見出し画像

私にヨガの先生はできません!【第十三話】新しい扉の向こう側

第十二話「過去と今のココア」はこちら
第一話「無理です!」はこちら

【第十三話:新しい扉の向こう側】

 なにかに夢中になっていると、月日はあっという間に流れる。午後の風が暖かくなり、公園の桜が青空に映える四月二日。火曜日。
 天気は快晴、体調も万全。
「よし」
 ペンタスガーデンのエレベーターの中、私は鏡の方を向いて、大丈夫だと言い聞かせるようにうなずく。
 すぐにエレベーターは三階に止まった。リン、という耳に馴染みのある音が、いつもより凛々しく感じられる。
 今日のシフトは遅番だ。私は十四時に出勤して、十四時半からのビギナーヨガでインストラクターデビューを果たす。
「いと葉、いと葉!」
 スタッフルームに入ると、テンション高めのえりかさんに名を呼ばれる。
「はい! なんでしょう?」
 その勢いに押されて、元気よく返事する。
夏川なつかわさん、いらっしゃったわよ!」
「ええええ?!」
 思わず、まぬけな声を上げる。
 夏川さんは、以前、私が見学対応をした女性だ。結局、そのときは入会にならず、後日体験の予約をとったものの、キャンセルになった方。
「今朝、体験予約の電話があったの。時間帯はどこでもいいって言ってたから、いと葉のビギナーヨガにご案内したわ」
 えりかさんはいつもより少し早口だった。
「ありがとうございます!」
 はじめて夏川さんと会ったとき、私は思った。
 もしも、自分がインストラクターだったのならって……。
「すでに、案内は済ませてるわ。今、お着替えされているところよ。……いと葉、任せたわよ?」
 えりかさんはまっすぐこちらの目を見ながら、ゆるく首を傾げる。
「はい! あ、さっそく着替えてきますね」
 私は更衣室で、私服から制服ではなく、ヨガ用の黒いサルエルパンツとラベンダー色のタンクトップに着替えた。
 このヨガウェアはえりかさんが、選んでくれたおしゃれなやつだ。
 先月、ヨガスタジオ向けの通販カタログを見ながら、黒やグレー、ベージュ系のめぼしいウェアに印をつけていると「あら?」と声を掛けられたのだ。
「シンプルな色も素敵だけれど、色付きは買わないの? え? 似合わないですって? そんなわけないでしょ。あ、いと葉にはこれがぴったりだわ。どう?」
 そんなようなことを言いながら、いくつか見繕ってくれた。
 なんだか気恥ずかしくって、無難なデザインばかり選ぼうとしていたけれど、こっちにしてよかった。
 着替え終えると、顔を伏せて髪を後ろで括り、ポニーテールにする。首があらわになって、一気に涼しくなった。
 私はゆっくりと顔を上げて、あらためて目の前の全身鏡を見た。そこには、これからインストラクターデビューする、自分の姿がちゃんと映っていた。
「よーし!」
 いよいよ覚悟を決めて、更衣室の外へと出る。
 そのまま一度スタッフルームへ行き、ポータブル音楽プレイヤーを手に取り、スタジオへと戻った。レッスン中に流す音楽をここに入れてある。プライベート用のスマホを使う人もいるけれど、私はヨガ専用にしたくて、端末を購入した。
 会員さんは、レッスン開始三十分前からスタジオに入場可能となる。ついさっき、解放されたばかり。まだ人はおらずがらんとしている。
 私はひとつ、大きく深呼吸をした。
 それから急いでスタジオの端にある、鏡の裏の小さなスペースに向かう。この小部屋には、温度や湿度を管理するためのパネルや、オーディオデッキが置いてあるのだ。スタジオ内とは区切られているからか、熱がこもらずちょっぴり涼しい空間でもある。その心地良い冷気のおかげで、とくとくと早まる心臓が少しだけ落ち着く。
 私はオーディオデッキにポータブル音楽プレイヤーを繋ぎ、再生ボタンを押した。スタジオ内に設置されたスピーカーから、小鳥のさえずりが聴こえてくる。
 川のせせらぎ。葉のざわめき。癒しの森をイメージしたこの曲は、レッスンが始まる前のタイミングに流そうと決めていた。
 次に、天井に埋め込まれた電球の明るさを調整するダイヤルを触り、ぼんやりと薄暗くする。
 集中できる環境つくりは、これでよし。
 私はもう一度、スタッフルームに戻り、お手製のノートを開いた。レッスン構成の最終チェックだ。
 うん、いける。
 心の中で小さく唱える。そして水素水の入ったボトルと汗を拭くためのフェイスタオル、レッスンの終盤に使うティンシャと呼ばれる小さなベルを手に取った。
「いと葉、ファイト」
 えりかさんが、イスから立ち上がり言った。
「頑張ってください!」
 天野あまのさんが、フロントとスタッフルームを繋ぐ扉から顔だけを出して、ガッツポーズをする。
「ありがとうございます! 行ってきます」
 私は大きくうなずいた。
 温かなスタジオへと足を踏み入れると、すでに数名の会員さんがいた。ヨガマットの上で仰向けになったり、ストレッチをしたりして、レッスン前のひとときを思い思いに過ごしている。
 その中に、夏川さんはいなかった。
 私はスタジオからロッカールームへと出て彼女を探そうとした。どこかで、なにかに困っているかもしれない。
 夏川さんとは、扉のすぐそばで鉢合わせした。ちょうど、スタジオに入ろうとしていたところだったみたいだ。
「夏川さん。こんにちは」
「あっ。見学のときの……」
 どうやら、覚えてくれている様子。
「このレッスン、私が担当するんです。初心者でも無理のない内容なので、ご安心くださいね」
 なるべく、ゆっくり伝える。
「そうなんですね!」
 私がそう思いたいだけかもしれないけど、彼女の表情は少しだけ和らいだように見えた。
「はい!」
「あ、レッスンを受ける場所ってどこでもいいんですよね?」
「はい。お好きなところにどうぞ」
「じゃあ、せっかくだから、鏡の近くにしようかな」
 夏川さんは、そう言って、スタジオの中に入り右端の前まで歩いていった。その背中を見送り、私はロッカールームの壁にかかっている時計を見た。
 あと、五分。
 時間がきたら、音楽を変えて、挨拶をして、初めてレッスンに参加する方の確認をして、レッスンの内容と注意点を説明する。
 伝えながら、全員がちゃんとお水をもっているかも見ておかないと。
 うん。大丈夫。
 誰にもバレないように、手をぎゅっと握る。

「それでは、お時間になりましたので、ビギナーヨガのレッスンをはじめていきます」
 思っていたよりも、堂々とした声がスタジオ中に響く。 
 仰向けになっていた人や、ストレッチをしていた人たちが、マットの上に座り直し姿勢を整えた。それからこちらを見て、私の次の言葉を静かに待っている。
 その様子からは、私のことを受付スタッフではなく、インストラクターだと認識してくれているのだということが、ありありと伝わってきた。
 無人の空間とはぜんぜん違う、と思った。
 からっぽのスタジオと、人のいるスタジオ。リハーサルしていたときと、広さも、温度も、音楽もおんなじなのに……。
 すぐそこに生身の人がいる。それだけで、たとえ、片方に言葉がなかったとしてもコミュニケーションが生まれるのだ。
 空気がきゅっと引き締まり、ただのスタジオが洗練された場になったかのよう。
「まず、ホットヨガ、はじめての方はいらっしゃいますか?」
 ちらほらと手が上がる。
 二十二人中、十五人。月初のビギナーヨガだから未経験者が多いかも、とえりかさんから聞いてはいたけど、想像以上だった。 
 私は、ありがとうございます、と言って、言葉を続けた。
 初心者向けのクラスであること、無理をしないこと、水分をとることなど、大切なことを話していく。
 会員さんたちは、こくり、こくり、とうなずいてくれる。
 よし、今のところ、準備していた通りの内容をそのまま話せている。順調、順調。
 次は……。水分補給、呼吸法、そしてほぐしからのポーズだ。
「では、最初に、お水を一口のんでおきましょう」
 そう声をかけたとき、ぱちりと夏川さんと目が合った。真剣なまなざしでうなずき、傍らに置いてあったペットボトルに手を伸ばす。他のホットヨガが初めての方々も、経験者の方々と同じく、水分補給をしてくれている。
「……お水、飲みながら聞いていてください」
 気が付くと、私は全体を見渡しながら、予定していなかったことを伝えようと口を開いていた。
 ヨガは体が柔らかくないとできないと思っている方が多いが決してそうではないということ、お手本のポーズがそのままとれなかったとしてもちゃんと効果は得られること、柔軟性は少しずつ向上すること。このビギナーヨガのレッスンでは、難しいポーズは取らないから安心してほしいこと。
 それから、最後にこう付け加えた。
「私自身、ヨガのおかげで体がどんどん柔らかくなっています。それだけでなく、顔色がよくなったり、冷えにくくなったりと嬉しい変化があるので、柔軟性だけにとらわれず、いろんな面でヨガを楽しんでみてください」
 スタジオの端から端までを見渡すように一人ひとりの目を順番に見る。まったく準備していなかった言葉たちが、すらすらと喉から飛び出してくる。
私が伝え終えると、皆が大きくうなずいた。
 まるで、スタジオ全体が一つのまんまるい生き物になって、返事をしてくれたみたいだ。夏川さんや未経験者の方も、気張っていた肩や首の力が抜けたように見えた。
 ホットヨガ、好きになってくれるといいな。
 私はそう思いながら、ビギナーヨガのレッスンを進めていった。

 レッスンが終わり、ロッカールームへと続く扉のところで参加してくれた方々をお見送りする。体を丁寧にほぐし、動かし、汗を流せたからか、すっきりとした表情でスタジオを出ていく人たち。
「ありがとうございました」
 最後にそこを通ったのは、夏川さんだった。
「あ、夏川さん。熱さは大丈夫でしたか?」
 私は尋ねる。
「はい。ちょうどいいくらい。ヨガ、私にもできそうだってことがすっごく嬉しくて、これからもやってみようって思いました」
 夏川さんの瞳がキラキラ輝く。
「ほんとですか! ありがとうございます」
「あの……。前に体験の予約、キャンセルしてごめんなさい」
「いえいえ。むしろ、あらためてご予約いただけて嬉しいです」
「あのとき……。実は、婚約を破棄されたばっかりで、なにか気分転換に新しいことをやってみようって思って見学に来たんです」
 夏川さんは、柔らかそうな眉を下げ、困ったように笑った。
「……そうだったんですね」
 そんな、事情があったなんて、あのときは想像もしていなかった。
「でも、ここに通っている綺麗な方見て、やっぱり自信がもてなくて、せっかく予約した体験すら怖くなったんです。……だけど、ずっとここに来たときのことが忘れられなくて、思い切って今朝、予約の電話をしたんです。ドキドキだったんですけど、参加してよかった! 笹永さんがレッスンの担当でよかったです。本当にありがとうございます」
 夏川さんは、数か月前に会ったときよりも、芯のある明るい声で言った。
 そっか。きっと、こっちが本当の彼女なんだろうな、と思った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 二人でぺこぺこと頭を下げる。
「また、参加しますね」
 夏川さんはそう伝えると、小さく頭を下げて去って行った。
 ぽかぽかと街を照らす太陽、賑わうストリートを吹き抜ける柔らかな風、風景を華やかにする公園の桜たち。はじまりの季節が、彼女の背中をそっと押したのかもしれない。このヨガのレッスンもそのうちのひとつになったのなら、こんなに嬉しいことはない。

 私は音楽デッキからポータブル音楽プレイヤーを外し、タオルとペットボトルのお水を手に取りスタジオを後にする。
 ぬくぬくとしたほんのり暗いスタジオからロッカールームに出たとたん、眩い光が視界いっぱいに広がった。
 ロッカールームに漂う涼しい空気に肌を優しく包み込まれる。
 ああ。なんて、爽やかなんだろう。
 デビューを前に悩んでいたことも、失恋の傷跡も、些細な気がかりや悩みも全部、どこかに吹き飛ぶくらいに清々しい感じ。
いつも見ているロッカールームのクリーム色の壁ですら、今はどこまでも鮮やかに見える。
 ……なんだか、生まれ変わったみたい。
「私……」
 心の中でひっそり呟く。

インストラクターになってよかった、と。


第十四話:「集客に苦戦して」へ

この連載小説のまとめページ→「私にヨガの先生はできません!」マガジン

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?