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どうか、元気で幸せに。

2016年12月31日。車で横浜にある老人ホームへ向かった。

この季節になってはじめて行くようになった老人ホーム。おじいちゃんの部屋はあたたかだった。
なにも食べなくなったおじいちゃんの動きはゆっくりで、それに合わせるように私もゆっくり動いた。
なにを話したんだろう。「暑い」って言うおじいちゃんを、うちわでやさしくあおいだ。「このみだよ」って言って、手を握った。なにもできないけれど、なにかしたくて仕方ないとき、私はいつも手を握る。

しばらくして帰る時間になった。「またね」って言ったと思う。父の運転する車。夕暮れの高速道路。こんなこと思っちゃだめだけど、もしかしたら父は、その父であるおじいちゃんに会うの、最後だったかもしれないんだ。

その日、車からみた夕焼け。富士山が見えた。

…………

翌朝、2017年1月1日。おじいちゃんは、元旦の明け方に亡くなった。息子である叔父が側についていたそうだ。
「もう今日で終わり」と言って、元旦の明け方に亡くなった。自分でそう決めたのかな。もう会えないんだ。って、ピンとこない。

…………

横浜に行って、お葬式のためのことを決めた。案外形式的に淡々と進むんだなとか、いくらかかるんだな…とか。その夜、お通夜にもはじめて参加した。

親族が集まって夜遅くまで話した。私はお茶を入れたりしながら、話を聞いた。

おじいちゃんは、まぁ孫の私から見てもマイペースな人で、お寿司屋さんのお会計のところにある【お子様へどうぞ】の飴を取ってニコニコしてたり、赤が好きだから油性ペンで携帯を赤に塗ったりしていた。笑っちゃう。笑えて笑えて、愛おしい。

その夜はじめて聞いたんだけど、おばあちゃんがいるのに女の人を家に呼んだりとか、免許とろうとしたけど、教官と喧嘩してとれなかったりとか(しかも3回もそれをやった)していて笑った。
しんみりした感じはなく、まったくねえ…(笑)とみんな優しく笑って話をしていた。元旦に亡くなるなんて、「俺のこと忘れるなよ!」って感じでおじいちゃんらしいね、と。そんな話が何時間か続いた。泣き虫の私は、時々部屋の隅っこで泣いた。

そして当時、人生のどん底にいた私は、そこで親戚のおじさんに救われたんだよね。「必ず夜は明けるばい」とか言われて。椅子から落ちそうになるくらい普通なんだけど、涙が出て仕方なかった。もともと涙腺が緩んでいたせいもあったんだろうけど。

うちは、仕事の都合からか お盆も年末年始も、親戚で集まることがなかった。だから、そこではじめてちゃんと親戚と話したんだよね。
そこには「不幸になってほしい」なんて思う人はひとりもいなくて、みんな私に対して「幸せでいてほしい」って思っているみたいだった。そういうことがひしひしと伝わってきて涙が出た。

…………

お葬式のことは書かないけれど、火葬場で棺を見送るとき、最後に残った私に母が「もう会えないんだね」って言って泣いていたことを、今でも何度も思い出す。もう会えないんだ。

おじいちゃんは、俳号だった『赤灯』をむこうでの名前としてもらっていた。おじいちゃんのことだから、向こうでも元気で楽しくやってるんだろうなと思います。そうであってほしい。

…………

さみしいことはさみしいことに変わりないけれど、こうやってあったかい味方がたくさんいることに気づけてよかった。1月1日に、親戚のみんなを否応なしに集めてくれたおじいちゃん。

慌ただしい日常に甘んじて、会うことを 話すことを先延ばしにしていたけど、ここできちんと話せてよかった。あれから着々と進んでこれて、夜は明けた。

三回忌、おじいちゃんのおごりでごはんを食べて、2年前のことを思い出したのでした。

年末年始、親族で集まるおうちも多いのかな。「大好きだよ」「応援しているよ」がいっぱいありますように。私もこのまえ、父に伝えた。

お父さんはそっけないけど(笑)ほんとうは私のこと大好きだと思います。って思えることが、あたたかくて幸せなことなんだろうな。
おじいちゃん、ありがとう。ずっと大好きだよ。どうかそちらでも、元気で幸せに。

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急に雨が降ってきた時の、傘を買うお金にします。 もうちょっとがんばらなきゃいけない日の、ココア代にします。