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音楽とお金-あなたの出演料はどこから-

 クラシックや現代曲のコンサートのみならず、オペラ・舞台公演というものは基本的に赤字興業であり、つまりそれ単体では自身を維持することができない営みである。

何にそんなに金がかかるかといえば、出演料や作曲料をはじめとした人件費である。

こうした費用は演奏会の趣旨や内容によっても大きく変わるが、私は主に室内楽やソロ演奏会を企画・主催・運営しているため、例えば小ホールで開催するリサイタルを例に考える。ピアノ奏者を招き、作曲家による委嘱新作1曲がある、自分が演奏したい作品を取り上げた自主公演である。

 まず、人件費を除いた固定費(最低限必ずかかる費用)を挙げると、

  • 会場費(午後・夜間 / ピアノおよび附帯設備使用料込) 7万円(うちピアノ使用料は1~2万円)

  • ピアノ調律費 2万円

  • チラシ(2000部)&プログラム(100部)印刷費 1万円

  • リハ会場費 2万円

もちろん会場によって大きく前後するが、公演の固定費だけで12万円かかる。演目や開催規模によってはピアノを用いない、ピアノ調律を行わない、リハを自宅で行う、SNSを利用した宣伝のみにする、プログラムを簡単な印刷で済ませるなど削減の余地はあるが、特にピアノ調律はピアニストのモチベーションや公演のクオリティにも直結するため、これらの費用は公演を開催するにあたり削減することは難しい。

 ただし、この程度の金額であれば、チケット代3000円として30~50人ほどのチケット収入があればまかなうことが可能な範疇である。公演そのものの内容にもよるが、この人数はたとえ無名の音楽家であってもきちんと公演の宣伝や知人への声掛けを行えばなんとか集められる人数であると思われる。

しかし、これに加えて以下のような人件費が発生する。

  • 共演者出演料

  • 委嘱作曲料

  • チラシ&プログラムデザイン料

  • 記録用動画撮影費

  • 当日スタッフ謝礼

公演の開催にあたり、一番の問題になるのは「これらの費用をいくらにするか」ということである。

1.音楽料をめぐって

 この金額の決定は大変難しい。すなわち演奏技術や芸術に値段を付ける行為に近しいためである。更に言えば、演奏者としての感覚としては、特に小編成の作品では公演に対してかけた時間と労力(リハーサルと本番だけでなく自宅での練習時間も含む)を考えると、領収書に収入証紙が必要になるような一般に高額と思われる金額でも、割に合わないように思うためである。

(これはもちろん、演奏曲の難易度や演奏者の技術に依存する。高名な演奏家の演奏しなれた定番レパートリーのプログラムであれば、労力をかけずに聴衆に感動を巻き起こせるのかもしれないが、その感動の金銭的対価が指数関数的に増加するので結果としては変わらない。)

 また、この演奏や作曲にかかる費用の感覚は音楽家間であっても、決して一枚岩ではないことが理解を複雑にする。というのも、大別すればポップス系(商業音楽)と、クラシック系(伝統音楽)と現代音楽(先端音楽)のどのジャンルをメインに活動しているかでその音楽家の金銭感覚が大きく異なるためである。

この価格については「一曲〇〇円」「5分毎に〇〇円」と価格を(便宜的にも)明言している音楽家もおり、それも一種の経営手法であるといえるが、同時に問題も抱えている。(詳しくは次回以降に回す)

そう考えると音楽家はその対価に対して多少なりの妥協をするわけである。(芸術業界に関係なくどのような職種の仕事でも自分の給料は低いと不満と感じるとは思う) この金額の決定に際しては、

  • 主催者と支払先(音楽家)の関係性…業界における両者の力関係

  • 支払先(音楽家)がその公演にどの程度主催サイドに入っているか。他の奏者への代替可能性。

  • 支払先(音楽家)が自主公演というものにどの程度理解があるか

などが大きく影響すると思われる。

 長くなってしまったが、では仮にリハーサルや作曲や編集・作業をかなり少なく見積もって3~4日の拘束としよう。日当を1万円とすれば出演料・作曲料・デザイン料・記録撮影料は5万円、当日スタッフ謝礼を1万円となる。したがって、人件費は21万円前後となり先に求めた固定費12万円の2倍近くの金額になり、固定費と人件費の合計は約33万円となる。

先述のとおり30~50人の集客が精いっぱいであるにも関わらず、その更に2~3倍の100人以上の集客をするか、あるいはチケットの料金2~3倍の値段(約9000円)にしないと採算が合わないことになる。1万円前後の価格のチケットというと、オーケストラやオペラ、あるいは人気ポップス歌手のライブチケット相当である。おそらく、そうしたコンサートでさえ採算が取れていないだろう。(もし「その程度の集客余裕だ」と感じる音楽家がいれば、それは属している音楽ジャンル、演奏の才覚や音楽界での地位、ファンに恵まれている証拠である)

おそらく人の時間を拘束して技術を提供させる「仕事」としての金額としては上記の人件費は妥当か少ないくらいであるが、演奏会単体でこのような金額が実現されることは多くない。つまり、公演とは労力に対して金銭的な見返りがきわめて少なく、持続性の大変低い営みなのである。

では冒頭述べたとおり公演興業は赤字であるにも関わらず、なぜこれほど多くの演奏会が存在し、そして職業音楽家が存在することができるのであろうか。

2.公演と助成金

 それは、民間の財団法人の助成金や国の補助金、企業からの協賛金、そして母体となる企業や組織の余剰金が演奏会の赤字を補てんするように注がれているためである。こうしたチケット収入以上の別の大きな収入があることで、ようやく演奏会にかかる人件費は工面され、音楽家は金を得るのである。

では企業や組織からその補助金がどこから、そしてどうして捻出されるかといえば表向きには「文化・芸術を支援する」という大義名分はあれど、つまるところ、まっとうな本事業で得られた黒字分が法人税として国に徴収されることを嫌った「節税」であったり、「企業イメージの向上」や「広告」のためであったりする。そうした企業にとって、演奏会自体の収益が黒字になる必要は特に無い。ペットの犬や猫に求めることはエサ代以上の金を稼いでくることではなく、飼い主によくなつき尻尾を振り主人の機嫌を取ることである。

したがって、公演における経済的な成功とは、公演内容や集客、演奏の質云々よりも「公演準備の段階で助成金が取れるかどうか」にかかっているといっても過言ではない、というのが公演企画の現状と言わざるを得ないだろう。乱暴な言い方をすれば、客席がガラガラであろうと補助金さえあればその公演は成功なのである。

 しかし、助成金や協賛金がとれるかと言えば決して簡単なことではない。例えば、芸術活動助成の最大手の「アーツカウンシル東京」では様々な期間やジャンルでの助成プログラムを展開しており、都度審査結果を公表しているが、それによると助成採用率は10%程度とかなり狭き門である。

また、大手の助成団体はプロオーケストラ団体をはじめとした常連の大手の団体や高名な音楽家が占めているケースが多く(そうした団体は申請の絶対量が桁違いだと思われるが)、新参の音楽家にはなんともハードルが高い。もちろん企画書のみを送って助成採用された場合のみ実行する公演も多いのだろうが、いずれにせよ、公演の都度、助成金が得られるとは限らず、むしろ得られない公演のほうが圧倒的に多いのである。

3.助成金チキンレース

 そのような狭き門の助成に採用されるためには公演の具体性が必要である。「こんなことがやりたい」という、公演の空想・妄想というものはおそらく誰の頭の中にもあるため、その実現可能性を事実として示すべきである。すなわち「いつ」「どこで」「誰が」「何を」やるのか、が申請段階で決まってる方が企画の具体性があり助成採用率は高いと思われる。

 では、企画の具体性を高めるためにはどうすればよいか。それは実際に会場を押さえたり、演奏者や作曲家に出演や作曲を打診したりといったことをすることである。特に、現在名のある音楽家が公演に参加していればなおさらである。そのため、ここで、得られるかどうかもわからない助成金(≒公演の経済的成功)のため、主催が金銭的なリスクを負わなければならないというチキンレースのようなパラドックスが生じる。そこまでして助成採用されなかった場合、そうした出演料をはじめとした費用の支払いは主催に降りかかる。自腹で公演をやるのか、共演者への依頼や会場をキャンセルして公演自体を取りやめるのか、決断しなければならない。「自分がやりたいことを実行しようとした」ことへの請求書である。

 以上のような状況から、自主公演というもので満足な利益を上げることがいかに難しいことであるかがわかるだろう。(そもそも、(税制的な問題から)民間の助成対象も公演自体が赤字であることが条件であるケースが多い)
自主公演とは行えば行うほど主催が損をする営みなのである。

4.職業演奏家とは

となると、演奏家が演奏で十分な利益を上げるためにするべきは、自分がやりたい自主公演を打つことではなく、プロオーケストラをはじめとした大きな財産基盤や補助金に強い実績をもつ音楽団体関係者にひたすら顔を売って信用を勝ち取り、プログラムの決まった演奏会の出演を、団体職員あるいは委託業務としてこなすことであり、それが演奏家として経済的に堅実な手段であるといえる。

しかし、そうした態度は新規性のある創造的な芸術活動とは程遠く、演奏という行為の「作業化」を、そして音楽家の芸術に対する新規性・創造性の追求の放棄を招く恐れがある。仕事というものはいかなる職種でも得てして、業務の一連の流れをパッケージ・テンプレ化することで作業の効率化をはかり、人材教育の容易化や人材の代替可能性を担保している。いくら音楽家が芸術や音楽美の深遠さを説けども、仕事とする以上、このことは避けがたい。例えばオーケストラでいえば、どこの団体でもいわゆる定番交響曲を中心としたレパートリーの公演や、各地の小中学校でテンプレ化された鑑賞教室を開催していることはその一例であるといえる。(最初は大変かもしれないが)ある程度楽団での演奏経験を重ねたら、どこの団体でも同じような曲を取り上げているため、大抵の曲は譜読みなどの事前準備を大したせずとも体と楽器さえ持っていけば指揮者の指示への対応や微調整だけでリハーサルや本番に参加できるようになる。それが仕事である。

もちろん「△△楽団の〇〇さんは違う」などの異論はいくらでもあるだろう。どこの業界であっても、そうした仕事を愛して業界をけん引する人材やスタープレイヤーはいる。しかし、全体の人材のボリューム層を考えた場合、業務をテンプレ化しなければ団の経営、維持は不可能である。

少し話が逸れてしまったが、ひとつ、ここで主張したいのは、公演というものの経済的状況を、特に音楽家は共通事項として認識したほうがよい、ということである。

職業音楽家は、聴衆から得られる演奏の対価(=チケット収入)で出演料を得ているのではなく、大企業が稼いだ利益の残滓で飼われているに過ぎない。

したがって、職業音楽家がノーギャラの依頼について「ラーメン屋でただで食わせろと言う」「スーパーの万引き」などと他の業種を引き合いに不満をもらしているのをしばしばみかけるが、これは見当違いである。ラーメン屋やスーパーは(初動こそは融資や助成はあるかもしれないが)、客から商品の対価として金をもらい経済的に自立しているのに対し、音楽には観客からの対価で自分自身を維持できるほどの経済的価値がなく、音楽家は資本家や大企業から金を得ているのだから。したがって、彼らの怒りの本質は『貧乏人のクセにつまらない演奏会を主催するな』である。仮に音楽家をそうした業種と同じ客商売の舞台に立たせたとしたら、ほぼすべての音楽家はたちまち路頭に迷うことになるだろう。そのため、音楽家は一般に想像しうる小売業などとは異なった経営観を持つ必要がある。

いつの時代も音楽家は王に仕えて王の機嫌を取る宮廷道化師、あるいは貴族や資本家を彩る装飾品に過ぎず、音楽は未だに自立や自由を勝ち得ていない。


 ここからは次回以降の投稿へ回すが、こうした状況を踏まえたうえで音楽家が少しでも建設的で創造的な活動を継続的に行うために出来ることが4つ考えられる。それは、

  • 実演する以外のスキルを磨き、別の収入源を確保すること

  • 音楽業界全体の将来的な利益となるような"生産性のある"公演企画を考え、実施すること

  • 低謝礼あるいはたとえノーギャラであってもその企画を面白がって参加してくれる音楽家(仲間・理解者)を見つけること

  • 音楽家それぞれが後輩や弟子、同僚以外のファンを獲得すること

である。ではまた後日。

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