「不便の利便性」という話
第Ⅰ章:ポスト・ヒューマンと技術
人間にとって「技術」とは何なのかと考えるとき、真っ先に思い浮かべるのは哲学者のプラトンが著書『プロタゴラス』の中で語った次のような神話です。
プラトンによれば、人間は「はだかのままで、敷くものもなく、武器もないままでいる」存在でした。そんな弱い存在の人間が現代まで生き抜いてこれた理由は、その弱さを補う技術があったからだといいます。
例えば、槍や弓、住む家、着るもの、履くものなど、そういった技術を扱うことで、人間は他の動物たちから身を守り生き抜いてきたと考えられるわけです。
『プロタゴラス』の神話から技術とは人間の弱さを補うものという考えられると思います。哲学者のベルナール・スティグレールは、こうした技術の側面を「補綴性」と呼んでいます。
技術は、人間ができないことを補う存在、人間の能力を高める存在だと考えられます。つまり、人間と技術はともに支え合いながら存在していると考えられるわけです。
ところが、こうした技術観は近年怪しくなってきました。近年、AIなどの科学技術の目まぐるしい発展によって、そもそも人間は不要になるのではないかという疑いが生じるようになったのです。
AIが発展し、人間の労働を代替するようになれば、そもそも人間など不要なのではないか。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリはAIの発展に伴い、人間の労働者が必要なくなり、「無用者階級」と呼ばれる職を持たない人々が多く登場するだろうと予言をしています。
人間の能力を遥かに凌駕する人工知能が登場することを未来学者のレイ・カーツワイルは「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼びました。
カーツワイルは、シンギュラリティが2045年には起きるだろうと予測しています。つまり、カーツワイルの予測に従うならば、あと20年ほどで「無用者階級」と呼ばれる人々が登場する危険性があるということです。
実際、オックスフォード大学で『雇用の未来――コンピュータ化によって仕事は失われるのか』という論文の中で次のような興味深い指摘が出ています。
シンギュラリティによって人間は不要な存在(=無用者階級)になり始めているのだとしたら、現代は、人間と技術の支え合いの時代から、技術のみの人間が不要な時代へと変化してきていると見ることができるのではないでしょうか。
現代は、人間の能力を補う技術があまりにも発展しすぎたために、そもそも人間自体が必要ではない時代に突入し始めている恐れがあります。こうした人間を不要とするポスト・ヒューマニズム的な技術が増えていく時代に対して、それでも人間性を残すにはどうすれば良いのか。次章では、ヒューマニズム的な視点から技術を問い直していきましょう。
第Ⅱ章:コンヴィヴィアルな技術
現代の技術は人間の手から離れ、独立しようとしているように思えます。人間のコントロール下を離れた技術は私たちへの脅威となり始めている。
例えば、バイオテクノロジーの進歩により、クローン人間の生成やデザイナーベイビーの生成が可能になることは「人権」と言う概念を大きく揺るがしています。
なぜなら、バイオテクノロジーは「人間」を消滅させる可能性があるからです。政治哲学者のフランシス・フクヤマはバイオテクノロジーについて次のように述べています。
バイオテクノロジーによって、ポスト・ヒューマンの段階に入るかもしれないと指摘しているのはフクヤマだけではありません。科学者のグレゴリー・ストックは、ホモ・サピエンスが自らのゲノムを編集することで、「自らの後継者を生みだすだろう」と次のように明言しています。
バイオテクノロジーの発展は、人類(ホモ・サピエンス)そのものを終わらせる可能性があります。
人間は、あらゆるテクノロジーを使い、ホモ・サピエンスの後継者を生み出そうとしているとハラリも指摘しています。ハラリは、ホモ・サピエンス以降の存在は、現在の人間を凌駕した、まるで神のような存在であると予想できることから「ホモ・デウス」と呼んでいます。
AIにせよ、バイオテクノロジーにせよ、人類(ホモ・サピエンス)にとって脅威であることに変わりはありません。
こうしたテクノロジーの進歩の裏側にある負の側面、つまり技術がホモ・サピエンスを支配し、滅ぼしてしまう恐れがあることをいち早く予見していた哲学者がいます。イヴァン・イリイチです。
イリイチは、現代社会におけるテクノロジーの脅威を分析しながら、これに抵抗しうる人間と技術の関係を探求しています。イリイチが出した答えはシンプルで、それは、テクノロジーの開発には一定の限界が設けられるべきであり、その限界が踏み越えられると、テクノロジーの進歩は世界に対して破滅的な帰結を齎す、というものです。
際限のないテクノロジーの開発は人間への新たな奴隷制をもたらす。それが意味するのは、テクノロジーが人間のために存在するのではなく、テクノロジーのために人間が存在するということです。そのとき、人間は自分のライフスタイルにあわせて道具を使うのではなく、道具に合わせてライフスタイルを変更しなければならなくなります。イリイチはそうした状況を「校舎化・病棟化・獄舎化」と表現しています。
イリイチは人間(ホモ・サピエンス)を不要とする技術開発は規制し、人間と技術の共生関係(イリイチはそれを「コンヴィヴィアル(自立共生的)」と呼んでいます)にある状態が望ましいと指摘しています。
人間を排除せず、人間と技術の共生的な関係性を私たちは考えていく必要があるのではないでしょうか。次章では、こうした人間と技術の良い共生的関係について考えるヒントとなるロボットについて注目してみようと思います。
第Ⅲ章:ケアと技術
私は子供の頃、ロボットが好きでした。テレビでは『鉄腕アトム』や『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』『ドラえもん』など、誰もが一度は名前を聞いたことがあるようなロボットアニメは一通り見ていたほどにロボットに熱狂していた記憶があります。
きっと、私が大人になるころには、社会には便利なロボットが溢れていて、私たちの暮らしは楽になっているのだろうな…と、そんな夢を見ていた時もありましたが、いまだに私たちの身の回りのあるロボットは、そこまで万能なロボットではありません。
例えば、お掃除ロボットの「ルンバ」。部屋をルンバに掃除させているとルンバは段差から落ちて、そのままひっくり返ったまま自力で起き上がれないままでいます。
自力で起き上がれず、ひっくり返ったままでいるルンバはポンコツですが、そのポンコツさがどこかかわいらしく感じてきます。「仕方がないな…」とひっくり返ったルンバを元に戻し、掃除の手伝いをしなくては、ルンバは掃除を成し遂げることができません。これはお掃除ロボットとしては不完全で、私たちから見たら不便な存在にも感じられますが、この不完全で、自力では起き上がれない「弱さ」を秘めたお掃除ロボットの不思議さについて、情報科学者の岡田美智雄は次のような興味深い指摘をしています。
岡田によれば、こうしたロボットの不完全さ(=弱さ)が、私たち人間との共同性を引き出してくれるのだといいます。
岡田はこうした周りの環境や人間の助けを必要とする不完全なロボットを「弱いロボット」と呼んでいます。
弱いロボットはどこか不完全な存在です。何かが欠けている。岡田はこれを「引き算のデザイン」と呼んでいます。
一方、従来の便利さを追求するデザインを「足し算のデザイン」と呼んでいます。「もっと便利に!」と考えるから足し算というわけです。この足し算のデザインは、私たちを傲慢な存在へと変えてはいまいかと岡田は次のような興味深い指摘をしています。
便利さを追求する足し算のデザインは、人間の「傲慢さのようなものを引きだしてしまう」のではないでしょうか。「もっと便利になってほしい…」「どうしてあれが出来ないの!」など、人間の傲慢さに繋がってしまってはいないでしょうか。
それに対し、引き算のデザインは「わたしたちの優しさや工夫を引きだす」ものです。それだけでは上手く目的を達成できないから、使用者の人間が工夫をしたり、優しく手伝ったりする必要が出てくるからです。
また、弱いロボットで興味深いのは、「できる」という能力を個体だけに帰属しないことです。環境との調和を図りながら目的を達成する弱いロボットの能力は、個体と環境に帰属しています。
例えば、「お掃除できる」という能力について考えるとき、つい私たちはその能力をロボットの個体にだけ宿るものだと考えがちですが、ロボットからしてみれば、周りの障害物(環境)をうまく利用しながら掃除をしているわけですから、環境にも能力への作用があると考えられます。
この能力は「ロボットとそれを取り巻く環境とのあいだにわかち持たれていたと考えるべきものだろう」という指摘は、私たち人間にとっての能力、あるいは能力主義について考えるときにも重要な示唆を与えてくれているように思えます。
私たちは「できる」「できない」という能力を個人に帰属させがちですが、実際は「できる環境」(あるいは「できない環境」)が偶々そこに出来ていただけかも知れないということも考えなくてはいけないと思います。
つまり、「できない」ことを個人の責任にせず、できる環境の構築が必要なのではないか。そのことこそが本当の意味でのエンパワメントなのではないかと考えられます。
哲学者の村上靖彦はエンパワメントとパターナリズムの違いについて次のような興味深い指摘をしています。
パターナリズムは「できない(=能力不足)」の原因を個人に帰属させ、個人にできるようになるよう強制します。一方、レジリエンスは個人にできるようになることを強制するのではなく、環境の側で、できる場を構築します。これがパターナリズムとレジリエンスの違いです。
村上の指摘から「足し算のデザイン=パターナリズム」「引き算のデザイン=レジリエンス」と言えるかもしれません。村上はケアに必要なのは、弱っている人間に力を与えることではなく、弱いままでも生きていける場所を作ることだと指摘しています。弱いロボットには、そうしたケアに必要な考え方が詰まっているように感じます。
また、弱いロボットから学べることはそれだけではないと思います。岡田は、環境を味方にせず、プラン通りに掃除を行うロボットについて次のような指摘をしています。
椅子や壁などにぶつかりながらも、そうしたものを頼りに部屋を掃除する弱いロボットと、プラン通りに掃除をするロボットとでは、環境(椅子や壁、人間など)に対する考え方に明らかな違いが生まれます。前者にとっては、環境は味方ですが、後者にとっては、環境は敵になります。
この周りのものと敵対するのではなく、むしろ味方に身に着けながら「掃除をする」という目的を達成する考え方は、外国人や病人など異なる存在を邪魔者として排除する考えが強まっている現代において重要な意味を持つのではないでしょうか。
環境に委ねるというのは「いいかげん」という印象を受ける人もいるかもしれません。しかし、その「いいかげんさ」にこそ何か深い価値が眠っているのではないかと思います。
「いいかげん」という日本語の面白さについてロボット工学者の鈴森康一は次のような興味深い指摘をしています。
「いいかげん」には、曖昧さを意味するネガティブな意味合いもありますが、同時にちょうど良いかげんというポジティブな意味もあります。
鈴森は従来のロボット工学は精密性ばかりを追い求めすぎていることから不測の事態への順応性が失われていると指摘したうえで、順応性のある「いいかげんなロボット」が必要ではないかと指摘しています。
これはお掃除ロボットにも同じことがいえると思います。お掃除ロボットは、ルートを決めずに曖昧な場所を掃除していますが、曖昧だからこそ、柔軟に良いかげんに掃除ができます。
鈴森は、「いいかげんなロボット」には、こうした柔軟さがあることから「ソフトロボット」とも呼んでいます。鈴森はソフトロボットと人類の未来について次のように述べています。
ポスト・ヒューマニズム的な技術開発が進んでいる現代だからこそ、人間を含め「環境と調和する」技術をもっと大事にしていかなくてはいけないのではないでしょうか。
終章:技術と成熟
現代は、便利で人間が大して手間をかけなくても使いやすい道具が溢れるようになってきた社会ですが、こうした便利な道具が溢れているときに思い出す言葉があります。それは『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』の中でドラえもんが便利な道具にばかり頼ろうとするのび太に対して言った「道具にばっかたよってると自分の力ではなーんにもできないダメ人間になるぞ!!」という言葉です。
実際、『のび太とブリキの迷宮』では、チャチャ星人という便利な道具に頼りすぎて自力では歩くことすら出来なくなってしまった宇宙人が登場します。
私たちは便利さと引き換えに何か大事なものを失おうとしてはいないでしょうか。
哲学者の鷲田清一は、道具を消費する社会について興味深い指摘を行っています。
鷲田によれば、現代人は大量消費をしやすいように加工された便利な道具を消費するようになったことで「使う者と使われる物との関係の成熟」が失われたと言います。物を使い続けず、使い捨てる社会。そこでは成熟がありません。
例えば、ギターを演奏する場面を思い浮かべてみましょう。ギターを弾くとき、使用者が初めてギターを弾いていたとすれば、当然、最初はギターを上手く弾けずに苦戦するでしょう。
でも、何度も何度もギターを弾き続けていると使用者(ギターを弾いている人)は段々とギター演奏が上手くなってくると思います。つまり、ギターを使える(弾きこなせる)ようになってくると思います。
これはギターを弾けなかった使用者が、自己更新し、ギターを弾けるように成長・成熟したと見れます。このように使用は、ただ使用者がモノを使うだけでなく、使われるモノが使用者の能力を引き出し、高め、成熟させるということがあるというわけです。
ところが、仮にAIを搭載し、自動演奏を可能としたギターが登場した場合、人間はギターを弾きこなすというような能力を身に着ける機会は奪われるでしょう。
現代のあらゆるものが便利化する社会では、使用者の成熟が失われているように思えます。私たちの成熟には、多少の不便さを受け入れる必要性があるのではないでしょうか。不便であるからこそ、工夫の余地があるのですから。
私は不便さにこそ、人間の成熟の機会があるのではないかと考えています。不便であるからこそ、自分でもなんとかしなくてはいけない…。この微妙な緊張関係こそが人間の成熟には必要なのだと思います。岡田はこんなことを述べていました。
岡田が出した講義の例のように、多少は「扱うにはどうすればいいんだろう?」と考えたり、工夫をする余地を残したほうが「豊かな学びを引きだ」すのではないでしょうか。
不便だからこそ成熟できる。不便なようで実は人間を成長・成熟させる便利さを秘めている道具こそ、人間と技術の良い関係性なのではないでしょうか。便利な道具に依存するだけでなく、人間が工夫し、学べるゆとりを残す必要があるように思えます。最後に鷲田の言葉で本稿を閉めようと思います。
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参考文献
*プラトン(著) 『プロタゴラス――ソフィストたち』 岩波書店 1988年
*ベルナール・スティグレール(著) 『技術と時間1 エピメテウスの過失』 法政大学出版局 2009年
*ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 『ホモ・デウス上: テクノロジーとサピエンスの未来』 河出書房新社 2018年
*ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 『ホモ・デウス下: テクノロジーとサピエンスの未来』 河出書房新社 2018年
*レイ・カーツワイル (著) 『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』 NHK出版 2007年
*C.B.Frey & M.A.Osborne : The Future of Enployment : How susceptible are jobs to Computerisation? , 2013
*フランシス・フクヤマ (著) 『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』 ダイヤモンド社 2002年
*グレゴリー・ストック (著) 『それでもヒトは人体を改変する』 早川書房 2003年
*イヴァン・イリイチ(著) 『コンヴィヴィアリティのための道具』 ちくま学芸文庫 2015年
*岡田 美智雄(著) 『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』 講談社 2017年
*村上 靖彦(著) 『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』 中央公論新社 2021年
*鈴森 康一(著) 『いいかげんなロボット ソフトロボットが創るしなやかな未来』 化学同人 2021年
*藤子・F・不二雄(著) 『大長編ドラえもん13 のび太とブリキの迷宮』 小学館 1993年
*鷲田 清一(著) 『つかふ―使用論ノート』 小学館 2021年
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