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百人の心が育つ時

 きのう書いた痴漢にあった話。

 中学生の時に先生にお尻を触られたことを、大人になった今「痴漢という許せない行為の被害者」だという気持ちになったという話。

 大人になって性的不快の心が育ったために、こう思うことになったわけで。

 ただ、当時○○(←痴漢の名前が入ります。)のクラスの友だちが、むちゃくちゃ担任の○○を嫌っていた。「なんでそんなに嫌いなの?」って聞いたら、「毎日ホームルームでいやらしい話をするからイヤ!」と言っていた。

 そんな彼女はすでに性的不快の心を大きく育てていた。そりゃ毎日セクハラにあえば育つはずで。私のは今大きく育ったけど、人によって差がある。

 それで思った。○○の痴漢にあっている人はたくさんいる。何百人。もしかしたら何千人。その人たちが○○への性的不快の心を大きく育てて、その人数が100人に達した時、あの男はどうなるのだろうかと。

 前にエッセイに書いた「百匹の猿」では、百匹目の猿が芋洗いをしたら、遠く離れた猿も芋を洗い始めたということだった。○○への性的不快の心が100育ったら、○○の痴漢にあっていない人も○○に性的不快を感じるんじゃないだろうか。そのとき、あの男は階段から突き落とされるのかも。

 それで「あっ!」と思った。

 オリンピックの音楽担当の人が、昔いじめていたことを原因に担当をおろされた。いじめられていた人じゃない人たちが、そのいじめについて批判をした。それって、いじめられていた人のいじめた人への恨みの心、正義の心が100育って伝播したからじゃないの?!

 百人いじめてなくても、一人の心が5人分、10人分、100人分の大きさになれば・・。

 真実はわからない。

 でもそう思える。心が育つのには時間がかかる。昔のことが蒸し返されるのってそういうことなのでは。

 心のパワーは未知だから。

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