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人生

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人生について徒然なることを徒然なるままに書いています。
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2019年10月の記事一覧

きっとまた会いに行く。

朝、ラジオから流れてきたニュースに私は耳を疑った。出かける時間が迫っている。バタバタと出かけ、画像付きで首里城の様子を見たのはお昼過ぎのことだった。 記憶の中の沖縄沖縄の青空の下、くっきりとした鮮やかな赤で堂々たる存在感を放つ私の記憶の中の首里城は、暗闇の中、炎に包まれていた。こうして書いているだけでも胸が痛む。私はかつて一介の旅人として沖縄を訪れたことしかないのだけれど、それでも。 沖縄を訪ねたのは数年前のちょうどこの時期。その頃私は心身ともに本当に疲弊して擦り

心の琴線に触れられたなら–原作知らずのわたしが見た『マチネの終わりに』

人は、時に誰かの心の琴線に触れてしまうときがある。それがたとえ一瞬でも、その人の心の深いところに達してしまったなら、人はそれを忘れることができない。きっと死ぬまで。 *** まずは、映画を観ようと思った。先日、11/1(金)公開の映画『マチネの終わりに』のnoteユーザー限定先行試写会に行ってきました。原作になった平野啓一郎さんの小説はあえて読まずに。 わたしは長らく自宅にテレビのない生活をしているので、石田ゆり子さんが出演していた『アナザースカイ』も、その他の番宣も何

ぶり大根に思ふこと。

帰り際寄ったスーパーでぶりのアラが安く売っていた。 買わない理由がない。 急いで大根を買い足して帰宅。 夕食を簡単に済ませた後、ぶり大根を作る。 一晩味をしっかり染み込ませた方が絶対に美味しいはず。 ぶりを下茹でし、大根を追加して醤油とお酒、みりん、生姜を加えてじっくり煮込む。 今から明日が楽しみでしょうがない。 待つ楽しみはこのことか。 せっかちな私にしては珍しい「待つ楽しみ」。 たまにはこんな日もいい。

身体という器

最近、一日に一万歩近く歩いている。たまに走ることも。この秋に一目惚れした9cmヒールのブーツで。 ヒールが高いと疲れそう、と思う方もいるかもしれないが、自分の足にぴっったりと合った靴は、ヒール関係なしにあまり疲れない。逆にちぐはぐなサイズのスニーカーやノンヒールの方が足を痛めたりする。 そんなこんなで、私にしては身体という器を日々駆使している最近。一万歩歩くと、頭がフル回転な一日も、夜更けにはさすがに身体が「もう寝ようよ…」と訴えかけてくる。 身体という器。おかざき真里

駅から駅へ ドアからドアへ

乗り換えを間違えることも 出口を間違えることも 迷子になることも すべて想定済み。 間違えながら、迷いながら 最終的にたどり着けばいい。 「絶対間違えちゃいけない」。 「絶対迷っちゃいけない」。 そう思うと苦しい。 そういうこともある。 と想定した上で、できる限りのことを。

雨の音はどんな音?

ざぁざぁ。しとしと。ぽつぽつ。 雨の音を最初にこんな風に表現したのは誰なのだろう。 勢いよく降る雨の中、今日はイヤホンを外して歩いた。 「ぱしゃりぱしゃり」と水たまりの上を歩く。 いや、「じゃっじゃっ」かな。 「ぱしゃりぱしゃり」も不思議なオノマトペだ。 お店の軒先から「ととととと」っと雨垂れが落ちる。 気がつけばズボンの裾が「じゅくじゅく」に濡れていた。 裾を絞ると、「ぽたっぽたっ」と水滴が地面に落ちる。 屋内での予定を終え、夕方外に出ると、雨はもう降って

日常を分け合う−食卓について思うこと

食卓はしあわせの象徴だと思う。 家族や親しい人たちと囲むそれは、しあわせそのものだ。 何を、どう、いつ、誰と食べるか。 わたしは、一人で「食べざるを得ない」状況が苦手だ。 一人で食べることを「選んだ」のなら、問題はない。 無理に誰かに合わせるよりも、一人の方がいいときもある。 けれど、基本的には「一人で食べざるを得ない」状況に陥るくらいなら、食べない方がいいとすら思うときがある。 いつだったか、「一人の食事は、ただの作業だ」という節の言葉を目にしたことがある。半分くらいは

指先で味わう言の葉

それは、いつもと違う時間、いつもと違う路線の電車に乗ったときのことだった。少し混んだ車内、座席は空いておらず、わたしはつり革につかまりながらぼんやりと周りを眺めていた。 ほとんどの人がスマホをいじったり、イヤホンで音楽を聴いたりしている中、わたしの目を奪ったのは真っ白な本。文字通り、真っ白な本。めくられるページは何のインクもついていない。よくよく見ると、ページにはインクの代わりに凹凸が刻まれていた。その凹凸の上を、本の持ち主である女性の指が軽やかにすべっていく。 点字の本

雨の日にほしくなる音楽のこと

肌寒い雨の日。 気分もあまり上がらず、外から帰ってきてからもわたしにしては珍しく音楽をかけずに過ごしていた。いつも部屋は音楽で満たされているのに。 やるべきことにカタをつけ、お風呂にお湯がたまるのを待ちながらこのnoteを書いている。 何を聴きながらnoteを書こうか。ふと開いたYouTubeで、ジャズがおすすめに上がっていたので、何の気なしにクリックしてみた。 軽やかな、それでいてしっとりとしたピアノの旋律が耳に心地よい。 ああ、こういう音楽を今日のわたしは欲して

13歳

13歳のとき、自分は何を考えていただろう。 以前、とある中学校のキャリア教育の授業に参加したことがある。 中学1年生の生徒たちが、料理人、測量士、NPO職員、畜産農家など、様々な職業のひとたちの話を聞いて、「働く」とはどういうことかを考えるというもの。 当時の私は大学生で、社会人ではなく、中学生と社会人の中間にいる立場としてその授業に参加した。中学生にとっては、一人暮らしで、海外に何度か行ったことのある私の体験自体が珍しかったらしい。 「どうしたら、苦手教科を克服でき

生きている時間

大人になればなるほど誰かの訃報に触れる機会は増える。直接会ったことのある人でも、メディア越しにしか知らない人でも。 生きている時間が少しでも重なっていたことを思うと、お会いできていれば、と悔しく感じる時もある。 文化人類学を学んでいた私にとっては、梅棹忠夫氏がそうだ。2010年に他界したこの方と生きている時間が重なっていたことを知ったのは、文化人類学と深く関わるようになってからのことだった。けれど、折に触れて梅棹氏の著書を読み返すたび、著書を通して彼の思いを受け取っている

自家製処方箋のすゝめ

だいすきな本がある。梨木香歩著『不思議な羅針盤』。小説『西の魔女が死んだ』で有名な梨木さんのエッセイ。 年を重ねるに連れ、エッセイを好んで読むようになった。エッセイのすきなところは、ノンフィクションなところ。それでいて、フィクションのようなところ。数ページにすっきりまとまっているシンプルさもすき。 思えば、『源氏物語』より、『枕草子』がすきな高校生だった。 『不思議な羅針盤』で一環して描かれているのは、人や世界との距離感の話。各エッセイのタイトルもこんなふう。 「近づ

お酒と記憶

食べ物と記憶がセットなように、お酒と記憶も強く結びついている。 たとえば、わたしにとって缶チューハイは友人たちとの宅飲みや河原でのバーベキューを思い出させる飲み物だ。モヒートは、海外へ旅立つ友人の送別会を、ミモザは路地裏のイタリアンバーを。日本酒にまつわる思い出は数え上げるときりがない。 時に一人で、時に二人で、時に大勢で飲み明かした夜。離島にいたときは、毎日のように真昼から飲んでいた。信号はおろか、車もほとんどない南の島。 ひとり酒をするようになったのはいつからだった

タイミング

人生ってやっぱりタイミングだなと思う。 もちろんすべてではないけれど。 10歳の時に出会った本、人、言葉。 20歳の時に出会った本、人、言葉。 自分の心のアンテナがあちらに向いていたタイミング。 こちらに向いていなかったタイミング。 自分に余裕があった時期、なかった時期。 相手に余裕があった時期、なかった時期。 物事はいつも1対1じゃなく1対nだったり、n対nだったり複雑に絡み合う。 タイミングも然り。 分かっていても覚えていても、伝えるタイミングが早すぎたり遅すぎ