見出し画像

論理を下支えするもの

 論理国語や文学国語について一時、国語教育界を飛び越えてSNSなどでもさまざまな意見が散見された。しかし、その意見の半分以上が感情論だったり、自分自身の少ない経験から来る論拠で虚しさを感じる。逆説的に論理国語が必要であることを示してしまったようにも思う。実は教育的で巨視的視点を持ったものは、それぞれの専門家が発信してくれていて、その意見の相違は現場にいる者としては自身の国語に対する考えを深めさせるものとして貴重だった。しかし、140字で収まるようなセンセーショナルでもないし、それなりに素地が必要なので、その場限りで反対・賛成している人たちには浸透していかなかったように感じる。
 そんな中で、現場感覚でどうにかしなくてはいけないと思うのは、論理の下支えとなる精神的な健全さである。
 論理はあくまで道具であって、それに使われてはいけない。また、使い方には十分配慮していかなくてはならない。例えば、カレー。辛い。という二つの点から、美味しい。不味い。どちらにも論理的判断を行うことは可能である。同じように、死刑制度について賛成の立場、反対の立場、どちらを唱えるにしても論理的に説明をすることは可能である。それらはどちらが間違いというわけではない。判断の根拠を選定する際の自分たちの価値観の違いによるものなのだ。しかし、それはなかなか意識されない。また、TwitterなどSNS上では自分たちの意見は(自分たちなりに)論理的だから、他は全て間違いなのだといわんばかりの論調が繰り返され、意見の違うものとの隔たりは著しい。実際には、どちらも論理的なのに。
 結局のところ、お互い論理的な意見をもっているとなった場合、その前提となる価値観や精神のすり合わせが必要となるのだ。これは非常に地道な作業で、終わらないことが当然のものである。永遠に分かり合えないからこそ、折衷案やよりよい解答を求めて模索し続ける態度が不可欠となる。我々が現場で教える際には、まずこの精神性を伝える必要がある。生徒は論理的に正しいことが絶対的真理であると捉えがちである。この前提を突き崩し、スキルではどうにもならない苦しい道へと進めることが我々教員の責務なのではないか。
 国語科として、言葉や論理が薄っぺらなものにならないように。言葉や論理が悪用されないように。そういった心構えをもって教える必要があると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?