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私にヨガの先生はできません!【第三十話(最終話)】笹舟にのって

第二十九話「祝日プログラム」はこちら 
第一話「無理です!」はこちら

 八月の土曜日。
 私は閉店後のホットヨガスタジオに入り、隅々にまで視線をやった。
 少し高い天井、白い壁、ぴかぴかの鏡、弾力性のある床。どれも入社時からちっとも変わっていないのに、前よりも愛着を感じるのは、ここが私にとってより大切な空間になったからかもしれない。
「よーし」
 前屈をしてみる。
 両方の手のひらがぺたりと床についた。スタジオの床はまだ熱い。
 上体を起こし、鏡を見る。
 そこに映っている私は、なんだか嬉しそう。
 十一ヶ月前のことを思い出す。そういや、ちょうどこのあたりに立って、岩倉店長に向かって、インストラクターはできませんと叫んだんだったっけ。一年も経っていないのに、それまでの十一ヶ月と、研修がスタートしてからの十一ヶ月を比べると、私はなにもかもが違っている。
 いろいろあった。
 どれももう過ぎたことだけど、そのときは辛かった。
 でも……。
 私、こっちの道に進んできてよかった。
 今はそう思う。
 あれから、祝日プログラムのキャンドルヨガがきっかけとなり、私の通常のレッスンに参加してくれる人があらわれた。一人や二人だけじゃなくって、何人も。
 あんなに集客に悩んでいたのが嘘のようで、連日、二十五人前後をキープしている。岩倉店長とえりかさん曰く、来館数が減る八月にしては良い数値らしい。
 順調なのは、レッスンだけじゃない。
 先日、祝日にルイボスティーが三十個売れたことを日報で報告するやいなや、社長からの「全店GOサイン」が出た。
 片井かたいさんの仕事用の携帯に連絡すると、そりゃあもう喜んでいた。
「ほんとですか!?」
 ビックリマークがいくつもつきそうなくらいの食いつきだ。
「はい!」
 片井さんは、これで先輩を見返せるとかなんとかかんとか、電波越しにも興奮が伝わるような声色で言っていた、というより叫んでいた。純粋に、ひたむきに、仕事に励む彼の素の部分を見れたような気がして、ちょっぴり面白かった。
 ルイボスティーのポップを描いてくれた絵馬えまさんはというと、自らのデザインが役立ったことがよほど嬉しかったみたい。あの出来事がきっかけで、進みたい方向が決まったのだと、雲井くもいさんから聞いている。
 どうやら、誰もが知る大手メーカーの営業事務職と、まだ新しいデザイン制作会社のデザイナー職から内定を貰い、どちらにするかずっと迷っていたらしい。
 それだけじゃない。今回のルイボスティー販売会の一連の流れを知ったうちの会社の社長が、もっと絵馬さんのデザインを見てみたいと興味を示しているとのこと。凄い!
 そして、チーフのえりかさんは、本社に昇進希望を出した。
「迷っていたの。自分でもどうしたいのかがわからなくなっていてね。店舗責任者になりたくないのか、それとも興味はあるけど自信がないだけなのか。……でも、決めたの。やってみることにしたわ」
 そう言っていた。
 みんな、それぞれの道へと一歩、踏み出している。
 私はというと、もうすぐ入社してから二年が経とうとしている。
 まだまだヨガのインストラクターとしては駆け出しだけれど、スキルを磨きつつ、このまま思うようにやってみよう、と考えている。
 ほんのり温かいスタジオを出て、私はスタッフルームへと向かう。
「さて」
 戸締りをして、カフェ・くじら座でサンドウィッチを食べて帰ろう。
 そう思ったとき、ふと視界に入ったのは、先日まで笹の葉を飾っていたところ。約一ヶ月かけて、フロント前の空間に馴染んでいったのに、八月になったとたん、跡形もなくなってしまった。
 まだ少し違和感というか、もの寂しさを覚える。
 ずっと置いておきたかったけど、七夕用の笹なんだから、そういうわけにはいかない。仕方なく、会員さんの願い事が書かれた短冊と笹の葉は、近所の神社にお焚き上げを依頼した。
 そういえば、小学生の頃、母に教えてもらいながら笹で船を作り、小川に流して遊んだことがあったっけ。
 その船は、くるくる回転したり、水面からボコンと飛び出ている石にぶつかったりしながらも、沈むことなく進んでいった。果敢に前進する笹舟を眺めながら、まだ幼かった私は無邪気な顔をしてきゃっきゃと喜んだ。
 今もたまに思い出すのは、緊急代行のレッスンをした日、帰りの電車の中でナミさんから問いかけられたこと。
笹永ささながさんは、このままずっとベガで働くの?」
 あのとき、すぐに答えが出なかった。それは、今も変わりない。
 私はこの仕事が大好きだ。
 だけど……。
 やっぱり先のことはわからない。
 ここの会社で昇進するか、フリーランスのインストラクターになるか、はたまたまったく異なる業界に転職するか……。
 なんてったって、今の時代、選択肢はたくさんあるから。
 でも、もしも、いつか目に前に岐路がやってきたのなら……。そのときの自分を信じて、こっちだと思う方向へ行くのだと思う。
 力強く、前へと進む小さな笹船のように。


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