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廃校教育CAMP

11月11日土曜日、朝7時。
まだ眠い目を冷たい水でこじ開けて、数年ぶりに「学校」に登校した。
校門に佇む二宮金次郎、段差のきつくない階段、止まった時計、足元から体温を奪っていく冷たい体育館の床、エトセトラ。

入るとすぐに「学校」を思い出した。

一泊二日というよりは、とっても長い一日のようで、ほぼ寝ていないのに目を輝かせて、心が跳ねた瞬間の数々がある、濃密な言語化合宿のはじまりだった。



どうして廃校に行ったのか

僕は、教育学について学んで3年目。大学に通っているが、ずっと「勉強」が嫌いだった。そもそも言葉自体が嫌いだった。勉めを強いるってどういうことなんだよ、って。教える先生もつまらない授業ばかりだし。

それに加えて、昔から納得しないと先に進めない子だった。
正方形は自然界に存在しないし、等速で池の周りを走るやつなんて友達になりたくない。なんでこれを勉強するのかわからない。そうなると、僕は一気にやる気を失う子だった。でも、多分本当は楽しくないやらされるものはずっと言い訳をしてやらない子だった。

だから、「学校」という場所も、結局嫌いだった。良い思い出もあるけれど、自由になれない、恐ろしい場だった。

でも、学びは好きだった。
やらされるんじゃなくて、押し付けられるんじゃなくて、自分の「なんで?」に正直にぶつかって、何かが拓ける感覚が好きだった。

だから、学びは好きで、勉強は嫌いで、教育ってワードで最初に連想する「学校」という場所に、絶望と、自分ならもっと面白いと思える学びを作れるのではないかという希望があった。

進路を考える今、ここをはっきりさせたくて、自分の抱える絶望と希望を探すために参加した。

愛の探究者

それからもうひとつ、僕は高校生くらいの時から哲学対話というものをやっていて、答えのないことについて考えることが好きだった。それから、「対話」という営みも自分にとってとても大事なものだった。そんな活動をはじめた理由でもある「愛について考えること」は、やはり今でも続いている。

大学の課題で理想の先生像を考えたことがあった。
僕が悩んで出した答えは「人に寄り添える先生」だった。
寄り添って、対話して、その人の興味を引き出して、一緒に向かっていく。
そんな先生を理想だと思った。そして、そんな先生はきっと愛に溢れている人なんだろうと強く思った。

先生は昔からあまり好きではなかった。でも、理想の先生像はあった。
だから今回参加して、「教育」ってなんだろう?を考えようと思った。

対話にかける想い

対話にかける想いもまた、哲学対話をやりはじめてから僕の中では大きなものになった。他愛のない会話とも、議論とも違う、そこにいるみんなが尊重されてフラットに想いを語り合うこと。それが対話だと思っている。

今回の廃校キャンプでも、対話する時間がたくさんあった。自分を見つめ直すきっかけもたくさんあった。この時間をより愛おしく思うようになった。

大切なことを大切に伝えること、大切に聴くこと。

あの冷たい床で語り合った時間、ふとんにくるまって話した深夜、白湯を飲みながら思い出に浸った時間、最後の握手、ハグした時間。

全部、全部、無駄な言葉なんてなかった。

譲りたくないもの

廃校で過ごした濃密な数時間は本当にあっという間だった。
その中で、たくさん気付いたことがあった。

みんなが集まった時、僕はあまり積極的に他の参加者に話しかけにいくことができなかった。怖かったのだと思う。でも、終わってみればみんな顔も名前も、話し方や笑顔までもを思い出せる人が多い。

人を信じるという前提に立つこと。

いままでたくさん人に対して怖い思いをしたけれど、きっとみんなと共に心を震わせることはできるのだと思った。

教育は、きっとこの前提に立つべきだと思う。人と心を共に震わせることができるのだと信じて、自分から対話しにいくと良いと思う。
そしてそれができると、きっと尊重も生まれると思う。

尊重とは、その人を見つめ続けること。

これは廃校でもたくさん話させてもらったけれど、尊敬、尊重という意味のrespect は、諸説あるが re と spect(specere) に分けられ、 何度も、見るという意味になるのだそうだ。
はじめから敬えるなんて、そんなわけはないと思う。関わり合う中で、尊重は時に敬いを含むと思うのだ。だから、respect は僕の中では「尊重」なのだ。その人に誠実に向き合い、見つめ続け、そうして尊重し合うことが大切なのだ。

「愛」を渡し続けること。

尊重ができると、人は自然と人を愛するようになると思う。

僕にとって
「愛」は相手を思いやり、その結果出た行動だと思っている。

尊重して、相手の気持ちになって考えて、すると行動は愛のあるものになるんじゃないだろうか。思い遣っているだけではまだ足りないのだと思う。思い遣った上で、考えて、どんな行動をするか。

そして、その愛を受け取る「感性」も大事なのだと思う。
最初のワークで作った自分たちの学校で、「感性」が選ばれて、ずっと考えていた。それは、愛するだけではなく、愛されているという感性も必要なのではないか。と思い至った。

愛するとき、人は心だけでなく行動で示さなければならない。誰かが触れてほしくないときに触れないでいてあげるという行動を選択することも、愛の成せるものなのだと思う。
それから、「愛されている」と思える感性も必要だと思う。

そしてここまできて気付いたことは、「教育」って何も学校だけじゃないじゃん。教科教育だけじゃないじゃん。ってことだった。
僕は多分教科教育、学校教育について考えていたから教育そのものに対して絶望していたのだと思う。

じゃあ自分はどう人に関われるだろう。どのように、人と愛を育めるだろう。どのように感性と愛を教えられるだろう。どのように、人と心を震わせ合うことができるだろう。今は自分にそう問いかけ続けている。

きっとそれは共感、共鳴なんだろう。

「わかる」こと、それは自分のレベルを上げ続けないとできないことだと思う。

常に自己研鑽を。

勉強でも、体験でも、たくさん自己研鑽して、人の想いを受け止めて、できれば引き受けることができるようになるために。

廃校に参加してみて、こうして絶望と希望の両面の言語化を進めることができた。
すごく貴重な時間だった。


あとがき みんなへの感謝と新しい学び

まずは、こんな素敵な場を作ってくれたまおさん、みき、かおるに感謝を。
それから、一緒に素敵な場を共にできたみんなに感謝を。


あの時聞けた「感性」の話、それから、日本は「普通」から外れてしまった人に少し冷たい目を向けてしまうという話。
とても考えさせられるものでした。自分自身に向き合うその姿はとても素敵だと思いました。

「自由」であることはどういうことか、体現されていた姿に圧倒されました。

いただいた飴はとっても美味しかったです。

あの時話してくれたあなたの過去の話、共感できるものがありました。

あのカメラ、いいなぁと思っていました。

その夢を、純粋に応援したくなりました。

あなたのひたむきさに心を打たれました。

白湯を囲むあの時間は、なによりもあたたかかったと思います。

お土産を夜食にしていたとき、もっと旅に出たくなりました。

人は信じてる方が良いと思わせてくれたあなたに感謝を。

それから、少し思い出に浸る時間も好きでした。

あなたがいたから、あの場は明るくなりました。

あなたの深い洞察力と勇気に、感化されました。

真面目でチャーミングな姿に、思わず笑みがこぼれました。

本当は、一人一人に全部を伝えたかったけれど、この思い出を言葉にするのに時間がかかってしまいました。それから、少しだけストレートに伝えるのが恥ずかしかったのもあるなぁ。

あの濃密な時間が終わってから、また大学に行って、少しだけ新しく学んだことを共有します。
きっとみんなが共通して持っていた「教育」への感覚は、僕が学んでいるところで言うと パウロ・フレイレ、ガート・ビースタあたりが言及していると思います。(まだ僕も学び途中なので正しいと自信を持って言えるわけではないのですが…)

またみんなに会いに行きます。もう少し学んで、心をたくさん動かして、たくさん話したいことが増えたら、ぜひまた対話してください。


本当にみんなのことが大好きです

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