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孤独とどう向き合うかは人それぞれ

孤独を好きな人はどれぐらいいるだろうか?

私は、仕事もプライベートでも一見社交的に見えると思う。なぜ、そう思うかと言うと、人に関わるのが好きなのと、そういう人が集まる機会を仕事の場として、それなりに創造してきたからだ。

まあ、オーソドックスには、ビジネスの交流会や経営者のゴルフコンペ。あとは、何か面白いテーマを見つけたら、それで集まりを創る。

そして、私の超オリジナルは、新興国への旅だ。仕事の視点から見れば、それは視察ツアーということになる。英語で、インスペクションというやつだ。
ただ、本音をぶっちゃけると、仕事というより人間交流で、飲み会や旅路でのバスの中での会話、ゴルフコンペやエンターティメントなどなど。こんな様々なアクティビティを通して、お付き合いを始める。いわゆる“素”での交流だ。

それで、そろそろ話しを孤独に戻す。
私は孤独は大好きで、結構それを公言している。
人と関わるのが好きで孤独も好きだと言うと、一見怪訝そうな顔で、"本当ですか?"と驚く人がいる。でも私は、孤独が嫌いな人がいるのだろうかと思っている。

もちろん、この孤独にはとても深い意味があるし、人間の本質と葛藤の表れだとも思っている。例えば、小学校の時、孤独感を感じたことがあるかというと、学校でいる時はしょっちゅうあった。拙著のどれかにも書いたが、私は超引っ込み思案だったので、いわゆるクラスの人気者の集団からは結構外れたところにいて、なんとなく孤独感があった。
ただ、明るい孤独感だったとは思う。
なぜかと言うと、農家の家にいる時、つまり昔はど田舎の村だった訳で、そもそも、人がそんなにいない。だから、一人でいる時間もかなり多かった。
例えば、夕暮れ時に、まだ両親が畑で働いていて、私が一人で家でいる時間は結構あった。兄貴はいたが、多分、友だちと遊びに行っていなかったと思う。そんな時、夕暮れのもの悲しい時間の中で、物思いにふけっていた。染み付いたものがあるようで今でもこんな時間は大切にしたいと思っている。

実際に、朝日を観るのもとても好きだが、朝日は結構あっさりしている。元気もりもり、1日が始まるぞ。というポジティブ感がある。
一方、夕日は、その日の天気や季節に左右されるが、もの悲しい感覚を子供の頃に体感していたことが甦る。だから夕日は今も深く感じる。

孤独と言うと、結構、社会問題として問題視されることは多い。
特に、子供のいじめに関係する孤独、シニアの一人暮らしの孤独は重い。孤独死という表現すらある。本当に奥の深いテーマなので、軽々しく表現できないが、そもそも、死ぬときは一人であるという自明の理がある。
私も長年に渡り、シニアが元気である日本の社会にしようと活動してきた中で、一人暮らしや孤独死の問題も切実に感じている。身寄りのない人の孤独と言うのがクローズアップされやすいが、家族がいても孤独感を持つ人も多いと聞く。

何歳になったらという事でなく、人と関わりたいけれども、そういう手段がないとかやり方が分からないという人のお手伝いは、昔よりはし易い時代になったと言える。情報が共有されつつあり、つながることを意識する人が増えてきたからだ。

一方、お一人様を積極的に好み、それでいて社交的な付き合いをする人も多い。
数年前から交流させて頂いているイラスタレーターの田村セツコさんの書籍”孤独を楽しむ”は、とても素敵で、読後感も爽快だ。

特に"ひとり時間は冒険"いう言葉が私のお気に入りだ。第三者の基準や目線で、”孤独”に一方的にレッテルを貼らないことも社会には必要な事だと改めて思う。

以上