みんな、どこかで見てくれとったんよね。
「あの日、背中を押してもらったっちゅうか。『もうちょっと頑張れるやろう?』って、教えてもらった感じなんよね」
大阪で8年勤めた会社を辞め、地元・広島にUターン。今は山口県岩国市で「シェアオフィス」と「高齢者の生活支援」を営む顕児(けんじ)さんは、事業が歩みを始めた2016年10月18日をそう振り返ります。
自ら運営する場所での、初めてのイベント。そして、想定外の依頼。
ふたつの“第一歩”を通じて、Uターン以降の「手探り」がつながった日のことを話してもらいました。
(聞き手・執筆/佐々木将史 編集/ウィルソン麻菜)
Uターンして1年4ヶ月。手探りが続く日々
地元に戻ったのは、30歳の最後の日。2015年の6月かな。もう5年半か……早いね。
生まれと育ちが隣の大竹市(広島県)で、中学高校と岩国に通ったんよ。大学で大阪に出たけど、いずれこっちに戻るかなとは思ってたし、そのときは「自分で何かやれたら」とか考えてた。8年営業の仕事をやるなかで、「これぐらいの時間をかければ、自分のまわりにある程度コミュニティが築ける」って感覚も掴めてたしね。
でも、いざ戻ってあちこちで人と会っても、なかなか先が見えてこんでね。今運営してるシェアオフィスのオーナーさんにも出会えたけど、正直「何ができるんやろか」って思いながら、2016年の4月にとりあえず法人を立てたかな。
ここの建物、元は骨董品屋さんやったんよ。ただ閉めてもうずいぶん経ってて、中も瓦礫だらけで。店をされてた人の娘さんが、整理も含めて「使ってほしい」って依頼してくれたんよね。だから、設立しても半年は売上どころじゃない、片付けばっかり。
それを一人でやっとるときは、ほんまに闇の中よね。瓦礫の山を前に、「俺はどこに向かいよるんやろう……」みたいな感じやった。当時はシェアスペースにするイメージをしてて、「いろんな事業が生まれる拠点に」と思ってたけど、ほんまに人が来てくれるんか、将来の仕事に繋がってくんかは分からんかったし。
あと岩国は古い城下町やから、若者に対する厳しさもあって。店の入り口が大きいガラスの扉なんやけど、人が前を通っても足を止めるでもなく、でも改装してるのをずっと遠巻きに見る感じはあったよね。
だから、あえて窓ふき掃除して、建物の外側に体を出しながらこっちから声をかけたり。そしたらやっぱり話が膨らんで、「その片付けしよんの、どこ捨てるんね?」「うちのも一緒に捨ててもらえるんかね?」みたいになって。
そのときに「自分が頼まれとることは、みんなの困りごとなんやな……」って感じたんは、今思えば大きい気づきやったかもしれんね。
オープンイベントで、初めて掴んだ確信
そんな状態やったから、いよいよスペースがオープンする日は怖かったよね。どんな人が、どのくらい来てくれるかも全然分からんし。
オープンイベントには、知り合いのイラストレーターさんに2週間の個展をやってもらって。やっぱり地方だと、自分で美術画廊を借りたり一人で展示したりが大変らしくて、「うちでやってみませんか」って声をかけたんよね。そういう人の背中を後押ししたいっていうのは、今もずっと思ってることやから。
個展の開始は12時だったけど、初日は10時にスーツ来て、近隣に挨拶にまわったかな。作ったフライヤー持って、同じ商店街のお店の人に「今日からスタートします、お世話になります」って頭下げて。
で、いざオープンしたら今まで全く縁がなかった人が、すごいたくさん来てくれたんよ。それがね、かなり感慨深いものがあって。
お花やお酒もたくさんいただいてね。要はオープンするまでの、自分なりにやってきた人付き合いとか行動とかを、実はみんなが「見てくれとった」ってことなんよね。
だから、すごく怖い1日であったのと同時に、あの日がやっぱり自分の背中も後押ししてくれたっちゅうか。「お前もうちょっと頑張れるやろう?」って、教えられた日になったよね。そこまで深い縁があった場所じゃないけど、それでも「こうやればコミュニティを作れる」って確信を得た瞬間やし、その経験があるから今も「もうちょいやってみよう」って思えるようになった。
あと、この辺は夜暗いわけよ。お年寄りが多いから、商店街も店閉めるのが早いんよね。だから「夜に光があったら素敵やな」っていうのは思ってて、あえて19時までスペースを開けてみた。
そしたら、ウォーキングや犬の散歩をしてる人が、オープンの日から中を覗いてくれるようになって。「なんか、この通りにちょっと明かり灯せましたかね」って話したのもすごい覚えとるよね。
あの日、おばあちゃんが教えてくれたもうひとつのこと
オープンの日、実はもうひとつ大事な出来事があって。俺は当然、そのイラストレーターさんの個展をやっとるつもりやったわけよ。したら、「今から来てくれ」っちゅうおばあちゃんがおってね。
行ったら「植木鉢を1階から3階に上げてくれ」って話やった。ほんまに小さい植木鉢やったけど、もう自分じゃ両手の塞がった状態で階段を上がれんと。「あんた、片付けとかやりよるんじゃったら、うちのも仕事としてやってくれんか」って言われたわけ。
俺は、そのおばあちゃんのことは全然知らんかったのにさ。だから、やっぱりどこかで「見てた」っちゅうことよね。
で、実際持って上がったらお礼を言われて、「なんぼ払おうか?」って聞かれるわけよ。いやもう、オレも「どうしよう」ってね。そんなものは事業として用意してなかったし、仕方ないから500円にして。「いや、そんなんじゃいけん」って言うんやけどさ、そのときは「500円でいいです!」って言い張った。したら、帰りにアメちゃん持たしてくれてさ(笑)。
その500円の出来事がね、なんか俺にとっては最高に良い仕事やったな。「地域の人には、どうもこういうニーズがあるんやな」って、これいけるんじゃないかって予感したっちゅうか。実際、それが今の「高齢者生活支援」の事業になっていって、二本柱のひとつになってるからね。
あと、その仕事のおかげで、自分が目指すのが「やりたいことを実現する起業家」ではなくって「人がやってほしいことをやってあげる起業家」なんやって、はっきりしたというか。俺は自分が絵を描けるわけでも、おいしいケーキを作れるわけでもないけれども、人がやってほしいことを叶える手伝いはできる。これは「業」になるんじゃないかって想いが、1日でわっと湧いてきたわけ。
この日までは、瓦礫を片付けながら「俺は何をやろうとしよるんだろうか……」ってずっと悩んでたんやけど。いざ蓋を開けてみたら、そこに答えが待っとった感じなんよね。
自分がやるより、「やりたい人」を生み出せるように
その後、シェアスペースとしてオープンした場所は「シェアオフィス」の形に軌道修正してね。古い建物ならではの、電気のワット数とか水回りとかの事情も込みで長く借りてくれる人を、二人三脚で支える形にした。今は3階までぜんぶ埋まったから、ここはひと段落って感じかな。
「高齢者生活支援」の方は、周りの人もどんどん関わるようになってくれてね。妻が介護福祉士で、一緒にお年寄りの家に行って「ここの段差をなくそう」とか気づいてくれるし、庭木の剪定を頼まれたら、親父が詳しいから一緒に連れてってね。多いときは週に2回くらい切ってもらってる。
そうやって事業をやってくと、うまいことにふたつが重なっていくんよね。
俺が建物直してたら、「あいつ、なんかそういうことできるらしい」って話題になる。高齢者の家に行ってると、 そっちでも話題になる。話が合わさった結果、空き家の管理に困ってる高齢者がいたら「あそこのおばちゃんもう草刈りできんって言ってるけ、あんた管理してあげなさい」みたいに話が振られてくるんよ。
実際、行って草刈りしたら「実はもうこの家誰も使ってないんです……」って言われるわけ。じゃあうちに任してくださいと、「僕が代表でしっかり世話していろんな人が使える場所にしますよ」って話したら、お願いしますってなるんよね。
信頼関係を紡いでいくことで、バタフライエフェクトじゃないけど、また別のところで同じような話が俺に返ってくる。予期せぬことではあったけど、ありがたいよね。
そういう仕事ってある意味、町おこし兼支援事業みたいなものなんよ。で、俺自身がこれを岩国でやりながら、今後は「他の場所でやりたい人を増やす」ってことをイメージしてて。
新しくオープンする物件は、実際若い人らにほとんど任せとるし。生活支援の仕事も、自分があちこちでやるというより、各地域でそれをできる人を増やしたい。
今って、あちこちに疲弊してる地区が増えててね。屋根のトタンがひっくり返ったままの家があったり、もう自分のことすら手いっぱいです、みたいな人がおったりするわけ。
依頼を受けて俺が行くこともあるけど、ほんまはそこに「困ったときにすぐ駆けつけられる」って若者が一人でもおったら、すごいええやん。住む人を支えられる仕組みが地区ごとにできれば、新しい仕事も作れるし、高齢者も安心して生活ができる。
あの日来てくれた人らと、植木鉢の仕事をくれたおばあちゃんに教えてもらった事業やけど。今度はそんな形で、俺が次の人に答えを渡せたらええなって、今は思ってるよね。
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