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寿司ネタの鉄板。父娘はサーモン、母はタイ。

2月は母の何度目かの誕生日があって、例年お祝いをしたりし忘れたりと適当に過ごしていたが、今年は気が向いたのでお寿司をご馳走することにした。
家から徒歩15分のところに、行列のできる評判のお寿司屋さんがある。イクラ軍艦はイクラがこぼれ落ち、赤身のネタは分厚く大きくて、お客さんは、みな大口をあけて頬張る。晴れた土曜日のお昼時だった。お店の外で40分ほど並び、カウンター席に通された。
私はサーモンが好きだ。まずサーモンととろサーモンと炙りとろサーモンを頼む。
母はタイが好きだ。まずタイとタイの漬けを頼む。
2人してイクラが好きだ。2人分頼む。
飲み物はまず瓶ビール。あと4分の1になったところでお寿司が運ばれてくる。
私は日本酒は1合か2合どちらがいいか母に尋ねた。母は少し迷ったあと2合と答えた。「八海山はやっぱり美味しいね」と母は気持ちよさそうに笑った。

「今日の夜はフレンチなの」
少し酔いが回ってきていた。私は焦点の合わない目を母の顔に向けていた。母は私を見てそう言ったのか、窓の外を見ながらそう言ったのだろうか。覚えていない。私は「へえ、いいね」と言って、口の端を上げた。
「どこで食べるの?」
「日本橋。本当はお寿司の予定だったんだけど、あなたがお寿司をご馳走してくれるって言うから、変えたの」
「どこで食べる予定だったの?」
「新宿。今度一緒に行こう。そういえばお母さん、あなたの誕生日祝ってなかったね。それでどう?」
「いいね」と私は言った。一口お酒を飲んで、窓の外を見た。青空とグレーのビルの境目の線が、くっきりと浮かび上がっていた。
「お父ちゃんもサーモンが好きだったんだよね」
母はサーモンととろサーモンと炙りとろサーモンとイクラ軍艦の載った私の皿を見ていた。少しの間言葉を選ぶのに思考を巡らせ、「そうね」とだけ私は言った。
父と母は私が5歳の頃に別れた。その理由は私が20歳になった頃に、母の弟の叔父から聞かされた。福島の母の生家の、今は叔父の部屋になっている部屋で、私は布団にうずくまって泣いた。母も別れた時は泣いたのかもしれない。泣いていないかもしれないが。その辺りの話は聞いていない。それから叔父は段取りをして、私を福島で暮らす父と父方の祖母に会わせた。15年ぶりの再会だった。父は口数の少ない人だった。別れ際、「俺はもう大丈夫だから」と言って、私に何枚かのお札を握らせた。何年か分のお年玉や誕生日のお祝い、お詫びの気持ちを兼ねていたのだと思う。それ以降私は、福島に帰るごとに父と会うようになった。大学最後の年はゴルフのハーフコースを一緒に回った。
「お母さんはお寿司を食べている時いつもその話をするね」
母は聞いているのか聞いていないのかわからない顔でメニューを見ていた。「次は赤貝を食べる」と言った。私は母と同じくメニューを見た。そのあと母の横顔を見た。くっきり二重の大きな目。切りっぱなしボブ。赤いマスカラが似合う。母は娘の私の目から見ても可愛い人だ。
「今年は両親の誕生日に、お寿司を奢る年にしようかな」
「いいじゃん」
母は大きく目を見開いて私の顔を見た。そして、あれ、と言って前に向き直った。
「お父ちゃんは3月生まれだね」
「うん。だから3月の土日福島に帰ろうかな」
「3月ね。お母さんね、彼氏が福島に行ってみたいって言うから、3月の金土に福島に行くの。車に乗せていってあげる」
私はぼんやりと母の顔を見ていた。焦点は合っていなかった。だから、母がどんな表情をしているのか、私にはわからなかった。
「実家に行くの?」
「行かない。被災地を見て、海を見に行って、海鮮を食べる。お母さん金土休みだからさ。金曜日有給取ったら?交通費浮くよ」
厳密には焦点が合っていないのではなく、私があえて合わせていないのだなと考えていた。回答を思案する素振りをしていたが、その回答は提案される前から既に決まっていた。
「3月は有給取れないな。仕事が忙しいんだよ。それを言うならお母さんが日曜日有給取ってよ」
「お母さんもう有給使い切っちゃったのー!」
「じゃあいいよ。ひとりでバスで帰る」
「それがいいね。あ、お手洗いに行ってくる」
母はハンカチを持って立ち上がった。私は机に視線を落としていた。お寿司はまだお皿に残っている。母はお手洗いに行った。私はそこに残されていた。

もう過去の話なんだな、と思った。別れた時の痛みも、不在による痛みも、どちらも母にとっては過ぎ去ったことなのだろう。もう20年経った。当然のことである。ただきっと母は、父に対して筆舌に尽くしがたい感情が私にあることは、気づいていないのだろうと思った。父は15年間、一人娘の成長期に一切立ち会えなかった。気づいていないのだろうとは思ったが、実は気づいていて見て見ぬふりをしているのならば、それはなんだか悲しいことだな、とも思った。
トイレから戻ってきた母は「酔いが覚めた」と言って目をぱちくりさせた。「もう一合頼む?」と訊くと「飲む」と言って頷いた。
お会計の時に母は、「いいよ、払う」と言った。それは母の常套句だった。やはり母は母なのだ。「今日は払うって言ったでしょ」と制して私はレジにお札を出した。母はすかさず小銭を出してくれた。
店を出て用事があると言って母と別れた。

母のことは嫌いではない。素敵な人だと思う。一緒に過ごしていて楽しい。ただ虚しくなる。一緒にいるのに虚しいなと思うのだ。用事はなかった。ただひとりになりたかった。
「私にとっては過ぎ去ったことではなかった」
私は自分で自分に確認するようにそう言葉にした。ポケットに手を突っ込んで、休日の昼間の商店街をぶらぶらと歩く。喧騒の中では、マスクの中の独り言など誰の耳にも届かない。
なぜなら昨日も今日も明日も、私たちは親子だからだ。帰省すれば2人でゴルフの打ちっ放しに行くし、飲みに行ったら代行を呼ぶのだ。私は父方の祖母が作ってくれた身体に優しく美味しいご飯をもりもり食べるのだ。
私は本当の意味で、実の子どもの成長をその側で見ることができなかった親の気持ちを理解することはできていないのだろう。ただ、"父の人生とは、一体なんだったのだ?"という問いがいつの間にか生まれていた。それは脳裏に焼き付いた。時折、眠っていて朝覚醒したときように、焼き付いた箇所がズキズキと痛むのだ。父は「俺はもう大丈夫だから」と言っていたが、それはつまり父には大丈夫ではない時が、それも長い間あったのだ。
ふと、これは私が私のために抱えていくべき痛みなのかもしれないと思った。もし父も口には出さずとも私と同じ痛みを抱えているとしたら、それはきっと私たちの間で優しさになるだろう。母と父は他人になったが、変わらず私と母は親子で、私と父も親子だ。無理に他者を介入させずに、その痛みを第三者である母に理解されることを望まずに、私は"私たちの関係性"をそれぞれで築いていけばよいのかもしれない。その痛みの存在は、母に知られていようといまいと、きっとどちらでも構わないことなのかもしれない。
虚しさはあるとしても、母はきっと昨日も今日も明日も私の母だ。これからも母として側にいてくれる。
私は電柱の下で立ち止まって、父にLINEを送った。すぐに既読がついた。今日は母と美味しいお寿司を食べたから、今度は父と一緒に大好きなサーモンを食べよう。今年は両親の誕生日にお寿司をご馳走する年にしよう。少しずつ、ゆっくりと、私たちは私たちなりの関係性を築いていこう。


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