「安全の欲求」が崩れる時
「戦後」という言葉は、第2次世界大戦終戦以降(1945年~)を意味して語られている。戦争は悲しい事、二度と繰り返してはならないと教育を受け、二度と繰り返されるものではないだろうと思って生きてきた。
しかし、そうではなかった。
■「安全欲求」は「自己実現欲求」により崩壊
毎日のニュースが、戦争もしくはコロナといった状況は、人間の基本的で低次の欲求とされる「安全の欲求」が満たされていないという事になる。
侵略を行う指揮者は高次の欲求である「自己実現欲求」により侵略を指示し、一部の軍関係者にとっても侵略は「自己実現欲求」なのかもしれない。
彼らの「安全の欲求」は満たされている状況にある。
しかしながら、それによって多くの人たちが、低次の欲求である「安全の欲求」を脅かされることになる。こんな事があって良いだろうか。
安全欲求が満たされている私の日々の悩み事類が、些末なものに思えてならない。
■「話せばわかる」の詭弁
武力に対し無力である事を、思い知らされた。
それがわかっているからこそ、なかなか核を手放さないし、中立宣言している国の兵力は強いと言われているのだろう。
戦争を回避するために種々の戦略を練り、話し合いでの解決を図るも上手くいかない。話たくないくらい「嫌い」なのだろう。要は「気に入らない、嫌い」という事なのだと思う。
■平和への願い
無力な私にできる事は、支援が必要な人たちに、しっかり届けられる支援と考えている。「逃げる」事も「恥」ではないと思う。苦しみを抱える人たちに力になれる事はないだろうか。
私は心より平和を願う。