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人生

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人生について徒然なることを徒然なるままに書いています。
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#ショートショート

秋、深まる。

季節がどんどん秋めいてきた。 冷たい空気が頬に触れ、喉から肺へ、そして血管の隅々まで体の中に染み渡っていく感覚が好きだ。 ああ、自分は呼吸しているんだな。 そんな当たり前のことに改めて気づく。 指先が冷え切って初めて、血の巡りに意識を向けるように。 普段、自分がほとんど意識していないことを、寒い季節は思い出させてくれる。

親愛なる清少納言さま

秋は夕暮れ。 わたしもそう思います。 秋の夕暮れはなんだってこんなに美しいのか。 夏の夕暮れの、暑さから徐々に解放される期待感とはまた別の、少し冴え冴えとした空気の中で、時とともに色とりどりに変化していく空の色に見とれるあの気持ち。 秋は夕暮れ。 千年の時を超えてなお、その言葉が受け継がれていることを知ったら、あなたはどんな反応をするでしょうか。それを知ったあなたの文章も読めたらいいのに。そんなことを思います。

あんなに嫌いだったのに

地方から東京へ就活遠征をしていた頃、私は東京が大嫌いだった。どこに行っても人・人・人…。なのに、心許せる人はほぼ皆無。 説明会や面接に疲れて、公園のベンチに逃げ込むも、東京は公園すら不自然なくらいに整っていて全然気が休まらなかった。地元の荒削りな山々と悠々と流れる澄んだ川、緑が生い茂る河川敷。それとは真反対だった。 東京のど真ん中は、山なんてビルに隠れて見えないし、川は底も見えないくらい深い色をしているし、河川敷なんてものはない。街路樹だって公園の植物だって綺麗に手入れさ

一人じゃできない一人旅。

わたしはよく一人旅をする。でも最近思う。 「一人旅って一人じゃできないんだよな」 もちろん、旅先で誰ともそれほど関わらず帰ってくることもある。でも、わたしをその場所へ運んだのは、ガイドブックごしに知る「誰か」の情報だったり、身近な人のお土産話だったりする。 そしてやはり、一人旅は旅先で誰かと関わることが圧倒的に多いと思う。道に迷っても、一緒にいる誰かが代わりにガイドしてくれるわけでもない。自分で、地図や周りの人に助けられながらなんとかなる、そんな経験をどれだけしてきたこ

ヨク食ベ、ヨク眠レ。

週末は少し無理がたたったのか、胃は荒れ放題でろくに食事も取れず、胃痛でよくよく眠ることもできなかった。 「食べれる」、「眠れる」ということがどれだけ偉大なことなのかを思い知った数日間。コンディションが悪かったせいか、気分もちょっとささくれていた。 どんなにしんどいときでも、悲しいときでも、しっかり食べてしっかり眠ることができれば、とりあえず大丈夫だし、それさえできれば大抵のことはなんとかなる。本当に。 よく遊び、よく学ぶ以前に、よく食べて、よく眠らなくては。

「偏見」についての偏見

この人は絶対偏見あるだろうな。 あの人は偏見ないよな。 どちらも、「こういう偏見があるはず」「そんな偏見はないなず」という偏見。誰が何をどう見ているかなんて、わかることの方が少ないのに。 偏見は怖い。一部分を切り取って悪く見られたら?嫌われたら?そう考えるとすごく怖い。でも自分だって偏見はある。 かのアインシュタインもこう言ったらしい。 常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。 常識。当たり前。それが一体なんなのか。「未知」と出会ったとき、ど

輪郭

ここ数日、環境の変化が目まぐるしい。知らない人に会ったり、馴染みのない話題に遭遇したり。 その度に、自分が何を知っていて、何を知らないかということをくっきりと思い知る。何ならすらすら言えて、何なら表現に戸惑うのか。それが表面的なものであれ、自分の深層に迫るものであれ。 自分というものの輪郭が明確になっていく感覚。結局、「自分」というものは「外」との関わりの中でやっと識別できるものなのだろうと思う。それが人であれ、場所であれ。 その輪郭は、自分でも思いもがけない形をしてい

天体観測

ここのところ、ベランダから月を眺めるのが日課になっている。 たまにオリオン座も見える。北斗七星も。 秋冬の方が空気が澄んで夜空が綺麗に見えるのは気のせいだろうか。 地元にいた頃、真冬でも寝る前に窓を開けてよく空を眺めていた。 氷点下10度の空気の中、吐息は白く、星は細かな砂のように紺碧の夜空を埋めていた。 BUMP OF CHICKENの『天体観測』を何度繰り返し聴いたことだろう。 いつか一晩中、星空を眺めてみたい。オーロラも見たい。 そんなことを考えている。

風邪の日に思い出すオムライスと母のこと

起きたら、のどに刺すような痛み。 「風邪だな」 痛むのはのどだけ。漢方薬を飲んで、マスクをかけて外出。でも大事をとって早めに帰宅することにした。スーパーでみかんとプリンを買い、薬局で薬を補充して家に戻る。 具合が悪いのを自覚したら、途端に体が重くなってきた。イソジンでうがいをし、水分と食事をとった上で、薬を飲んで横になる。 ベッドの上でまどろみながら、子どもの頃、風邪をひいたときのことを思い出していた。わたしは滅多に風邪をひかない子どもだったが、あるとき、ひどく熱を出

【続】いんぐしっりゅらいふ

いんぐりっしゅ。英語。 以前、こんな記事を書いた。 英語がすきな私が、とある出来事がきっかけで、すっかり英語恐怖症になり、そこからまた英語をすきになれるようになった話。 強く意識しているわけではないのだが、結局のところ私は英語を使える環境に惹かれるようだ。知らない言語を知ることで、知らない世界を知る。知っていたつもりの母語の、知らない側面を知る。 もっともっと英語を、他の言語を学びたい。もっと世界を理解するために。もっと伝えたいことを伝えるために。

きっと今日も明日も明後日も。

数年ぶりに、しかもその間、ほとんど連絡を取っていなくても、まるで昨日までずっと会っていたかのように再会を果たせる人。そして、別れ際も何度も別れを惜しむでもなく、また明日出会えるかのような軽やかさで別れを告げることのできる人。そんな相手はいないだろうか。 私の人生においてそういう人は何人かいる。日常を共有していないせいだろうか。一緒にいたときのまま時間が止まって、会うとまたその時間が動き出し、別れるとその人との時間はまた針を止める。それぞれの日常は、互いに共有している時間とは

ぶり大根に思ふこと。

帰り際寄ったスーパーでぶりのアラが安く売っていた。 買わない理由がない。 急いで大根を買い足して帰宅。 夕食を簡単に済ませた後、ぶり大根を作る。 一晩味をしっかり染み込ませた方が絶対に美味しいはず。 ぶりを下茹でし、大根を追加して醤油とお酒、みりん、生姜を加えてじっくり煮込む。 今から明日が楽しみでしょうがない。 待つ楽しみはこのことか。 せっかちな私にしては珍しい「待つ楽しみ」。 たまにはこんな日もいい。

身体という器

最近、一日に一万歩近く歩いている。たまに走ることも。この秋に一目惚れした9cmヒールのブーツで。 ヒールが高いと疲れそう、と思う方もいるかもしれないが、自分の足にぴっったりと合った靴は、ヒール関係なしにあまり疲れない。逆にちぐはぐなサイズのスニーカーやノンヒールの方が足を痛めたりする。 そんなこんなで、私にしては身体という器を日々駆使している最近。一万歩歩くと、頭がフル回転な一日も、夜更けにはさすがに身体が「もう寝ようよ…」と訴えかけてくる。 身体という器。おかざき真里

駅から駅へ ドアからドアへ

乗り換えを間違えることも 出口を間違えることも 迷子になることも すべて想定済み。 間違えながら、迷いながら 最終的にたどり着けばいい。 「絶対間違えちゃいけない」。 「絶対迷っちゃいけない」。 そう思うと苦しい。 そういうこともある。 と想定した上で、できる限りのことを。