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熱海、大垣、その先へ

※ 原稿用紙20枚程度です。

 

「宇宙なんて遠いよ」
 そう言う私に彼は困ったように笑った。
「私、行かないからね」
 言ってからしまったと思った。
 どこにでもあるチェーン店のカフェの席は混んでいて、少し顔を寄せて話さないといけない。
 ちゃんとした話をするなら、もっと静かな店が良かった。でも、もう遅い。話は始まってしまった。
 しばらく黙っていた彼は、宇宙なんて、そんなには遠くないよ、と言った。
 空と宇宙の境目というのは、高度100キロからなのだという。
「横にすれば東京から熱海までの距離だよ。新幹線に乗ればゆっくりお弁当を食べる間もなく着いてしまう」
「そうなんだ」
 熱海か。熱海はいいな。
 そう思って、カップのコーヒーをすする。
「まあ、宇宙ステーションは高度400キロくらいなんだけどね」
「それはどれくらい?」
「ええと」
 彼はテーブルに置いたスマホを持ち上げて、ちょこちょこと調べて言った。
「大垣くらいかな、東海道線で。岐阜の大垣」
「遠いね」
「遠いかな、青春18切符で行くようなところだよ」
 そんなのは知らない。新幹線止まらないし。
「だから、宇宙っていうのは、熱海、大垣、その先くらいだよ」
 私を丸めこもうとしている! いや、そうではなくて、彼にとってはそれくらいの距離感なのかも知れない。心理的な距離感、それくらいなのかも知れない。
 それが、そんなに気軽な覚悟で行けるようなところでないって、判っているにもかかわらず、だ。
「じゃあ、月は?」
 もっと宇宙は遠いはずだ。それを判らせよう。
「38.5万キロくらい」
 彼はすらっと答えた。でも、それがどれくらいの距離なのか、判らない。
「それってどれくらい? 具体的に!」
「具体的なんだが。……具体的かあ。……ええと、地球の赤道を一周するとして、……9周半くらいかな」
「そんなに!」
 航空券いくらになるの。マイルすごく貯まりそう。
「そんなかなあ。9周なんてすぐだよ。海外出張とか多い人なら、それくらいは」
「私、海外出張とかないもんで」
「大垣換算だと、960回行けるね」
「大垣出張もないもんで!」
 そんなとこに960回も行く用事ない。
「ともかく、月まではそれくらい。意外と近いでしょ?」
 この人、本当にそう信じてるんだなあ。
 私も、そう思えたらいいんだけど。
 月なんて見ている分には綺麗だけど、行くことを想像したら、怖さしかないよ。空気ないし、何にもないし。あんなところに、宇宙服を着せられて一人で立ったらと思うと、ゾッとする。青い地球を見ながら窒息死する想像がありありとできる。
「……じゃあ、火星は?」
「火星までは、一番近いときで、5600万キロくらいだね。一番、地球から離れると4億6000万キロ」
「ふーん」
 『よんおく』と言われても、もうよく判らん。
「地球を何回廻るの?」
「えーと、最近距離で行くとして……、1397周くらい」
「大垣には?」
「……140000回くらい」
 大垣に死ぬほど詳しくなれそう。
「さすがに近いって言わないよね?」
「まあ、近くはないね。行くだけで半年以上はかかる。帰りたいからって帰れるわけじゃない」
「……でも、行きたいのね?」
「……うん」
「そんで、私も一緒に行けたほうがいいのね?」
「……うん」
 私はまたカップに口を付けて、コーヒーをすすった。もう冷めて、苦酸っぱいだけの液体だ。
 彼は自分のカップを見ている。

火星移民の公募というのは、ここしばらく、テレビやネットやらで、ずっと広告されている。
 政府や国連の大募集。新たな、そして本当の人類のフロンティア!
 これまでにアメリカとか中国とかが恒久的な基地を作るまでに行き来の回数を重ね、もう一握りのエリートだけが行ける場所ではなくなりかけている。これから居住区を作り、資源を採掘し、そして数世紀以上かけてテラフォーミングしていくのだという。
 人が普通に生きていけるようになるまでで、数世紀、いやそれ以上!
 気が遠くなる。
 ちゃんと息もできないところに、好き好んでいくなんて。
 川も海もないようなところで、布一枚の壁の家に住むなんて。
 生き物なんていない、砂と山と谷しかないところに行くなんて。
 コンビニもアマゾンもない。
 そこで、子供を産んで育てるの? 学校もこれから作るようなところで?
 もし失敗したり、そうでなくても逃げ出したくなったときに、逃げ出す先の地球は、宇宙の彼方にあるだなんて。
 お父さんもお母さんも弟にも友達にも、会いたくなっても、宇宙を一年も旅しないと会いに行けないところなんて。
 でも、この人は行きたいんだ。
 別に行かなくちゃいけないわけじゃない。ちゃんと仕事もあるし、それに不満そうでもない。仲の良い家族だって、友達だっているし、結婚をひかえた、超立派な彼女だっているのに!
 そういうのを全部なしにしてもいいくらいに行きたいんだ。
 ずっと宇宙に憧れていたのは知っていた。でも、ここまでとは思わないじゃん!
 私にどうしろというんだ。
 私は黙った。彼も黙ってしまった。もともと口数が少ないから、沈黙の多い人だけど、彼の沈黙には種類がある。今の沈黙は困っているときの沈黙だ。
 でも、私だって困っているんだが。
「……あのさ」
 先に沈黙を破ったのは彼の方だった。
「待った! ええと、考えさせて!」
 そう私は言った。彼が何を言うつもりだったとしても、先に言わせるわけにはいかない。
「考えさせて! えーと、十秒!」
「え!」
 私の言うことに、彼は絶句した。
 そのうちに十秒なんて、すぐ経ってしまった。
 そして、私は、

  火星の荒野に立つ私を想像した。
  違う、想像したんじゃない。まるでそれが今そうであるように感じた。
  ただの想像というには、あまりにも強固なイメージだった。

    足元の赤い大地。分厚い手袋の感蝕。
    風の音。
    地平線は丸く、遠くのはずの山がすごく近くに見える。
    私は火星にいる。

      私はここにいる。

    私は火星にいる。
    雲のない空の上は宇宙に溶けて、見通す先に星々と惑う地球。
    遠い太陽。
    ヘルメットの中の空気のぬるさ。バイザーの視界のくすみ。

    そして、私の横に誰かがいて、

  私は自分の中でこんな鮮明なイメージを持てたことがなかった。
  これに比べたら、今までの記憶は水墨画のようだった。まるで、

 生まれて初めて私を知ったかのよう。
 いがらっぽくなった喉を潤すために、苦酸っぱいだけのコーヒーをまた一口飲んで、私は言った。

「……はい。いいよ、私も一緒に行きます」
「え…… ええ!」
 私の答えに彼は驚愕した。
「いいの? いや、もっとちゃんと考えた方が……、いや僕が言うことじゃないけど」
「ちゃんと考えました。私も火星に行くから」
「いや、でも」
「決めました。私も一緒に行きます」
 決めるのは一瞬だった。自分でも驚くほどすんなり答えは出た。
「あのさ、これそんな簡単なことじゃないと思うよ。僕が言うことじゃないんだけど」
「判っているよ」
 私は顔が青くなっていると思う。自分の決めたことの恐ろしさと面倒くささを想像したら、血の気が引いたのだ。
 家族にこのことを言って、何とか許してもらって、試験を受けて、仕事をやめて、いろいろな訓練とか準備とか。
 そうして、本当に移民になったら、もう戻れない。基本は片道切符だ。いちおうフォボスに中継基地はあるので物理的には可能だけど、国連が払ってくれるのは往路の運賃だけだから、地球に戻るまでの旅費は自腹だ。普通の人は一生かかっても払えない額だから、まあ無理だ。
 それで手に入るものは、赤い砂だけの土地と、寒さと吸えない空気だけ。
 そう、私は火星移民のことは、調べられることは調べてあったんだ。それが何のためのなのかも、深く考えもせずに。
 そして、多分、最後はそこで死ぬ。大往生かどうかは置いておいても。
 深く考えたら、吐き気がしてきた。
「無理してない? そんな無理強いするつもりはないから。とんでもない話だって判っているから、そんな顔してまで付いてきてくれなくても」
 違うんだ。この人は判ってない。
「違うの。私も行きたいの。私が行きたいの」
「え……」
「……もし、あなたの気が変っても、私行くから」
「な、なんで、そんなことになってるの!」
 ホント、なんでそんなことになってるの?
 私はさっき見てしまったんだ。
 恐くて仕方がない宇宙の、想像するだに恐しい火星の大地に立っている自分を。遠く青い地球を見上げている姿を。
 それは揺るぎないビジョンとして、そこにあった。今までそれに気付かなかったのが不思議なほどのはっきりした未来像だった。
 もう、今はさっきほどのくっきりしたイメージはない。さっきはまさしく自分がその場に居たようだったけど、もう既に少し色褪せてしまって、もう少し懐しい。
 だけど、私はそれをしたいんだ。どんなに恐くても、いや、その動かしがたい強い思いがあるからこそ、こんなにも恐いんだって。
「私も火星に行きたい。火星に行きたかったんだ。本気です」
「どうして?」
「私も火星に立ちたい。すごくすごく強く思うの。……説得力のある説明はできない。あとで考える。でも、私もあそこに行きたい。急にそれに気付いた」
「……本気?」
 私はうなずいた。
「そうか」
 彼は何だか私のことを変な目で見ている気がする。なんというか、普通の人を説得するつもりだったのに、その人が実はちょっとおかしい人だということに気付いたみたいに。
 私もちょっと自分が気が狂っているような気がしないでもない。今までの人生で自分の中にこんなに強い意志を自覚したことはなかった。
 今まで私は特別な才能も、叶えたい夢らしいものもなく、人より秀でたところも、ひどく劣ったこともなかった。夢や才能のある人が、当然のように何かに没頭し、突き進んでいくのをよく理解できないでいた。
 でも、これがそうなのかも知れない。
「……一緒に来てくれないかって頼むつもりだったんだ」
「ん」
「宇宙に行くのはずっと夢だった。遠い未来の人類のために、自分を犠性にして貢献したかった。でも、何より誰も立ったことのない星に行きたかった。本当にただ行きたいから、行きたいんだ」
「うん」
「でも、それは人生をまったく別のものに変えてしまう。だから、無理強いなんてできるわけない」
「……ん」
「本当は一人で行くつもりだった。黙って行くわけには行かないから、それをここで説明するだけのことだと思ってた」
 なにそれ、ムカつくわ。
「それで平気なの?」
 こんなに立派な婚約者様がいるのに?
「……平気なわけなかったよ」
 また、黙ってしまう。今度の彼の沈黙はいろんなものが入りすぎていて、彼のソムリエたる私もすぐに言葉にできない。
 私は言った。
「私も一緒に行く。……言っとくけど、付き添いってわけじゃないからね」
「うん。君は君の理由で行く。なら、僕たちは同志ってことだ」
「うん。そうだよ」
 ひょっとすると、私がこの人に出会ったことも、この人が私に出会ったことも、二人のこの決断までのひと繋がりなのかも知れない。二人が火星の大地に立つ瞬間のために、決まっていたことなのかも知れない。わからないけど。
 彼は喜んでいる、のか? それだけではない気持ちなのは判る。どこかで私の決めたことに反対したいというのも少し見える。
「行くよ。私たち」
 それを打ち消すように私は宣言した。

火星移民の募集広告を見てて、ずっと不思議だった。
 これに応募するのはどんな人なのか。どんな人がどんなつもりで行くんだろう。地球の居心地がそんなに悪いんだろうか。生まれた場所も、街も空気も季節も捨てて、知っている人を殆ど後に置いていって、あんなに遠くて恐しい場所に、どうして行こうとするんだろうって。
 どんな人があそこに行こうと思うのか。
 その答えは今判った。
 私だ。私のような人が火星へ行くんだ。
 あの天啓のようなイメージ。あれを実現したい。
 あれは実現するものなのだ。
 あんな遠くの恐い場所に、それでも、その場所に立ちたい。何かに取り憑かれたような強い衝動がその答えだ。
 私だけに当て嵌る小さな答え。でも、確固たる答え。その他の答えは私はいらない。
 多分、答えは人それぞれ。彼にも彼の答えがある。

私はずっと貧血のような青い顔のままだと思う。でも、身体は妙に熱い。
 彼は赤い顔をして、また何も言わずに、こちらを見てうなずいた。
 多分、人生でもっとも重大な決定を、このざわついた、どこにでもあるようなチェーンのカフェでしてしまった。

熱海、大垣、その先へ。そのずっと向こうまで。私たちは行くんです。


(記:  2022-04-15)

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