闇だからこそ見えるもの
新月の夕べ、闇はより深く。人の存在は、より際立って。
食べるということが、昔から気になる。気になるし、好きだ。
ただ栄養をとりこむのではなく、その場の居合わせた人たち、空間、食材とその背景、全部食らっているのだなって、あらためて思わせてもらった、昨日。
まっくらカフェ3回シリーズ”穴蔵満土禮(アナグラノマドレ)。其ノ弐 宇迦御魂(ウカノミタマ)。
待合室に通され、みんなぎこちなく、でもほんわかしながら、自然農で作られたお米からつくった甘酒や、8時間炒ったあずきコーヒーを頂く。なんだか、この時点で、もうなんか満足。
みんなで、奥の蔵の暗闇に移動。
蔵の中は、照明はろうそくのみで、ほの暗い。おきつねさんの、お面をつけた着物姿の女性がお出迎え。非日常、でも、大昔から知ってるような懐かしさ。
主催の方たちはみんな着物姿で、稲穂を髪飾りにして、豊穣の神さまみたいだったり、きつねのお面を被って食事を運んで下さって。お稲荷さんも五穀豊穣の神さまだという。
暗闇で、車座になって、ろうそくの灯りのもと、共に食べる。
料理の色や形がおぼろげながらにしか見えないので、味がしないんじゃないかと思ったら、全く期待を裏切られて。土鍋で炊いた赤米、緑米、黒米のみのおにぎりを、食べ比べ。歯ごたえ。かめば噛むほど味わいが出て、口の中で変化して、複雑、かつ豊か。近江を奔走して集めてくださった、丁寧に作られた穀物たち。どれもこれも、どんだけ豊かなのか。目が見えない分、感覚が研ぎ澄まされる。
ろうそくのゆらめく灯り。暗闇って、こんなに心地いいものだと思わなかった。このあと、ケータイの光や、コンビニやスーパーのしゃかりきな灯りを見たくないような気分になる。刺激が強いことさえも、普通に暮らしていたら気づかなかった。
本質を知っていること、感覚として解ってること。そしたら、どっちでも自分の身体で感覚で選べる。
本来のもの、シンプルなもの、作った人のわかる大事に作られたもの、ものすごく素直に身体に染み入るのがわかる。
何を食べるかは、想像以上に、こころの状態につながっているようだ。この、ゆるぎない地に足つけた気持ちは何だろう。この感覚を、覚えておこう。
参加してみての感想、人間ていいなって、思ったって、若者が言っていた。それも、なんだか嬉しかった。
土に近づく。わたしにとっての贅沢。このことだな。
(2013.12.4に書いた文章)