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20-6 梅すだれ 肥後の国

 有明海からの流れ者である与兵衛を見張っているのは天草藩の役人、源蔵げんぞうである。夜明けの光に目を覚ました源蔵は与兵衛を見て仰天した。十日間も飲まず食わずでこのまま死んでしまうだろうと思っていたのに、憔悴して俯いたまま動かなかった与兵衛が目を開けて空を見ているのだ。子どもの頃に婆ちゃんから聞いた鬼が今目の前にいるのかもしれぬと、源蔵の背筋は凍り付いた。
 死んだ者の霊がこの世への未練に生き返って来るという鬼。決して死なないその姿は角が生えて肌の色は赤くなっていると聞いたが、人の姿のままの鬼もいるのではないだろうか。そう思わずにはいられぬほどに、与兵衛は瀕死の状態から甦って来た。
 この十日間で三回雨が降った。一回目の雨は四日目の夜だった。凍えて死んでしまうかと思ったが、夜が明けると雨が上がり冬にしては珍しく気温が上がった。海の向こう島原では黒い雲が大雨を降らしていると言うのに、天草だけに太陽が照り付けたのだ。二日後の朝、夜明け前にまた雨が降った。植物に水を遣るようにざっと降りまた昼には燦燦と太陽が照り付けた。三日後にまた夜明けに雨が降りそのあと晴天になった。この雨のたびに草木のように与兵衛の肌艶がよくなっていることに、源蔵は気づいていた。もう一人の見張り役、直忠なおただもそう思うと気味悪がっている。
 イルカに助けられて浜に打ち上げられていたというが、今は雨と太陽が与兵衛に命を吹き込んでいる。何かが与兵衛を生かしているとしか思えない。この辺りには鬼の里があったという言い伝えがあるから、鬼の魂が入り込んできているのかもしれない。鬼に魅入られたのだろうか。

(なんでこの男が?)

 源蔵はまじまじと与兵衛をみつめるが、黒く日に焼けた肌にはしわが刻みこまれていて、何の変哲もないどこにでもいる農民だ。

「ぉかきぃ…」

 動かない口から声が漏れてくる。夜中にも聞こえてきた「おかき」。この男の妻だろうか。源蔵は試しに言ってみた。

「おかきに会いたいとか?だったらぜんぶ話せば会わせてやると」

 源蔵の言葉に与兵衛の目に力が入り、目玉だけをこちらへ向けた。
「おかきは生きとっと?」
 まだ話せることに源蔵の背筋はますます冷えたが、
「ぜんぶ話せば会わせてやると。」
と厳しい口調を崩さぬようにして繰り返した。

 その時、有明の月は光に負けて消えてしまった。場違いにも空に残っていた月がいなくなったことで、与兵衛は自分の思い違いに気づき安堵した。太郎がお柿を連れて天草へ泳ぎ着いたに違いない。また三人で暮らせるのだ。与兵衛は目をつぶるとぽつりぽつりと原城のことを話し始めた。

 原城に立て籠もった半分の者たちは逃げていなくなったこと。出身の村ごとに固まって暮らしていたこと。益田四郎が毎朝皆に説教をすること。

 この二か月のことを言葉で吐き出せば原城へ行ったことなど消えてしまうと思えたから、以前と同じ天草での生活に戻るために何から何まで話した。

 途中喉が渇いて声が出なくなったが、源蔵に水を飲ませてもらい話し続けた。もう少しで話し終わると言う時に、交代の見張り役である直忠が来た。
与兵衛が話す姿を見て「ひっ」と恐ろしさに声を出した直忠であったが、源蔵から目で合図を受けて話が終わるまで静かに聞き入った。

 話が終わると源蔵は小走りで城へと戻った。この与兵衛の話は、原城から抜け出て捕まった他の者たちの話と一致した。すぐに原城を取り囲む九州の諸大名と総大将である松平信綱に報告され、十日後に原城は攻め落とされたのだった。

つづく


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