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「03」~1999~ 第15話

 朝からの雨雲は膨らんだ水分に耐え切れなくなり、突然の小雨を落としている。
大通りから一本奥に入るだけで、人通りのまったくない路地に入ってしまい、昼間でさえ薄暗いこの路地裏の、光の届いていない一角に我が家はある。ここら辺は昔からの古い家が多いが、改築、改装を何度も重ねているところもあるので、緑色のコケの生えた門が迎える家はそうそうない。雨が我が家を包み、剥げかけた壁に一層影を落とした。

「ただいま」 
玄関の引き戸が硬い。取っ手を持って少し上に上げ、一気に横に引く。「ガタガタッ」と音をたてながら、今日はすんなり一度で開いた。

三者面談のときも、機嫌がよければいいけれど。
 私は壊れかけの玄関の引き戸を、軽く足で蹴って閉めた。
 終業式が終わった後、帰り際に担任に呼び止められた。
 父親しかいない我が家には、担任がわざわざ進路を聞きに家まできてくれるという。ご足労だが、正直、喜ばしくない。学校では優等生を気取っている私が、こんなカビ臭い家に住んでいるなんて、誰ひとりとして知られたくはないのだ。

こんなとき母さんが居れば……

考えてもどうにもならない事を、またクヨクヨと考えてしまう。
こんな自分は嫌いだ。首から下げて肌身離さずもっている、母にもらったお守りを思い出し、腹に力を入れる。私は濡れた前髪のしずくを手で払い、靴を脱ぎ、先に帰っている弟の靴も一緒に端に揃えた。濡れた制服のまま居間の戸を開けると、なぜか会社に居るはずの父がそこに居た。

「どうしたの?」
 テレビの前に陣取っている、古びて黒くなったソファーの上で、父は背中を丸めた格好で座っていた。テレビをつけていながら手には新聞を持っている。私が声を掛けると肩がビクンと上下し、父は静かに振り向いた。
「父さん体調が悪くなってなぁ。午後帰ってきたんだ」
 いつもの茶けたシャツにスラックス姿の父。目線は競馬新聞と私を忙しなく交互に行き来する。
「体調って?体のどこが悪いの?熱でもあるの?」
 父の嘘は簡単に見破れた。
 朝起きたままの格好で会社には行かず、ずっと家にいたに違い無い。父は時々様々な理由をつけて会社を休むクセがあった。問い詰める私に父の口調はあやふやになり「体調というか、気分が悪いというか…」と、なにやら言葉を濁そうとした。

「そうだ由希子、成績簿はどうした。良かったか?」
 うまく話しを逸らそうとしたのか、父は声を張り上げ大げさに笑顔をつくる。私が成績表を差し出すと一層声を張り上げわざとらしく喜んだ。
「何だ、お前の成績表は10しかないのか?たまには苦手科目もあったほうが女の子らしいぞ。先生の評価も高いじゃないか。高校は学区内外問わずほぼ合格だってな」
 まるで自分が努力し勝ち得たかのごとく誇らしげな父に「今度三者面談があるの」とすかさず言った。
 今を逃したら話し合う機会が無い。
「三者面談?いつだ?」
「夏休み中。先生が家まで来てくれるの。進路のことでまだちゃんと話してなかったでしょ」
 早くも面倒臭げな父の態度に焦りながら、私は
「南高校、推薦で、しかも特待生確実って言われた」と付け加えた。
「特待生?金はかからないのか?」
「そう、お金のことは大丈夫。美術科の専門課程受けるつもりだけど、点数取れば特待外れないって。画材はバイトでどうにかするから。絶対家に負担掛けないから」
 そこまで言うと父の顔が渋るのが分かった。
 南高校まで行ってなぜに美術を選ぶのか
「芸術など何の足しにもならん」と言い放った父は更に神妙な面持ちで
「敦も来年から中学だし、お前にばかり金は掛けてられん。女は愛嬌だが男は学歴だ。敦にこそ父さんは頑張ってもらいたいんだ。敦の成績もなかなかだったぞ」
だから、お金は…と言う私に、大袈裟に息子の将来を心配する良き父を演じ、女は学歴なぞ無くても簡単に金を稼げると言い出した。

「じゃあ父さん、敦には苦労させないのね?」
 言葉がキツくなる。
「修学旅行の代金ももちろん用意してあるんでしょ?確かボーナス出たよね?」
 突然のストレートを食らった父は持っていた新聞をたたみ、急に思いついたかの様に、玄関の引き戸を直すと言い出だした。
「担任の先生が来るなら直しておかないとな。前々から由希子に言われていたし」
私の言葉など聞こえていないかの様に立ち上がる父に「美術科でいいでしょ?」と念をおした。
「はいはい」と生返事の父は逃げるように玄関へと走り出す。自分に都合が悪くなるとすぐ逃げる。たとえ弱小企業でもボーナスは出ているはずだ。父が使い切ってしまう前にどうにか手を打たないと。

 濡れた制服を着替える為に二階へあがる。
 白いセーラーに雨のシミが出来ていて、そこから薄く下着の色が透けて見えていた。
 女は学歴なぞ無くても…。
 父の言葉の意味に気づいた私は、身体に虫が這うかの様な寒気に囚われる。父が先ほどチラチラと見ていたのはこれだったのか。
 汚らわしい、と思うよりおぞましかった。鳥肌のたった腕を掻きむしり、先に帰っているはずの弟の部屋をのぞいた。

「敦?寝ているの?」
 ベッドのタオルケットが大きく膨らんでいる。
 頭まですっぽり隠れて丸く小さくなっていた敦は「寝てないよ」と言って上半身を起き上がらせた。
「昼ご飯食べた?軽く焼きそばでも作るけど」
 そういって部屋に足を踏み入れると、敦の枕元に「集金袋」と書かれた茶色い封筒。そしてベッド脇に散乱する、数枚の……

「……お金…?」

 それが千円札だと認識するのに、数秒の時間を要した。
 私の視線に気づいた敦は急ぎそれを掴み、タオルケットの中へと隠す

「どうしたの、そのお金」


#昭和 #貧困 #虐待 #小説 #地方都市

取材、執筆のためにつかわせていただきます。