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それぞれの311

明日は3月11日は東日本大震災から11年を迎える日です。

当時僕は大学4回生で就職が決まり、丁度その日は友達の引っ越しを手伝っていました。

僕は大阪に住んでいて、友達は香川県に就職が決まったので朝からトラックを借りて自分たちで半分旅行感覚で引っ越し作業を進めていました。

本当に何気ない日。

音楽を聞きながらトラックに3人きつきつで乗って。

香川県の志度というところまで行き、部屋に荷物を運び入れながら

途中でテレビが繋がるかの確認でまだ当時はブラウン管テレビでした。

繋いでみるとチャンネルを変えども同じ番組で、友人と

「香川ってテレビ1チャンネルしか無いやん!」

「田舎やなー」

とか笑いながら、さっさと荷物を運び入れて

その時テレビに映る映像には気にもとめていませんでした。

まだガラケーの時代で今のようにSNSから逐一情報が入ることのない環境。

そうです。

1チャンネルしか無いわけではなく

全ての放送局が津波の映像を流していたのです。

そんなことに気がつくのはその日の夜でした。

今、自分で思い返してももっと早く気がつくタイミングがあったのではないかと思うのですが

途中立ち寄ったSAでもケータイからのニュースでも地震があったことに気がつくタイミングはあったはずなのに。

レンタカーの返却時間もあったので、ケータイを触る暇もなく

というより、今のようにケータイでできることが少なかったので

よくケータイは携帯しておけよ!と怒られるほどカバンの中にしまってあることが多く

その日もしまっていて、レンタカーを返し終わったあと朝ぶりに見た着信履歴が親から50件ほどコンスタントにかかって来ていて

何があったのかとゾッとした事は覚えています。

すぐにかけなおすと

「でた。よかった。今日は早くかえっておいで」

と母から言われ

わけも分からず友達とはそこでバイバイして急いで帰りました。

帰るなりリビングのテレビで香川で見た映像が流れていて

とてつもない違和感を覚え、すべてのチャンネルをみても

同じ放送で、やっとこの時津波が来たのだと気が付きました。

そこからは急に自分の周りの人間の安否が不安になり

親に親戚は大丈夫だったのかを

友達には当時mixiが流行っていたので接続などを確認して

メールを確認すると20件ほど同じ様に友達からの心配のメールが来ていました。

信じられないかも知れませんが大学4年でもそれぐらい、ケータイが重要な時代じゃなかったんだなと今では強く思います。

地震発生から数分後にはメールが届きだしていたのに、それに気がつくのが何時間も後なんて今では想像もつかないですが。

僕は、阪神淡路大震災を経験しています。

当時は4歳で幼稚園に行き始めた年でした。

寝ていると、とてつもない揺れを感じた事

父親が必死でタンスを支えていて

母親が姉と僕を抱え込んで

「大丈夫!大丈夫やから!」

と大声で言っていたこと

次の日から幼稚園が休みになって

家はドアが開かなくて窓から出入りしていました。

こたつに入り母と火事の映像を延々と見ていたこと

幼稚園が再開すると人数が減っていたこと。

衝撃的で、でも意味は理解できてなくて

小学校に上がる頃にやっと、あれは地震だったんだ。

幼稚園の友達は亡くなったんだと。

母親も大丈夫なんてわからないのに必死だったんだなと。

その時の記憶が、友達が減るという恐怖が襲いかかってきたのを覚えています。


今、僕は妻と二人の娘がいるので事あるごとに防災グッズを集めています。

キャンプ用品も好きなのでそれも備蓄品と一緒になおしてあります。

いざというときには何の役にもたたないかも知れませんが、その時を想像して準備することにしすぎることは無いと思うので。

東北で被災された方は、不快に思うかも知れません。もしそうであれば申し訳ありません。

本当に当時関西では揺れが酷いところもあればその日の夜まで気が付かないこともありました。

明日11年を迎えるにあたっての僕の記憶でした。


おしまい。


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