相手に対する可哀想の想いは
ある日、目が覚め布団から顔を出すと、寝る前側に置いた眼鏡の下になんと千円札が!?
え、なんで?
夢だろうと思い、一旦寝てみることに。
都会の某公園の中、土の上🌳木の下で寝袋を敷いて寝ているのも日常になってきた頃、
声をかけられることもなく、ただ置かれている千円札に少し怒りを感じた。
もう「公園で寝る」という選択肢しかないわけではなくて、
自然が好きな私の都会での楽しみ方の一つとして、大きい公園で1人夜風に吹かれながら、ギター弾いて大声で歌ったり、月を見て寝ることがマイブームになっているだけなのに。
何も声をかけず千円札を置いていった人は、この話を聞いたら千円札を渡すんだろうか。
パフォーマンス代としてだったら嬉しいけれど。
私のことを思っておいてくれた千円札。
だけど私はそれはいらなくて、そこに幸せを見出してる私の話を聞いて欲しかった。
若気の至りとして、当たり前の概念を覆したり、限界を試してるお茶目な女の子でしかないから。
自分よりお金がない、何かが劣っているから可哀想な時代はもう終わってきてる。
それぞれの幸せの基準は、お金の価値のように統一されなくなってきてる。
優劣をつけて、どっちかが正しい(善い)・悪い、幸せそう・可哀想だっていうのは、もうその人の思い込みでしかなくて、体験したことは人それぞれで、人が感じる感情や想いの深さは秤りで比べれるものじゃない。
それぞれに分かち合えるものもあって、分かり合えないこともある。他人の人生軽んじても重んじても仕方ないことばっかり。
千円札を置いてくれた人にはもう伝えられないけど。その後の態度で示そうと、
置いてくれた千円札で、美味しいパン屋のパンを買ってホームレスでご飯を買うお金がなかった人とシェアハピしたよ❤︎
あの日千円札より、話を聞いて欲しかったんだけど、千円札をありがとう!
パンご馳走様でした🥐
豊かな暮らしがより贅沢になったひと時。
あるようでない、ないようである話。
ノンフィクション。小説風。
安全第一。
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