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鯨のお腹


鯨のお腹の中は、
暖かくて懐かしい音がして、
案外心地良かった。


私が乗っていた船が転覆しかかったのは
昨晩の夜のことである。

貨物船員として働いている女性は、
世界中探してもきっと少ない。

だから、嵐に巻き込まれて船がひっくり返りそうになった時
真っ先に救命ボートを使って逃したのは
唯一の女性である私だった。

その瞬間は、確かに私を助けてくれたのだと思った。


だからこそ、絶望が大きかった。


少なくとも、どんどん遠くへ漂流していく私が
最後にその船を見た時、
船はまだしっかりと浮かんでいた。

私を1番に逃した理由を考えてしまって
雨にずぶ濡れになったまま
1人で歯を食い縛っていた。

それは悔しさだった。
見抜けなかった悔しさを、
容赦無く降る雨が物凄い勢いで膨張させた。


視界の先から大きな鯨が
やって来たのはその時である。


最初はこの辺りでよく見る
マッコウクジラかと思って
ぼんやり眺めていたが、
海面に顔を出した瞬間、
それはとんでもなく大きくて
見たことの無い鯨だということが分かった。

頭が大きくて、
尻尾の方へ目を動かすにつれて
小さくなっていく。

幼稚園や公園にある鯨の滑り台に、
よく似ていた。


私は最早荒波の中逃げる術も知らず、
黙って鯨に飲まれるのを待つしか無かった。

これで終わりでも良いかと思って、
鯨が口を開けた瞬間は、寧ろ気分が良かった。


私は鯨の口の中に飛び込んだ。

荒波と共に一瞬にして暗闇になった。
叫び声を上げることも出来ず、
恐怖と、終わりの見える少しの安心感に溺れた。




気が付いた時、夢を見ているのかと思ったが
先程までの記憶を取り戻すと、
案外落ち着いたものだった。

耳の奥に届けているような低い轟音が、
何故だか心地良く、止めどなく聞こえた。

真っ暗ではあるが、
足元で魚が跳ねている音は身近なものに感じて
それだけで恐怖は薄れた。

先程までの嵐からは
考えられないほど穏やかな流れで、
私は食道を通って胃の中へ向かった。

漸く手に持っていたオールで
舵を取れるようになって、
のんびりしている水の流れを
前進しようと試みた。

とてつもなく大きな鯨なので、
食道を通るのも
全く苦には感じない。
テーマパークのアトラクションにある
トンネルのような広さはあった。


胃の中に着く頃、
傾斜も無くなって流れはますます
穏やかになった。

少々魚臭さは感じたが、
暖かく、案外居心地が良かった。

胃の中は更に広くなっていて、
小学校の教室より、少し広いくらいだった。


胃の中は、何故だか少し明るかった。

奥の方で、灯りがついていた。
私はここに、誰かいるのだと悟った。

チャプ、チャプとオールを漕ぐ音が響くので、
私が話しかけるより先に、
『誰か』が私の存在に気が付いた。

その人は、私の方を見て思わず立ち上がった。
髭と髪の毛が相当伸びていて、
ひと目見るだけで年月の長さを感じた。


「こんにちは。
貴方はここの住民ですか?」

私から声を掛けた。

「いえ、私は…あの…ここはどこなんでしょうか」

男は状況を把握出来ていないのか、
頭で言葉を整理しながら
私に問いかけているようだった。

「鯨の中です」

私の答えに、男は暫く首を捻って、
それから頷いた。

「鯨の中ですか…なるほど。
ところでお尋ねしたいのですが、
一体今はいつなんでしょうか?」

男は足元の灯りを手元に持ってきた。
私の顔を伺っているようである。

「今は、20xx年の8月8日です。
時間は、腕時計が壊れてしまって分かりません」

「20xx年だって?」

男は大変驚いていたが、
暫くすると納得したかのように低く唸った。

「確かに、合点がいく」

私はボートをどこかに括り付けたかったが、
なにぶん鯨の体なので引っ掛けるところもなく
途方に暮れているところだった。

男は私の手を引いて、
私がボートから降りるのを
手伝ってくれた。

「この場所は随分デコボコしているでしょう。
このデコの部分は
水に浸からないから大丈夫です。
ボコっとした部分は、そのまま放っておくと
魚と一緒に流されてしまうので
気をつけて下さい」

恐らく薄ピンク色であるこの部屋は、
暗闇によって少しどす黒く感じられた。

男がデコの部分に
ボートを引っ張り上げてくれたので、
私は漸く落ち着いて腰を据えることができた。

「ところで、貴方は一体いつからここに?」

今度は私が尋ねる番だった。

「19xx年ですよ」

「じゃあ10年もここにいるんですか!?」

私は一瞬驚いたが、なんだか妙だった。

10年の月日が流れている割には、
男の格好がまだ小綺麗だったからだ。

「いや、僕も今貴女に聞いて知ったんですが、
どうやら鯨の体内時計は
相当ゆっくりしているようですよ。
僕は実際1ヶ月もここに居ないような
気がしているんです」

確かに、これだけ大きな鯨の中にいれば
時間がゆっくり流れているのも合点が行った。

「それじゃあ、貴方はどうしてこの鯨の中に?」

私のように状況を
把握している訳でも無かったので、
こんな海原の真ん中に居るのが不思議だった。

男は少し下を向いて、それから答えた。


「飛び込んで死のうとしたんです。
それで、気付いたらもうここでした」

男は冷静だった。
既に悟っているような表情だった。

「死にそびれた上にどこにいるかも分からない。
でももしかすると、
もう死んでいるのかもしれない。
そんな状況で、1人で暮らしていました」

男の近くには、
ロープと金属のボディになっている
ライターが置いてあった。
私がそちらに目をやったのに気付いたのか、
男はひとつ溜息をついた。

「海で死ぬか山で死ぬか、
それともガスか考えて、漸く心に決めたのに」

男はもうひとつ、大きな溜息を吐いた。

「私も飲み込まれる直前、
似たような心境でした」

私はボコの部分で
飛び跳ねる小魚をぼんやり見つめながら、
男に話し掛けた。

「だけどここは居心地が良いですね。
もう少し生きてみようかなって、
そう感じるような、不思議な温度で」

男は、私と少しだけ離れた
距離であぐらをかいた。

「僕もそう思うんです。
不思議と、ここでなら生きていても
良いような気がして」

デコの部分には、色々な物が転がっていた。
ペットボトルや布切れ。
これは全部鯨が飲み込んだゴミだと、
男は話した。

「この狭さが、僕にとっては丁度いい。
外の世界は、僕には広すぎたんです」

男の感じていることが、
嫌という程共感出来た。

私は広い世界を見たくて貨物船員になって、
ただそこの世界はとんでもなく狭かった。

ここはたしかに狭いけど、居心地が良い。

ここで私の世界を作るのも良いかもしれない。

私は男と話し合った。

流木で小さな家を建てて、
毎日流れてくる魚を釣る。

お金も必要無い。
差別も無い。

私達だけの小さな世界。

だけど、そこには何か違和感があった。

ここは立ち止まる場所じゃない。
時が来たら出るべき場所だ。

男も多分、気が付いている。
ただ、男にとって今は立ちどまるべき時間なのだ。


「ここから出ることは出来るんでしょうか」

私は多分、あの嵐で巻き込まれて死んだ。

全員がそう信じて疑わない筈である。

鯨の外に出た時、
私の居場所はもう無いかもしれない。

だけどそれは、新しい世界を築くチャンスでもある。

「分かりません。
ただ、鯨はその時を教えてくれるような気がします」

お腹の中で、ゴゥっという音が響いている。

「分かりました。
ここが妙に居心地が良い理由が」

ここは、とても懐かしくて、
みんなが知っている場所に似ている。

低く鳴り響く音も、暖かく肌に触れる温度も。

お母さんのお腹の中にそっくりだった。

「新しい世界が今より酷い可能性だってあるのに」

男は、外の世界に抵抗するように呟いた。

「だけどここは、
死ぬ為でも立ち止まる為でもなく
新しく生まれる為にある場所なんでしょう?」

私は立ち上がって上を眺めた。

きっと、男と話している間に
外の世界はどんどん時間が経っている。

もう一度新しい人生を送れるなら、
私はもう一度、今度は違う世界で生きたい。

「あのロープ借りても良いですか?」

男が持ってきたロープを持って、
喉に目掛けて思いきり投げた。
死ぬ為ではなく、生きる為に。

ロープは鯨の喉を通って、
歯の間に引っ掛かった。

「私、ここを上ってみます。
鯨はよく口を開くから外の景色も見えるし、
陸が見えたら外に出ようと思います。
貴方も一緒に来ますか?」

男は俯いたまま、
少しの間両腕を組んで悩んでいた。

「いや、僕はもう少しここに居ようかな。
勇気が出た時、
その頃には僕の知らない世界が始まっているだろうから、もう少し考えてみます」

「考える時間は沢山ありますもんね」

私はロープに腕を伸ばした時、
男に声を掛けた。

「そのボートあげます。
もう使わないので」

男は私に握手を求めて、目に涙を溜めていた。

「貴方は私の新しい世界を作る為にやってきた。
僕は必ずもう一度生まれ変わります。
その時に会いましょう」

「私こそ、貴方のおかげで生きることが出来るんです。是非近いうちに会いましょう」

私は一歩、腕の力を使って踏み出した。

穏やかな流れに逆らって、
私は再び広くて激しい海を見に行く。

新しい世界のことを考えると
胸が躍る。

生きてて良かったと思った。

挿絵提供:みゃーむょん
https://instagram.com/wimwim_1616?igshid=w13hdzxj0jm1

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