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映画感想【沈黙-サイレンス-】

久しぶりにアマプラで映画鑑賞。
重たい映画だとは知っていて、当時TVのCMで興味を持っていた。

沈黙 -サイレンス-』(ちんもく サイレンス、原題:Silence)は、2016年アメリカ合衆国の歴史ドラマ映画。遠藤周作小説沈黙』を原作とする。監督はマーティン・スコセッシ

Wikipediaより引用

比較的短い映画な気がしたので、観るのに苦労はなし。
ポンポンとリズムよく進んでいく。
人間の宗教に対する思いと言うか、理想と現実の狭間で人間はどう判断するのか?宗教は命より重いものなのか?
と、私は問いかけをそう感じました。
結果的には、多分日本人が同じ題材を描いたら逆のエンディングを選んだのではないかな?と思いました。

玉砕思考と言うか、恥を重んじると言うか、思想や信や義の為に命を捧げる事は美しい死である、と捉えるのは日本人かなと。
比較的、その辺りは合理的に考えるのが西洋的な考え方だな、と個人的には思っています。

例えば、今は違うかも知れませんが、第二次大戦の時も西欧的にはこれはダメだな。と感じたら捕虜になる道を選ぶと思います。
実際、今もロシア軍もウクライナ軍も捕虜交換のニュースが出てますからね。
それに比べて、今は玉砕はしないでしょうけど、どこかで日本人はこのストーリーなら、最後まで己の信仰を貫く村人の方に、共感を覚えるのではないでしょうか。

信仰は結局のところ、自分の中にあって自分との対話である。
根底は仏教とも人の幸せを願うものに変わりはなく、アプローチが違うだけなんだと改めて感じます。

これと全く同じテーマを、仏教徒な私とキリスト教の宣教師さんと話したことがあります。

日本は先進国で最もキリスト教徒の割合が低いそうです。
土着の神様が山ほど居る事と、元は自然信仰であること、仏教は国教として広げられた経緯があることが、今の状況を作っています。
比較的歴史の浅いキリスト教に対しては、どうしてもまだ改宗とまではいかないのでしょう。

日本人は古来から自然に対して「畏れ」と言う感情を持ってきました。
その大きな力、形の無い自然に対して神と言う存在に置き換えて敬ってきたのだと思います。
そこには共存と言うか、畏れの中に自分達が居るような感覚であり、自然は利用させて頂く事はあっても、コントロールすべき物ではありません。

それに比べて、西洋的には自然をいかにコントロールするのか、を科学と言う叡智で克服しようとしてきました。
自然は神が作った物ではあるが、仏教や神道のように全てに命を感じる訳ではなく、無機物か有機物か、の様な区別をします。

その様な根底的な考え方の違いから、今に至るまでこの宗教問題は数百年でも解決していないのかな、と思います。

その宣教師さんにも話しましたが、
「いつの日か、日本にいる神様の一つとして思って貰えて、神社にお参りするように、たくさんの中の一つとしてキリスト教も共存できる日が来ると思います。ただ、数字でどれだけ制覇した、何%が教徒だ、と言う考えをキリスト教が捨てない限り、日本に根付くことはない。」
と、この辺りを本国なのか、本部なのか知りませんが、日本独特の文化を理解しないと難しいのかな、と思います。

遠回りしましたが、江戸時代はもっとそれが色濃くて、やはり力を以って制すると言う文化は、幕府にとって都合が悪かったのでしょうね。
そして、現代と違って野蛮な時代ですから迫害の仕方も凄まじい。
現代は無視すればいいだけですが、当時はダメな物には徹底的に潰す。
悲惨な映画に見えますが、時代を考えるとそんなものだったのかもな、と思います。近代の「シンドラーのリスト」等の方がよっぽど悲惨で、残虐な感覚でした。

こう言う歴史があった事は知り、違う文化と如何にうまくやって行くかは、21世紀に最も必要な能力の一つだと思います。
お互いに、平和に議論はすべきですが力で屈服させることのない様に。
そして、力では人は変えられないのだと言う、当たり前の事を再確認しました。

1点だけ…
当時の日本に、そう都合よく英語がペラペラしゃべれる人はおらんよ 笑

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