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手に入れられないことが、嬉しく思う。


幼少期、我が家ではゲームが一切禁止されていた。

ゲーム機は勿論1つも無くて、
唯一の思い出は、父の持っているパソコンゲームを借りて
時々『ソニック』をやっていただけだった。
どのシリーズだったか、タイトルは思い出せない。
実は記事を書く前に、心当たりあるキーワードを調べてみたが
小学生だった私の記憶は余りにも曖昧で、
それに該当するタイトルがどうしても思い出せなかった。

兎にも角にも、
私がゲームという種類の娯楽を語るには
余りにも経験が乏しく薄っぺらい。

母は結構な頑固者で、TVゲームを悪だと言い張っていた。
私は家で何をしていたかというと、
TVゲームを与えられない代わりに、家族でひたすらボードゲームに興じた。
それはもう一昔前のアニメに出て来るドイツ文化のように、
家族でドンジャラをしたり人生ゲームをしていたのは
思い出として鮮明に残っている。

今となってはそんな幼少期の過ごし方も悪くなかったと思えるが、
当時ゲームを持っていないことにはかなりの弊害があった。
私の幼少期には最早【頭に悪い・目に悪い・とにかく悪】という概念を超えて、
子どもたちのコミュニケーションツールとなり得ていたのだ。

奇跡的に小学生時代、
今では考えられない程にコミュニケーション能力が高かったので
自ら竹馬ブームを巻き起こし、ことなきを得たわけだが
友人がゲームをするから遊べない日というのは間違いなく存在した。
(そういう時は大体誰かの家でパーティーが開催されるわけだが、
人の家にお呼ばれされるのを嫌がる母は、パーティーの参加を許さなかった)

大人になった今、ゲームを知らなくて苦労する機会はあまり無いが、
子どもの頃、みんなが持っているものを持っていないというのは
死活問題でもあった。
家にあるボードゲームは時間潰しには匹敵したが
それを話題に学校の帰り道、
友人と盛り上がるといったことは一度も無かった。
どれだけ豊富に持っていても、結局それが身内以外で
活躍する機会は片手で数えられる程である。

ただ、ボードゲームをしていようがTVゲームをしようが、
大人になって何も役に立っていないことは同じであった。

友達と遊べないと言ってゲームをねだると、
母は毎回「大人になったら自分で買いなさい」と言った。

あの時は
「意地でも大人になったら絶対に買ってやる」と思っていたが、
結局私はゲームにお金を使ったことは人生で一度もない。
今になって思うに、きっと私はゲーム本体では無く、
『友人とゲームを興じる』ことに興味があったのだろう。

じゃあ結局、親が私にTVゲームを買い与えなかったのは正解だっただろうか。
否、である。
私と対照的に、兄は大人になってゲームに惜しまずお金を使うし、
寧ろそれは幼少期の制限が反動となっているようにも感じる。
母は、私と兄を使って良い実験をしてくれたものだ。
ゲームを買うか買わないかなんて、成長過程でなんら関係無い。

唯一言えることは、TVゲームを制限されていた分、
時々遊ばせて貰った例のソニックが
とてつもなく面白いゲームとして思い出に残っていることである。
きっと比較対照が少ないおかげで、
あのゲームはとっても思い出深い存在となった。
あのゲームを、もう一度したい。
きっと2度と手に入れることはないだろうけど、
子ども時代に置いて来た宝物だと思えば、
手に入れられないことが嬉しく思う。



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