私の努力はなんのため?〜エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んで〜
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んでアイデンティティ・クライシスを起こしかけました(爆)
『自由からの逃走』は古典的名著で、まとめサイトもたくさんあるのですが、私が今回衝撃を受けた箇所は、まとめサイトでは省略されがち。実際に本を読んで、何がそんなに衝撃的だったのか、気持ちを整理していこうと思います。
まずはざっくり概要から
『自由からの逃走』は1941年にユダヤ系ドイツ人社会心理学者エーリッヒ・フロムによって書かれました。「なぜ人々がナチズムに熱狂するのか」が本書の大きなテーマで、その答えが「自由からの逃走」なわけです。ナチスドイツは1945年まで続いたので、まさにナチズム全盛期に執筆されており、ナチズムに警鐘を鳴らすための渾身の著作と言えるでしょう。
省略されがちな歴史
まとめサイトで省略されがちなのが、ナチズムの原因と思われる「自由からの逃走」という現象がいつから人々に発生していたか、その歴史的背景です。
ここで「自由からの逃走」ってどういうこと?というのを軽く説明しておくと、フロム曰く、人間は成長の過程において、おおよそ10歳ごろに自己が形成され、だんだん自由を希求するようになります。このとき、自由が外部から抑圧されたり、自由を体現するための自発性を上手く発揮できないと、人は孤独感や無力感に苛まれ、結果的に権威に従属し、自由を自ら手放してしまうというのです。これが「自由からの逃走」です。このような状態に陥った人々が、ヒットラーのような権威に機械的に無思考で依存することがナチズムを生み出しているというのです。
フロムによると、このナチズムと非常によく似た現象が16世紀にも起きていたというのです。
16世紀頃までのヨーロッパは封建制によって市民の自由は限られていました。16世紀、資本主義の台頭により、ヨーロッパは自由…というか実力主義的な側面が出てきます。そこで豊かになり損ねた「下層中産階級」は強い孤独感と無力感を味わうことになります。そんな人々が依存した権威が、キリスト教のプロテスタントの教義を広めた、あのルターやカルヴァンです。
えーと、世界史では、腐敗したキリスト教を批判し、宗教改革を行った人物と習った気がするんですが…まさかの自由からの逃走先!?
私の「努力」はなんのため?
で、そんなルターやカルヴァンが、どうやって無力感に苛まれた人々を魅了したかというと、当時のカトリックと異なり「個人の努力や振る舞いによって、神に救われるようなことはない!運命は変えられない!」という教えを主張する、というもの。ただただ神に従属せよという主張です。
さらにカルヴァンは、ここに「予定説」を持ち込み、人々に目的のない「努力」を強います。そしてその人々の無目的の「努力」のおかげで、資本主義社会がより発展し、その資本主義社会が発展した社会が、そこに産まれた人々に影響を及ぼし、もともとの思想を強化していく。(このような分析が、フロムを社会心理学者たらしめる所以でしょう。)
え?運命は変えられないと言っておいて、どうやって努力させるの?と思いますよね。答えはこれです。
つまり、神が救う人間は予め決まってる。それは「努力」できる人間である。なので「努力」していることが、救われる人間の「しるし」なのだ。(それを聞いたみんなはせっせと「努力」する。)
うわ、すっげえ詭弁…
と、思いましたが、あれ?なんか、似たような論理展開を見たことがあるような…。
私も、「努力できるかどうかは生まれながらに決まっているらしい。努力してるってことは、私はそういう資質を持って生まれてきたということだ。だったら私は大丈夫。」と思ったことが、なかっただろうか。
これって、すごーく、カルヴァンの思想に似てないですか?
努力が、学びが、成長そのものが、なにかの「しるし」となって私の安心につながっていないだろうか?よしんばその努力に明確な目的があったとして、その目的がなにかの「しるし」になっていやしないだろうか。
16世紀から始まった資本主義社会に今なお生きてる私の「努力しよう!頑張ろう!」と思う気持ちは、本当に私のものだろうか?16世紀の下層中産階級の無力感から産まれたものではないだろうか?そう思い至ったとき、そのあまりの衝撃に背筋がゾッとしました。
『自由からの逃走』を読みながら、その衝撃にアイデンティティ・クライシスを起こしかけました
が、
よくよく考えたら、私ってそんなに努力してたっけ(゚∀゚)?
ということに思い至り、アイデンティティが、みごとにクライシスしました(爆)。
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