだろう。

(ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス』)

 AIにせよ、バイオテクノロジーにせよ、人類(ホモ・サピエンス)にとって脅威であることに変わりはありません。

 こうしたテクノロジーの進歩の裏側にある負の側面、つまり技術がホモ・サピエンスを支配し、滅ぼしてしまう恐れがあることをいち早く予見していた哲学者がいます。イヴァン・イリイチです。

 イリイチは、現代社会におけるテクノロジーの脅威を分析しながら、これに抵抗しうる人間と技術の関係を探求しています。イリイチが出した答えはシンプルで、それは、テクノロジーの開発には一定の限界が設けられるべきであり、その限界が踏み越えられると、テクノロジーの進歩は世界に対して破滅的な帰結を齎す、というものです。

 すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての倫理を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代わりをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を人工的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。

(イヴァン・イリイチ 『コンヴィヴィアリティのための道具』)

 際限のないテクノロジーの開発は人間への新たな奴隷制をもたらす。それが意味するのは、テクノロジーが人間のために存在するのではなく、テクノロジーのために人間が存在するということです。そのとき、人間は自分のライフスタイルにあわせて道具を使うのではなく、道具に合わせてライフスタイルを変更しなければならなくなります。イリイチはそうした状況を「校舎化・病棟化・獄舎化」と表現しています。

 イリイチは人間(ホモ・サピエンス)を不要とする技術開発は規制し、人間と技術の共生関係(イリイチはそれを「コンヴィヴィアル(自立共生的)」と呼んでいます)にある状態が望ましいと指摘しています。

いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は”自立共生的”と呼びたい。

(イヴァン・イリイチ 『コンヴィヴィアリティのための道具』) 

 人間を排除せず、人間と技術の共生的な関係性を私たちは考えていく必要があるのではないでしょうか。次章では、こうした人間と技術の良い共生的関係について考えるヒントとなるロボットについて注目してみようと思います。


第Ⅲ章:ケアと技術

 私は子供の頃、ロボットが好きでした。テレビでは『鉄腕アトム』や『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』『ドラえもん』など、誰もが一度は名前を聞いたことがあるようなロボットアニメは一通り見ていたほどにロボットに熱狂していた記憶があります。

 きっと、私が大人になるころには、社会には便利なロボットが溢れていて、私たちの暮らしは楽になっているのだろうな…と、そんな夢を見ていた時もありましたが、いまだに私たちの身の回りのあるロボットは、そこまで万能なロボットではありません。

 例えば、お掃除ロボットの「ルンバ」。部屋をルンバに掃除させているとルンバは段差から落ちて、そのままひっくり返ったまま自力で起き上がれないままでいます。

 自力で起き上がれず、ひっくり返ったままでいるルンバはポンコツですが、そのポンコツさがどこかかわいらしく感じてきます。「仕方がないな…」とひっくり返ったルンバを元に戻し、掃除の手伝いをしなくては、ルンバは掃除を成し遂げることができません。これはお掃除ロボットとしては不完全で、私たちから見たら不便な存在にも感じられますが、この不完全で、自力では起き上がれない「弱さ」を秘めたお掃除ロボットの不思議さについて、情報科学者の岡田美智雄は次のような興味深い指摘をしています。

 いったい誰がこの部屋を片づけたというのか。わたしが一人でおこなっていたわけではないし、このロボットの働きだけでもない。一緒に片づけていた、あるいはこのロボットはわたしたちを味方につけながら、ちゃっかり部屋をきれいにしていたとはいえないだろうか。
 そもそも、部屋の隅のコードを巻き込んでギブアップしてしまう、床に置かれたスリッパをひきずり回したり、段差のある玄関から落ちてしまうとそこから這い上がれないというのは、これまでの家電製品であれば、改善すべき欠点そのものだろう。
 ところがどうだろう。このロボットの〈弱さ〉は、わたしたちにお掃除に参加する余地を残してくれている。あるいは一緒に掃除をするという共同性のようなものを引き出している。くらえて、「部屋のなかをすっきりと片づけられた」という達成感をも与えてくれる。なんとも不思議な存在なのである。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 岡田によれば、こうしたロボットの不完全さ(=弱さ)が、私たち人間との共同性を引き出してくれるのだといいます。

 岡田はこうした周りの環境や人間の助けを必要とする不完全なロボットを「弱いロボット」と呼んでいます。

 すでにお気づきのように、〈弱いロボット〉というのは、かならずしも「弱弱しいロボット」というものではない。むしろ、「どこか不完全だけれど、なんだかかわいい、放っておけない‥‥‥」というものだろう。思わず手助けするなかで、手伝ったほうも、まんざら悪い気はしない。わたしたちとのあいだで、そんな〈持ちつ持たれつの関係〉を生み出すような存在をめざしたものなのである。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 弱いロボットはどこか不完全な存在です。何かが欠けている。岡田はこれを「引き算のデザイン」と呼んでいます。

 一方、従来の便利さを追求するデザインを「足し算のデザイン」と呼んでいます。「もっと便利に!」と考えるから足し算というわけです。この足し算のデザインは、私たちを傲慢な存在へと変えてはいまいかと岡田は次のような興味深い指摘をしています。

 ここしばらくの「利便性を追求する」というモノ作りの流れは、個々の〈弱さ〉を克服することに向けられてきたようだ。いわゆる「ひとりでできるもん!」をめざそうというのである。そこで一面的な利便性は高まるように思うけれど、一方では〈持ちつ持たれつの関係〉から遠ざかっているようだ。
 例のお掃除ロボットがもっと完璧にお掃除するものであったらどうだろう。もうコードに巻きついてギブアップすることもなければ、ちょっとした段差であれば大丈夫!誰の助けも借りることなく、きっちりと仕事をこなしてくれる。そのことでわたしたちの手間もだいぶ省けることだろう。ただどうだろう、それでおしまいということにはならないようなのだ。
 すかさず「もっと静かにできないの?」「もっと早く終わらないのかなぁ」「この取りこぼしはどうなの?」と、その働きに対する要求をエスカレートさせてしまう。そうしたら要求に応えるべく、技術者も新たな機能の開発に勤しむことに。ロボットの高機能さは、わたしたちの優しさや工夫を引きだすのではなく、むしろ傲慢さのようなものを引きだしてしまうようなのだ。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 便利さを追求する足し算のデザインは、人間の「傲慢さのようなものを引きだしてしまう」のではないでしょうか。「もっと便利になってほしい…」「どうしてあれが出来ないの!」など、人間の傲慢さに繋がってしまってはいないでしょうか。

 それに対し、引き算のデザインは「わたしたちの優しさや工夫を引きだす」ものです。それだけでは上手く目的を達成できないから、使用者の人間が工夫をしたり、優しく手伝ったりする必要が出てくるからです。

 また、弱いロボットで興味深いのは、「できる」という能力を個体だけに帰属しないことです。環境との調和を図りながら目的を達成する弱いロボットの能力は、個体と環境に帰属しています。

 では、「部屋のなかをまんべんなくお掃除する」という能力はどこに備わっていたのか。それをこのロボットの内部に一方的に求めるわけにはいかない。一方でロボットを取り囲んでいる周りの働きだけでもない。その能力は、ロボットとそれを取り巻く環境とのあいだにわかち持たれていたと考えるべきものだろう。「部屋をまんべんなくお掃除してくれる、もっとかしこいロボットを作ろう!」として、わたしたちは新たな機能をどんどん追加しようとしてしまう。けれども、周囲との関わりを上手に利用するなら、もっとシンプルなものでもじゅうぶんなのではないか。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 例えば、「お掃除できる」という能力について考えるとき、つい私たちはその能力をロボットの個体にだけ宿るものだと考えがちですが、ロボットからしてみれば、周りの障害物(環境)をうまく利用しながら掃除をしているわけですから、環境にも能力への作用があると考えられます。

 この能力は「ロボットとそれを取り巻く環境とのあいだにわかち持たれていたと考えるべきものだろう」という指摘は、私たち人間にとっての能力、あるいは能力主義について考えるときにも重要な示唆を与えてくれているように思えます。

 私たちは「できる」「できない」という能力を個人に帰属させがちですが、実際は「できる環境」(あるいは「できない環境」)が偶々そこに出来ていただけかも知れないということも考えなくてはいけないと思います。

 つまり、「できない」ことを個人の責任にせず、できる環境の構築が必要なのではないか。そのことこそが本当の意味でのエンパワメントなのではないかと考えられます。

 哲学者の村上靖彦はエンパワメントとパターナリズムの違いについて次のような興味深い指摘をしています。

 レジリエンス、エンパワメントといった言葉がある。これらは当事者が持つ力に注目した概念であり、今注目されていることには意味があるといえよう。当事者運動という視点から捉えたとき、エンパワメントを「支援者が当事者に力(パワー)を与えること」だと考えるのは誤解であろう。この解釈はいわゆるパターナリズムである。「本人が自分の力を発現するためには、どのような環境の調整が必要なのか」という視点が、エンパワメントの思想である。

(村上靖彦 『ケアとは何か』)

 パターナリズムは「できない(=能力不足)」の原因を個人に帰属させ、個人にできるようになるよう強制します。一方、レジリエンスは個人にできるようになることを強制するのではなく、環境の側で、できる場を構築します。これがパターナリズムとレジリエンスの違いです。

 村上の指摘から「足し算のデザイン=パターナリズム」「引き算のデザイン=レジリエンス」と言えるかもしれません。村上はケアに必要なのは、弱っている人間に力を与えることではなく、弱いままでも生きていける場所を作ることだと指摘しています。弱いロボットには、そうしたケアに必要な考え方が詰まっているように感じます。

 また、弱いロボットから学べることはそれだけではないと思います。岡田は、環境を味方にせず、プラン通りに掃除を行うロボットについて次のような指摘をしています。

 ただ、ここですこし気になるのは、この進化したロボットは、周りにある壁や椅子を味方にするのではなく、むしろ障害物ととらえてしまうことだ。その掃除を手助けしてあげようと、椅子を並べなおそうものなら、当初のプランからずれてしまい、その椅子はロボットにとっての邪魔ものになってしまう。いまにも「せっかくのプランが台無しじゃない。邪魔しないでよ!」という声が聞こえてきそうである。なぜか関わりも否定されているようで、なにも手が出せないのだ。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 椅子や壁などにぶつかりながらも、そうしたものを頼りに部屋を掃除する弱いロボットと、プラン通りに掃除をするロボットとでは、環境(椅子や壁、人間など)に対する考え方に明らかな違いが生まれます。前者にとっては、環境は味方ですが、後者にとっては、環境は敵になります。

 この周りのものと敵対するのではなく、むしろ味方に身に着けながら「掃除をする」という目的を達成する考え方は、外国人や病人など異なる存在を邪魔者として排除する考えが強まっている現代において重要な意味を持つのではないでしょうか。

 環境に委ねるというのは「いいかげん」という印象を受ける人もいるかもしれません。しかし、その「いいかげんさ」にこそ何か深い価値が眠っているのではないかと思います。

 ゆきあたりばったり‥‥‥。「自分の力だけでなんとかしたい」というこだわりを捨てて、ときには周囲の状況に身を委ねてみる。なにか「いい加減な‥‥‥」という印象を持たれやすい言葉だけれど、どこか捨てがたいもののように思われる。なにげなく街のなかを歩く、とりあえず手を動かしてみる。この「委ねる」「委ねてみる」というスタンスがその周囲にある働きを上手に引きだし、一緒になにかを生みだしているようなのだ。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

  「いいかげん」という日本語の面白さについてロボット工学者の鈴森康一は次のような興味深い指摘をしています。

 「いいかげん」は、無責任、手抜き、あいまいといったネガティブな意味と、いい塩梅、ちょうど良いかげん、といったポジティブな意味をあわせ持つ面白い言葉です。

(鈴森康一 『いいかげんなロボット』)

 「いいかげん」には、曖昧さを意味するネガティブな意味合いもありますが、同時にちょうど良いかげんというポジティブな意味もあります。

 鈴森は従来のロボット工学は精密性ばかりを追い求めすぎていることから不測の事態への順応性が失われていると指摘したうえで、順応性のある「いいかげんなロボット」が必要ではないかと指摘しています。

 現在のロボットは精密な機械部品と緻密なプログラムからできあがっています。精密、緻密を追求するあまり、不測の状況に対する余裕や順応性がなくなってはいないだろうか。もう少し”いいかげんさ”をロボットに与えることによって、”良いかげん”に仕事を行う、そういう可能性があるのではないか。

(鈴森康一 『いいかげんなロボット』)

 これはお掃除ロボットにも同じことがいえると思います。お掃除ロボットは、ルートを決めずに曖昧な場所を掃除していますが、曖昧だからこそ、柔軟に良いかげんに掃除ができます。

 鈴森は、「いいかげんなロボット」には、こうした柔軟さがあることから「ソフトロボット」とも呼んでいます。鈴森はソフトロボットと人類の未来について次のように述べています。

 ソフトロボットはロボット界における一種のゲームチェンジャーではないでしょうか。パワフルな力と知能で周囲を操ることをめざした従来のロボットに対し、ソフトロボットはやわらかい物腰で周囲に適応する解を見つけだします。従来のロボットでは「あいまいさ」や「いいかげんさ」は許されませんでしたが、ソフトロボットではそれらを受け入れ、活用します。(中略)
 この数世紀の間に人類は、これまでとはけた違いの速さと規模で高度な技術を手に入れました。その技術を力任せに駆使すれば、地球環境、あるいは人類の存在自体を破壊しかねない技術を手に入れたのです。これからは、環境をパワーで支配するのではなく、環境と調和する、しなやかな社会をめざすべきです。

(鈴森康一 『いいかげんなロボット』)

 ポスト・ヒューマニズム的な技術開発が進んでいる現代だからこそ、人間を含め「環境と調和する」技術をもっと大事にしていかなくてはいけないのではないでしょうか。


終章:技術と成熟

 現代は、便利で人間が大して手間をかけなくても使いやすい道具が溢れるようになってきた社会ですが、こうした便利な道具が溢れているときに思い出す言葉があります。それは『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』の中でドラえもんが便利な道具にばかり頼ろうとするのび太に対して言った「道具にばっかたよってると自分の力ではなーんにもできないダメ人間になるぞ!!」という言葉です。

 実際、『のび太とブリキの迷宮』では、チャチャ星人という便利な道具に頼りすぎて自力では歩くことすら出来なくなってしまった宇宙人が登場します。

 私たちは便利さと引き換えに何か大事なものを失おうとしてはいないでしょうか。

 哲学者の鷲田清一は、道具を消費する社会について興味深い指摘を行っています。

 消費社会。そこでは購買行為は必要=欠乏(need ないしは want )によってではなく欲望( desire )によって動機づけられている。(中略)たえざる欲望の更新、欲望の開発に、現代の商品経済は標準を合わせてきた。このように、高度化した消費社会では、モノは使い果たされるのではなく、はたまた使い回されるのでもなく、使い捨てられる。そこでは、「使う」ことが一方向の関係として起こるばかりで、使う者と使われる物との関係の成熟などというものは期待されてはいない。

(鷲田清一 『つかふ 使用論ノート』)

 鷲田によれば、現代人は大量消費をしやすいように加工された便利な道具を消費するようになったことで「使う者と使われる物との関係の成熟」が失われたと言います。物を使い続けず、使い捨てる社会。そこでは成熟がありません。

 例えば、ギターを演奏する場面を思い浮かべてみましょう。ギターを弾くとき、使用者が初めてギターを弾いていたとすれば、当然、最初はギターを上手く弾けずに苦戦するでしょう。

 でも、何度も何度もギターを弾き続けていると使用者(ギターを弾いている人)は段々とギター演奏が上手くなってくると思います。つまり、ギターを使える(弾きこなせる)ようになってくると思います。

 これはギターを弾けなかった使用者が、自己更新し、ギターを弾けるように成長・成熟したと見れます。このように使用は、ただ使用者がモノを使うだけでなく、使われるモノが使用者の能力を引き出し、高め、成熟させるということがあるというわけです。

 ところが、仮にAIを搭載し、自動演奏を可能としたギターが登場した場合、人間はギターを弾きこなすというような能力を身に着ける機会は奪われるでしょう。

 現代のあらゆるものが便利化する社会では、使用者の成熟が失われているように思えます。私たちの成熟には、多少の不便さを受け入れる必要性があるのではないでしょうか。不便であるからこそ、工夫の余地があるのですから。

 私は不便さにこそ、人間の成熟の機会があるのではないかと考えています。不便であるからこそ、自分でもなんとかしなくてはいけない…。この微妙な緊張関係こそが人間の成熟には必要なのだと思います。岡田はこんなことを述べていました。

至れり尽くせりの講義を準備すればするほど、〈教師〉に対して「もっと大きな声で、もっと手際よく」と〈学生たち〉からの要求がエスカレートしてしまうこともある。
 こうした場面に遭遇するたびに、お掃除ロボットの気ままさやあっけらかんとした姿もいいなぁと思う。老練な教師ならばすでに心得ているように、「この説明では誰も理解できないだろう‥‥‥」という講義も何回かに一度は許されてもいい。時には「えっ、なにこれ?ちょっとわからない、どうしよう‥‥‥」という学生たちの緊張感も必要だろうと思う。すこし緊張した関係性がむしろ豊かな学びを引きだしているようなのだ。

(岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考』)

 岡田が出した講義の例のように、多少は「扱うにはどうすればいいんだろう?」と考えたり、工夫をする余地を残したほうが「豊かな学びを引きだ」すのではないでしょうか。

 不便だからこそ成熟できる。不便なようで実は人間を成長・成熟させる便利さを秘めている道具こそ、人間と技術の良い関係性なのではないでしょうか。便利な道具に依存するだけでなく、人間が工夫し、学べるゆとりを残す必要があるように思えます。最後に鷲田の言葉で本稿を閉めようと思います。

 「使用」こそ「学び」の原型だと考えても、それこそ間違いないではない。じっさい、ブリコラージュとおなじで、眼の前にあるモノをいつか何かの役に立つかもと合切袋に入れておくように、これを知っておくことが何の役に立つかいまはわからないが、とりあえずいったんは「習っておく」というのが学びというものだからである。

(鷲田清一 『つかふ 使用論ノート』)


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参考文献

*プラトン(著) 『プロタゴラス――ソフィストたち』 岩波書店 1988年

*ベルナール・スティグレール(著) 『技術と時間1 エピメテウスの過失』 法政大学出版局 2009年

*ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 『ホモ・デウス上: テクノロジーとサピエンスの未来』 河出書房新社 2018年

*ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 『ホモ・デウス下: テクノロジーとサピエンスの未来』 河出書房新社 2018年

*レイ・カーツワイル (著) 『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』 NHK出版 2007年

*C.B.Frey & M.A.Osborne : The Future of Enployment : How susceptible are jobs to Computerisation? , 2013

*フランシス・フクヤマ (著) 『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』 ダイヤモンド社 2002年

*グレゴリー・ストック (著) 『それでもヒトは人体を改変する』 早川書房 2003年

*イヴァン・イリイチ(著) 『コンヴィヴィアリティのための道具』 ちくま学芸文庫 2015年 

*岡田 美智雄(著) 『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』 講談社 2017年

*村上 靖彦(著) 『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』 中央公論新社 2021年

*鈴森 康一(著) 『いいかげんなロボット ソフトロボットが創るしなやかな未来』 化学同人 2021年

*藤子・F・不二雄(著) 『大長編ドラえもん13 のび太とブリキの迷宮』 小学館 1993年

*鷲田 清一(著) 『つかふ―使用論ノート』 小学館 2021年


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