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私にヨガの先生はできません!【第二十七話】カフェ・くじら座で見る夢は

第二十六話「準備する日々」はこちら 
第一話「無理です!」はこちら

 その後、二十時まで働いた私は、カフェ・くじら座に寄ることにした。
 家に帰ってゆっくりしたい。そう思うよりも、腰を下ろして一息つきたい気分。明日が休みということもあってか、身体は休息よりも癒しを求めていた。
 夕方以降のカフェ・くじら座には静けさが漂っていて、とくに私のお気に入りなのだ。
「いらっしゃいませ」
 笑顔で出迎えてくれたのは一ノ瀬いちのせさん。お客さんは他に二名のみだ。
「こんばんは。あ、なんか久しぶりかもですね」
 そういえば、一週間以上、ここに来ていないのは珍しい。いつも週に一回は一ノ瀬さんと一言、二言、会話していたのに。
「ほんとですね。お元気そうでなによりです。あ、注文はお決まりですか?」
「あー。少しお腹空いたかもです」
 カウンター席の一番すみっこ、壁側に座り、私はメニュー表を見た。
「はい。どれもすぐにご準備できますよ」
 ハムとレタスのサンドウィッチ、ナポリタン、エビのピラフ、トマトのサラダ。本日のスープ。
 どこか懐かしい喫茶店をイメージさせるラインナップ。見ているだけで、お腹が鳴りそう。
 そういえば、と思った。
 いつも注文するのはドリンクばかりで、フードを頼むことはなかったかもしれない。
「じゃあ、サンドウィッチと本日のスープ、お願いします」
 この際だから、ここで夕食を済ませてしまおう。
「かしこまりました」
 一ノ瀬さんはそう言って、キッチンの奥の方へと入っていく。
 店内にはクラシックのジャズアレンジが流れている。ときどき、食器が擦れる音がしたり、カランコロンというベルの音が来客を知らせたりする。それでも、時間はどこまでも静かに流れていく。ここだけ、社会から切り取られているんじゃないかってくらいに。
 不思議な心地良さに身を任せていると、一ノ瀬さんの声がした。
「お待たせしました。ハムとレタスのサンドウィッチ、それからコーンクリームスープです」
 目の前にあらわれたのは、みずみずしいレタスと色鮮やかなハムが縁を彩るサンドウィッチ。すみずみにまで、みっちりと具が挟まっていることが一目でわかる。
 トウモロコシの甘い香りが、スープの湯気にのってあたりに広がる。
「おいしそう! 私、ここのフード食べるの、初めてです」
「どうぞ、お召し上がりください。サンドウィッチは、とくにおすすめなんですよ」
 一ノ瀬さんはどこか嬉しそうに言った。
「はい! あ、食後はコーヒーにします。ホットで」
「では、タイミングを見て、お出ししますね」
 一ノ瀬さんはそう言い残すと、トレイを持ち、少し前に空いたテーブル席へと向かった。
「いただきます」
 小さく呟き、まずはサンドウィッチをぱくり。
「美味しい」
 思わず声がぽつりと零れる。
 ハムとレタスのシンプルな材料だというのに、こんな風に作れるなんて! いくつでも食べたいくらい。パンはふわふわして柔らかいし、レタスはしゃきしゃきしていて歯ごたえがある。ハムも私がよく買うタイプよりも分厚くて、食べ応えも抜群だった。
 それに、サンドウィッチもスープもなんだかとっても優しい味がする。
 私は夢中で食べた。
 最近は、家で食事をしているときも、食べながらひとりあれこれ考えていた。でも今は、私のために用意してくれた素敵なご馳走のことで頭がいっぱい。
 なんだか、久しぶりに食事をした、とすら感じてしまう。
「ごちそうさまです」
 手を合わせると、タイミングを見計らったかのように目の前にコーヒーカップがあらわれた。深みのある香りが、半透明の湯気にのってあたりを舞う。
「どうぞ」
「ありがとうございます! あ、サンドウィッチも、スープも、すっごくおいしかったです」
「それはよかったです」
 身体の奥底から、みるみるパワーがみなぎってくる。
 まっすぐ家に帰らず、ここに来てよかった。
「……お仕事、お忙しいですか?」
 ふいに一ノ瀬さんが尋ねてくる。
「あー、そうですね。今、物販担当していてイマイチ売れてないんです。でも、祝日に試飲会のイベントをすることになって。そこに向けて色々準備してる感じです」
「そうだったんですね」
「あ、でも! 自分で言うのもあれですが、うまくいきそうな気がするんです」
 私がそう口にすると、一ノ瀬さんはうなずいてくれた。
「うまくいきますよ。だから、大丈夫です」
「あはは。一ノ瀬さんに言われると、ほんとにいける気がしますね」
 私は笑った。
 社交辞令なんかじゃない。どうしてか、そう思えるんだ。
 その後、のんびりとコーヒーを飲んでいると、満腹感からか眠気がやってきた。ええ? カフェインを摂っているところなのに?
 そんな突っ込みを自分に入れつつ、迫りくる眠気を遠ざけようと、深呼吸したり、壁や床や天井に視線をやったりする。
 でも、やっぱり眠たい。
 こうやって、座ったまま壁にもたれて、少しだけ目を閉じよう。そうしたら、頭がすっきりとするはずだから。
 私はだんだんと意識が遠くなっていくのを感じた。 

 実家近くの公園の一番はじっこ。そこにひっそりと鉄棒はあった。私は小さな手のひらで、錆びかけた棒をぎゅっと握る。
 えいっと勢いよく地面を蹴り上げても、体は一瞬宙に浮いて、びよーんとまぬけに伸びるだけ。
「もう!」
 ひとりで怒る。片足で地面を蹴ると砂埃が舞ってごほごほと咳込む。すぐに気を取り直し、豆のせいでぼこぼことする手のひらを擦り合わせた。そうすると、かすかに鉄の匂いがして、鼻の奥をツンと刺激する。
 もう一度、鉄棒を握る。
「もう、日が暮れるよ? 明日にしたら?」
 後ろから、男の子の柔らかな声が聞こえる。
 放課後によく、公園のベンチで本を読んでいるお兄ちゃん。名前も知らないけれど、たまに逆上がりのアドバイスをくれるいい人。
「いや! だって、みんなできるんだよ? はーちゃんだけできないなんておかしいもん!」
 そのときの私は、逆上がりができなくて焦っていた。クラスの子たちは、たいしたことでもないかのようにひょいひょい回っていて、自分だけどうして上手くいかないのか、わからなかった。
「君もできるようになるよ」
 お兄ちゃんはそう言ってなだめてくれるけど、私は心配した母が迎えに来てくれるまで、鉄棒を握り続けていたっけ。
「あ、いた! はーちゃん! もう! 五時の音楽が流れてきたら帰ってくるって約束だったでしょう? 何度言わせるの」
 母はまだ帰りたくないと喚く私を引き摺るようにして家へ連れ帰る。そんな様子をお兄ちゃんはベンチに座りながら、どこか悲しそうな目で見つめていたんだ。
 あれ? お兄ちゃんは、帰らないのかな?
 そんな風に思いながらも、そのことを直接聞いたことはなかった。
 ある日のことだ。
 いつものように鉄棒の練習をしていた私は着地に失敗した。骨がなくなっちゃったのかって思うくらいに足首がぐにゃりと曲がり、その場にへたりこむ。
 痛い、痛い!
 立てないよう。
 どうしていいのかわからず、次から次へと涙があふれる。
「大丈夫?」
 私の正面にしゃがみこむと、お兄ちゃんはそう尋ねた。
「いだいよ。歩けないの。帰れないの。どうしよう」
 私はわんわん泣きながら、なんとか事情を伝えようと頑張った。
「捻挫かな? ほら」
 彼はくるりと後ろを向き、自分の背部をポンポンと叩いて見せた。私はうながされるがまま、その肩と背中にしがみつく。
「よっと」
 お兄ちゃんが掛け声とともに立ち上がると、私の視界は少しだけ高くなった。
 私はおんぶされたまま、指先で道を差し、あっち、次はこっち、と家まで案内した。
 お兄ちゃんの背中で見た夕焼け空は、いつもよりちょっぴり近く感じた。分厚い雲すらも染め上げるオレンジ色がどこまでも広がっていて、遠くの方でカラスが飛んでいた。
 そんな景色を眺めているうちに、涙はどこかに引っ込んでいった。涙の跡がうっすら残るほっぺたを夕方の風に撫でられて、ひんやりとした感触を覚える。
「お兄ちゃん」
「ん?」
 ぬくもりのある背中で一定のリズムに揺られながら、私はありがとう、と言った。
「いいよ」
 彼は笑ってくれた。
「……ママに怒られるかな?」
「うーん、どうだろう。わからないけど、僕も一緒に怒られてあげるよ」
 彼は答えてくれた。
「……はーちゃんの足、このまま? 逆上がり、もうできない?」
「ん? 足はきっとすぐに治るよ。そうしたら、また練習できるようになるよ」
 彼は励ましてくれた。
「……ねえ、お兄ちゃん。ほんとに、はーちゃんも逆上がりできるようになるのかな?」
「できるよ。はーちゃんなら。だから、大丈夫」
 彼はできると言ってくれた。
 嬉しかった。
 おまじないみたいだな、と思った。
 本当に、大丈夫な気がしたから。
 そうしたら、安心したからか、眠たくなった。
「あ……。あのマンション。三○五号室」
 私はそう言ったっきり、彼の肩におでこをぺたりとくっつけるようにして、眠ってしまったんだ。
 あの人は……。
 なんだか、一ノ瀬さんに似ているような気がする。


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