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出産直後 私は人生で最も幸せで夢のような5日間を過ごした。

出産後、3週間が経った。

授乳服の胸元の縦に入ったスリットから、四六時中乳首が突出している生活にも慣れてきた。気づけば大体一日14回くらいは授乳しているので、出しっぱなしが効率がいい。授乳は楽しい。一秒でも長くこの時間が続いてほしいとすら思う。

この感覚を忘れてしまう前にnoteに書かないと、とはやる気持ちと、
いや今はこの生まれたての赤ん坊との時間を大事にしたい、1秒だって長く触れていたいし、目をそらしたくないという気持ちとの間で揺れていた。
気づけばこの記事をかき出して1週間がたっていた。

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出産直後 私は人生で最も幸せで夢のような5日間を過ごした。

どこからどう書けばいいのやら、幸せと断言できることってこれまでの人生でほとんどなかった。(後から思い返してああ、あれは幸せだったに違いないと思うことはある。)悪い言い方だが結婚して以来、夫に対してだって『幸せにしてくれてありがとう』と、思ったことがない。だって私は夫に幸せにしてもらうために結婚したわけではなく、夫と結婚することによって、幸せになろうと決意したからだった。今も、夫任せの幸せを結婚に望んではいない。ただ生まれて間もない娘には『幸せにしてくれてありがとう』と嘘がなく言える。もちろんそんな娘に出会えて、間接的にではあるが夫には感謝している。

出産を終えた私は自分でも驚くほど、恐ろしく涙もろく、ハイパー善人モードになった。入院生活中の5日間、新生児ベットに寝かされた娘の顔を見ているだけでタァタァと涙がこぼれてくる。ただ出産前に人からの見聞とエッセイ、あらゆる産後クライシスの文献を読み予習していたおかげで”ついに噂のホルモンとやらに私も支配されているのだな” と頭では冷静でいられた。

悲しくも苦しくもないのに、鼻の奥がツーンと辛くなり一気に感情が高ぶった。出会ったことのない感情に戸惑い、切り離されたばかりの我が子に対して”かわいい”という表現しか見当たらないのが悔しい。娘は体中から素敵なにおいを放ち、まぶしそうに目を細め、ゆらゆらと視線を泳がせる。透き通った光彩、薄い皮膚から透ける毛細血管、産毛、まつ毛、伸びた爪先、どんなに目を凝らしても毛穴が見当たらないやわらかな皮膚。10ヵ月もの間この細部にわたってまでが私の知らぬ間に生成されていたらしい。精巧な作りだなあと感心せずにはいられない。尊いイキモノが目の前にいる。真新しい体の隅々をなめるように何度もみては、とにかく、初めて会ったのに”この子のことすごく好きだな”と確信し、何度も涙を流した。

ここからは少し時系列で思い出しながら書いてみる。
出産レポートになってしまうが、苦手な方はご留意いただきたい。

※※※

4月4日  微弱陣痛で三日三晩の徹夜がはじまる

はじまりは4日の午後22時半頃、数日前から前区陣痛はきていた。不定期だったその痛みが大体10分間隔になり始めたのがこの時だった。いよいよか?と緊張しつつ、まあでもいったん様子を見ようと横になる。夫にLINEで知らせる。とりあえず間隔が狭まり、痛みが増すのを待つ。

深夜の1時頃、産院にどのタイミングで病院に向かえばいいか相談の電話を入れる。破水はしてますか?痛みはどのくらいですか?と電話越しで問診を受け、破水もしてない、痛みはまあ耐えられるくらいと話す。いったん痛みの間隔が5分おきになったら電話をくださいと言われた。

明け方4時ごろ、陣痛タイマーというアプリで測っていた陣痛の間隔が5,6分前後になる。痛みはあるが増しているのかどうかわからない。相変わらず痛くはあるがどのくらい痛いですか?と聞かれても比較しようもないし、度合いを伝えようがなく、耐えられなくはないが普通に痛いですと答えた。”とりあえず入院の用意を持ってきてください”と言われたので陣痛タクシーを呼び、いよいよ始まるのかと勇み足で病院に向かった。

5時、分娩台に横たわる。眼鏡をかけた華奢で落ち着いた声の助産師さんが”子宮口の開き見るねー”と言って指を突っ込む。陣痛よりもよっぽど痛い。”子宮口手繰るから痛いけど我慢してねー”と言われるが思わずイデデデと声が漏れた。『うーん…あれ遠いなあ。んー?開いてないかなーまだ』と助産師さんはいった。そのあともう一人別の助産師さんが入ってきて”どう?”と聞くと、眼鏡の助産師さんは”クローズですね…”と専門用語っぽいテンションで答えた。

そして”いったん帰りましょうか!家近いですしね”と衝撃のヒトコト。ついに産める!という期待は裏切られ、まあまあ痛いのにこれいったん帰るのか…と軽く絶望した。どれくらいで開きますかね?と聞いてみるも、うーん2,3日くらいですかねー?まあこの数日には間違いなく!と答えられる。ゴールが見えづらい戦いが始まった。痛いまま2,3日過ごすのか…病院にさえくればなんなと処置をしてもらって産めるだろうという考えは甘かった。案外簡単に振り出し戻されるもんなんだ。

4月5日 母のいびきと陣痛の二重苦に耐える

朝6時 MKタクシーを呼んでもらい帰宅。ミルクティーを飲んで阿闍梨餅を食べた。陣痛の感覚も間延びしはじめ、10分前後。陣痛の痛みを感じながらうっすら意識を飛ばし、体を休める。ぐっすりはねられないが、うつらうつらを繰り返しまた日曜日の夜になった。間延びしたり縮んだりする陣痛と戦いながら1晩を過ごす。早く終わってほしい。早く痛みが増してほしい。微弱陣痛というのは自力で誘発できる陣痛が弱く、だらだらと長引くので案外つらい。どういう姿勢が一番楽なのかわからないが、クッションを背もたれにして骨盤を立て、おしりにテニスボールを2つしいて顎を挙げる姿勢が何となく痛みがましになる気がした。10分ごとにこの姿勢をとりながら朝まで待った。

そんな中、横で大いびきをかきながら呑気に寝入っている母親が本当に腹が立つ。少しでも体も神経も休めたいが、痛みが遠のくタイミングでのいびきがうるさすぎてどうも休まらない。こういう時に限って何の気も使えない母親ってどうなんだよ…と半ば八つ当たりの感情がこみ上げる。挙句の果てに明け方目を覚ましたかと思うと、陣痛で貫徹、疲労困憊の私に、『もう病院いこう…?産ましてもらおう…?』となんとも情けなく不安な声でいってきた。さも夜通し心配してましたかのように。あんたずっとぐっすり寝てたやないかい。苛立ちがピークになり、『お母さんが不安になったところでしょうがないしお医者さんの指示に従うしかないねんから!』と声を荒げてしまった。

一方、共有ができる陣痛タイマーアプリを通して、遠隔から夜通し夫は励ましてくれた。陣痛が来ると私がアプリの陣痛が来たというボタンを押す。すると夫に通知が飛ぶ。LINEのテキストで夫から頑張れ!というメッセージが即座に入る。こんな時イギリスと日本に時差があってよかったと思った。夜通し痛みに耐える私を、できる範囲で夫は支えようとしてくれた。

4月6日 膳處漢ぽっちりのしみだれ肉まんを食べる

正午 入院前の最後の晩餐になるかもしれないと、陣痛のさなかでも食い意地は変わらない。膳處漢ぽっちりのしみだれ肉まんとは、祇園祭限定でしか売り出さない、鉾町にあたりの中華料理店の名物だ。祇園祭の起源は疫病退散、無病息災祈願と言われている。諸般の事情で今年の祇園祭は中止もやむを得ないなか、前倒しかつ疫病退散にかけてこのしみだれ肉まんを販売するとは、うまいことやるなと思った。

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すこしでも体を動かして子宮口が開くようにしたほうがいいと助産師からのアドバイスで、人気の少ない大通りを少し歩く。定期的に来る痛みの波をいなしながら、牛歩で歩き立ち止まっては夫とビデオ通話をした。夕方の散歩から帰るとすでに陣痛の間隔は5分前後。そんななか夕飯を作る。最近ハマっている豚眠菜園。これが入院前の最後の食事になる。痛みが増している気がするがまだ余裕はあった。風呂につかりながら夫とビデオ通話をして、このあと病院に電話してみると伝えた。5分おきの痛みが辛く、なかなか身支度が進まない。やっとの思いで風呂から上がり、産院に電話。”入院の用意を持ってきてください”と言われる。2日ぶり2度目だ。今度こそ家に帰されたくないと祈りながら病院に向かう。

薄暗い院内の廊下を進むと遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえる。なんとも不気味だと感じるのは、どことなくまだ出産が他人事のようだからか。この日は赤ちゃんだけでなく、今まさに分娩中の妊婦さんの断末魔のような叫び声が響き渡っていた。なんとも言えない叫び声に冷や汗が出る。ひときわ明るいナースステーションでは関西弁の女たちがテキパキと働いている。その日の担当助産師さんはショートカットで目の大きい美人。出会って数分しかたっていないが分娩台で子宮口をまさぐられる仲になる。横並びの分娩室からは相変わらず断末魔が聞こえる。私も産むときあんな声が出てしまうんだろうか…『うん、子宮口2センチ。まだ少しかかりますけど入院しましょうか』と言ってくれた。そういえば無痛分娩希望でしたっけ?と確認される。陣痛にギブ!となった場合を見越してあらかじめお守り代わりに無痛分娩の同意書は出してあった。『いけるとこまで我慢したいんですけど、ギブ!ってなったら無痛にしたいです』というと『了解です~』と明朗快活な声で答えた。めちゃくちゃかわいい人だ。

4月7日 永い一日がはじまる

小綺麗なビジネスホテルのような入院室に案内され、陣痛の間隔は肌間で6,7分。また少し間延びしているような気がしたが、入院してしまえばさすがに返されることはないだろう…どうにかして産んでしまいたい。PHSを渡され『このまま陣痛の間隔が縮まれば、朝にはお産の準備しましょうね~何かあれば呼んでください』と言って美人は部屋を後にした。夫にビデオ通話で入院の報告をする。この時点ではまだ無痛分娩にしようか迷っていた。耐えられないほどではないが、この数日にわたる微弱陣痛にはまあまあ気力がすり減っていた。夫も『我慢せずに無痛にしたらいい』と言ってくれているが、無痛分娩は意気地なしな気もする。自分との戦いに負けるような気分なので何となくためらっていた。まだ朝までは時間があるから少し考えるよと言って切電した。

明け方4時 相変わらず眠れずにいた。もう3日3晩この陣痛生活が続いていて気が遠くなってきた。陣痛の間隔はまたもや間延びして10分弱。このまま、また長引けば分娩の体力と気力が残っていないかもしれないと思い、無痛分娩を決意。PHSで助産師さんに伝えた。夜が明けても子宮口がそれ以上開くことも、破水することも、痛みが強くなることもなかった。

朝9時 夜勤担当の美人な助産師さんから、語気の強いちょいギャル風味のポニーテール助産師さんへ担当が変わった。朝になれば何か状況が変わると期待していたが『ん、全然開いてないね!昼前まで待ちましょう!また来ますね』と平気で言ってきてキレそうになる。いつまで待てばいいんだろう。もう妊娠はしたくないなと心ないことを思ってしまう。日当たりのいい部屋はどんどん室温が高くなり、一括管理されている室温を変えることはできず、暑い部屋でひたすら痛みに耐えるしかなかった。

正午前 助産師さんが来て、『んーまだ開ききってないですけど日中しか陣痛促進剤使えないので急いで分娩の準備しましょうか!』と言われた。ようやっと何かしら始まる。

12時半 今にも砕けそうな重たい骨盤を引きずってエレベーターに乗り、歩いて分娩台へ。これから始まる処置の説明がある。やはり微弱陣痛のため自力で誘発できる陣痛では子宮口が全開になりきらないため、これから1時間ほどかけて陣痛促進剤を投与するとのこと。その後、陣痛の間隔が2分以内になったら無痛分娩の麻酔の準備が始まるらしい。これまでの人生で病気やケガの経験がない私は、お産どころか注射と採血以外の処置が全部初体験だ。点滴、カテーテル、導尿、皮下麻酔、硬膜外麻酔、縫合、抜糸…このお産きっかけで初体験ラリー、経験値がぐんと上がった。

13時  陣痛促進剤の投与が始まった。NST(陣痛の強さや間隔を波形で表したり、胎児の心拍数を図る機械で紙にどんどん印字されて流れてくる)の波形の山が尖り、どんどん山並みの間隔が狭まる。これまで感じていた痛みに比にならないくらいの痛みが押し寄せる。まだインターバル(痛みのない時間)があるから耐えられてはいるものの早く楽にしてほしいと、拷問を受ける受刑者のような気持ちになった。生きたまま骨盤にボルトを打ち込まれるような、骨盤をダンプカーで轢かれるようなギリギリと下半身を締め上げられる重圧がかかり、太ももがしびれる。奥歯をかみしめて耐えるしかないが、今つらくて耐えているのはお腹の子どももそうだろう。自分だけが辛いと思ってはいけない、私はこれまでことあるごとにそう思ってきた。今だってそうだ。辛いのは自分だけじゃない。

14時半 助産師さんが内診してくれる、子宮口だいぶ開いてきてますねと。ただ赤ちゃんがまだ回転しきってないのでもう少しですねという。入口に対して真っすぐ体が向いていないと出てこれないらしい。昼時点では真横をむいていて、今はあと1/4回転ほど。陣痛というのは自ら子宮を収縮させて、産道を通るために胎児を正しい位置に回転させ、頭が骨盤まで下がってくるのを促すためにあるようだ。私の場合それが自力の陣痛が弱かったため、回転するのも骨盤まで下りるのも時間がかかった。子宮口の開きはこの時点で約5、6センチ。全開までようやく半分のところまできた。

15時過ぎ ついに麻酔医が到着。やっと楽になれる。分娩台の上で横向きになり、体育座りのように膝を抱えるようにして背筋を丸める姿勢をとる。水分を補給して人生初の導尿してもらう。思えば前日の夜から何も食べていない。最後の晩餐は陣痛に耐えながら作った平野レミレシピの豚眠菜園だった。もう何が何だか空腹も感じない。無痛分娩とは脊椎にカテーテルを通して継続的に麻酔薬を注入し、分娩時の痛みを緩和させながらお産をする方法だ。まずは脊椎に麻酔の針を刺す前に、針が刺さる部分に皮下麻酔をしてもらう。注射程度の痛さで終わる。その後カテーテルが挿入される。背筋にひんやりとした液体が流れる感覚がある以外は特に何も感じなかった。あれだけ悶えた陣痛も少しずつ生理痛のような痛さに緩和され、30分もたてば何の不快感も痛みもなくなっている。魔法のようだった。ここから大体2時間くらいで子宮口も全開になるはずなので、ゆっくりしててくださいと言われる。3日ぶりに痛みのない快適さのなか、分娩台の上で少しまどろんだ。

17時過ぎ ポニーテール助産師さんと夜勤番の助産師さんが二人現れ、引継ぎの挨拶をしてくれた。今度は黒髪に一重のこざっぱりとした顔立ちの眼鏡の助産師さんだ。自分よりよっぽど若い気がする。若い助産師さんはお産のときは私が担当になると思いますと言ってくれた。大変失礼だがお産の経験がなさそうだから少し不安だなという偏見をもってしまった。二人の助産師さんが、過去記事にも2度登場した関西弁強めの男性産科医を呼び内診が始まった。だいぶ回転しきってるので大丈夫だと思います、という助産師さんの引継ぎを否定するかの如く男性医師は『イヤァ〜これまだ横むいてるナァーこれ明日になるかもわからへんねえーまだ首傾げとるわ。これ吸引分娩になるわ多分』とこの期に及んであれこれ不安要素を並べた。まだこの状態が1日続くのか……?

もし日をまたぐとなったら夜通し麻酔薬が自動で投与されるようにするので安心してと言われるやいなや、麻酔医が再び現れ何やら処置してくれる。お弁当箱ほどのポータブルの機械が背中の管につながっている。このお弁当箱を首から下げて一晩過ごすらしい。自動的に麻酔薬は投与されるが、痛みが増したらこの青いボタン押せば大丈夫ですのでと説明される。麻酔薬の投与を簡単に委ねられ青ざめた。

その横で眼鏡の助産師さんは鋭い目つきで腑に落ちない顔をしていた。『吸引分娩やったら隣の分娩室のほうがいいから移動させときぃ』と言って医師が立ち去った後、眼鏡の助産師さんは『きっと大丈夫ですよ今日中には生まれると思います』とこっそり勇気づけてくれた。先ほどの若いから、お産の経験がなさそうだからという偏見は吹っ飛び、助産師さんの強い意志と私が産ましたる!といわんばかりのプロ意識を感じて心から安心しこの人にお産を託したいと思った。

19時 足が観音開きになるいわゆる分娩台へ。ここまでたどり着くの、本当に長かった。無痛だが陣痛の波は絶えずきている。最大の陣痛であるはずだが、ググゥ~っと肛門あたりに圧力がかかる程度の違和感しかない。その違和感の波にあわせていきむ。ヒッヒッフーという古典はどうやら使わないようだ。目を開け、首を持ち上げ、自らの腹を覗き込むようにして、肛門あたりに力をこめる。『硬い便を出す感じで~はいそうですめちゃくちゃ上手!あってます、その力の方向で〜うんすごい今までで一番上手!』助産師さんはいきむたびにめちゃくちゃ褒めてくれるのでモチベーションが上がる。これから履歴書に特技”イキむこと”って書けるんじゃないかと思うほどひっきりなしにほめてくれた。横になったり、あおむけになったりを繰り返しながら何度かいきんだ。

眼鏡の頼れる助産師さんは『お母さんは仰向けのほうが上手やけど赤ちゃんは横向きのほうが上手みたいやねえ~あかちゃんにも得意な方向があってお母さんと力を合わせてでてくるんやねえ~すごい勉強になる』と言ってくれた。どういう状況かわからないが暫くするとまたぐらに何か挟まっているような感覚になり『もう頭見えてます!ふさふさですよ~』と、いわゆる鼻からスイカ状態なのだが、無痛のおかげで『あ、そうですか』と冷静でいられた。『どうします?生まれる瞬間動画でも撮りますか?スマホどっか設置しましょうか?』とやけに勧められたのだが、いやあ恥ずかしいから、ま動画はいいです…と答えた。そろそろお産の準備しますね~といって割烹着のような手術着を着てキャップをかぶり、足元にシーツのようなものが敷かれたりし始め、先生呼んできますね~と関西弁医師が呼ばれる。

どやどやと分娩室に何人かの助産師さんが入ってきて一気ににぎやかになった。『どない~?あー吸引いらなさそうやねー。もう出てくるから、もういいよーゆうたらいきまんといてね』と医師はいった。裂けると余計痛いからちょっとだけ切るよ~その前に麻酔の効き確認するから、これ感じる?と多分メスのようなものを股に当ててくるのだが、明らかに硬くて冷たい鋭利なものが皮膚を刺している感じがする…会陰をそう簡単に切らせまいと食い気味に『はい!めちゃくちゃ感じます!鋭利で冷たいです!』と答えた。

その瞬間が近づいているのがわかる。

助産師さんがほんとに撮らなくていいの?というのでじゃあ、、と言って自分でスマホを操作し、シートで覆われる股の向こう側を撮影することにした。妊娠したときからもともと立ち合いは望んでいなかったが、こんな揺さぶられる世間のなか生まれてくる瞬間を、動画でも遠隔の夫に届けることで、父親の自覚を持ってくれたらいいと思った。大変な時代の中生まれてきたことを、いつか娘に教えてあげたい。

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21時過ぎ スマホを構え、スマホの画面越しに医師の助言を聞く。あとから入ってきた助産師さんも『あれ?自分で撮ってはんの笑』と半分笑っている。無痛のおかげで妊婦自らが出産シーンをスマホで撮るというなんだかシュールな状況だった。『あれ?今陣痛きてる?』いや来てないです、というと『あもうこれ切らんでも出るわ!力抜いててー』と言われるとスンっと何かが体から排出されゴポォと水音のようなまだ両生類状態の娘の、初めての肺呼吸の音が聞こえた。その後聞こえたのは、ンギャアと思ってた以上に低い、それはとても私好みの、媚びない意志の強い女のいい声だった。

21時15分 3172gの女児が産まれた。
彼女は私の娘である前に、今この瞬間から私とは切り離された個人である。生まれたてほやほやの我が子を胸元に乗せてもらった。出てくる瞬間を見たわけではないのでいまだに自分の股から出てきたとは信じがたく、思わずデッカと言ってしまった。案外ずっしりと質量があり、薄紫色で丸まっていてなんとなくコアラみたいだった。礼儀正しくいようと決めていたので『はじめまして』と声をかけた。ふやけた右目が一瞬開いて私をとらえる。きっとまだ見えてはない。

細長いチューブを口から入れられ掃除機のようにシュゴゴゴゴーと水気を吸い取られる音がする。娘が処置を受けている間、分娩台に横たわったまま胎盤を見たり、股の傷を縫合されたりした。幸い会陰切開はまぬがれ、外壁に少し傷ができた程度で済んでよかったねと言われた。胎盤は思った以上に大きく、どす黒くて内臓そのものだった。へその緒は太く、シマチョウのようで出産のためだけに用意される臓器が、出産と同時に排出され役目を終え使い捨てられるなんて、人体ってすごいなあと感心する。記念に写真を撮らせてもらった。

病院でかりた産着を着せてもらった娘が傍らに運ばれてくる。おっぱい吸わせてみましょうか、と助産師さんが言って、生まれてまだ数分しかたっていないが初めて授乳をした。誰からも教わったはずもないのにチロチロと乳首を上手に口に含んでリズムよくすっている。諸般の事情で立ち合いや見舞いを禁止せざるを得なかったせいか、産院は寛容でそのまま分娩台の上で夫にビデオ通話をした。きっと夫もまだ何の実感もないだろうが、生まれたばかりの娘の顔を見せられて安堵した。私ですら何の実感もなかった。

というかそもそも、妊娠がわかったときも今こうして産まれた瞬間も、ことあるごとに実感を求めたが、今思えば何の実感を得たかったというのだろうか。実感がなくて当然なのかもしれない、まだ名前のない真新しい人間関係が始まった、ただそれだけの話だ。だから必要以上に気負う必要はないのかもしれないし、娘もそう思ってくれたら嬉しい。

その後 夢のような5日間

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日当たりのいい部屋、上げ膳据え膳の健康的な食事に、24時間体制のナースステーション。今間違いなく、どこよりも安全で快適な生活だといえる。無痛分娩で出産時のストレスが軽減されたおかげか、産後の回復も早かった。体が軽く、寝返りが楽でうつ伏せで寝られるのがうれしかった。ほとんどどこにも痛みは残らず、シャキシャキあるくんですねと助産師さんにも驚かれるほど快調だ。痛み止めも二日ほどしか飲まなくて済んだ。

出産直後アドレナリンのせいかしっかりは眠れなかったがそれでも気分はよく、自力で排泄できない以外は不便がない。これまで肥大した子宮の圧迫をうけていた膀胱の筋力が弱まり、産後1,2日は尿意を感じづらく排尿しづらいらしかった。そんなこまかなマイナートラブルまで誰も教えてはくれなかったが、このまま自力で排泄できなかったらどうしようと少し不安になった。(2日たてば徐々に感覚が戻ったので大丈夫だったし、痛み止めを飲めば傷をかばうことなく、全力でキバれるのでお勧め)

いろんな経産婦さんもいるだろうから、一概には言えないが私の場合懸念された産後うつや産後クライシス、毎日育児に追われて泣いて不安になる日々とは無縁のようだった。幸福感で喉が詰まり涙ぐむことは何度かあった。

出産直後に会えないことを承知で望んだ妊娠で、やはりこんなにも可愛い娘の限られた新生児の期間を夫に見せられないこと、世の中の状況を鑑みるといつ抱かせてあげられるか見通しが立たない今、夫を思うと無念でたまらなくなって泣いてしまう。私は自分一人で食べた美味しいと思ったものを、一番に夫に食べさせたいなと思う。夫も同じ気持ちでいてくれるのがうれしい。いつだって一番に共有したいと思える関係なのに、こればっかりが一番に共有できないのはつらかった。

娘とはじめて過ごす夜、授乳をしても抱っこをしても泣き続ける娘が可哀相で耐え切れず、ナースステーションに連れて行った。ベテラン助産師に抱かれた瞬間落ち着いた娘を見て自分のふがいなさと、『預かってあげるからいったん寝よし!』と頼もしい助産師さんの言葉に泣いた。

ついに退院できるとなった2時間前、『黄疸がひどいのでお子さんだけ退院は明日になります』と言われ、膝から崩れ落ちそうになった。黄疸なんて新生児にはよくあることなのだろうし、大ごとではないらしい。頭ではわかっていたが、光線治療を受けるためオムツ一丁で保育器に寝かされ、アイマスクをつけられた娘をベビールームのガラス越しに見届けたとき、痛々しくて棒立ちで号泣した。(翌日無事退院できた)あなたがこの世に生まれてから一度だって離れたことなかったのに、今日は初めて離れ離れだね…みたいなポエムが浮かんでくるほど、娘のことには感傷的になる。

娘を思う気持ちは新しく好きな人ができたのに似ている気がする。自分の子どもだから好きというよりは、これまで体験した感情に照らし合わせて例えるなら、あなたに出会えてよかったと、世界で一番好きな人に思いがけずに出会えたような幸福感だ。泣いていると不憫でたまらなく、何とかしてあげたいと思う。私を求めてくれると(主に授乳という点で)こころから嬉しい。もっと好きになってもらいたいので清潔にしていたいし、決して傷つけないように爪を頻繁に切る。笑った顔が見たい。明日も一緒にいられるのかと思うと顔がほころぶ。初めて彼女ができたばかりの思春期の男子みたいだ。

入院していた5日間は娘の信頼を得ようと徹した。泣いたらすぐに駆け付け抱き上げるか乳首をすぐさま差し出した。ミルクづくりで待たせるときはなぜ待たせるのか言葉で説明したうえで待ってもらうようにしたし、たった数時間数日前と生活環境がガラリと変わってしまい不便をかけていることをねぎらい、娘の感じているかもしれない不安や不快感をわかろうと寄り添う気持ちでいた。眠れない夜だって娘のためならそもそも寝なくたっていいと思えば、平気だった。

授乳するとき、目を見つめ合って小さな手で指をつかんでくれる。夜中にすやすやと安心しきって寝ている横顔を見ては、この世界でまるで二人きりのようなロマンティックな気分になる。腕の中でしか寝てくれない夜もあるが、娘のためならベッドになることも本望だ。

娘は昼間はよく寝て、よく母乳もミルクも飲み私に似て食い意地が強い。授乳時の姿勢やこ乳首の角度が悪いとンンンゥ!!と鼻息交じりに怒られる。夜もお腹が膨れればたいてい2,3時間はまとまって寝てくれる。今のところ育児に不満やストレスがないどころか、世の中が大変な時期なのにもかかわらず毎日娘のお世話だけで1日が終わるのがありがたい生活だと思える。まだたった三週間なので安心できないが、産後クライシスへの心構えは取り越し苦労のようだった。

子どもが欲しくないとか、息子が良かったとか、夫がそばに居ない妊娠生活で出産準備に加え、仕事の引継ぎと引っ越し作業に追われていた日々の中、妊娠を後悔しそうと夫にあたってしまった自分を責めた。体の変化をつらいと不平不満を言っていた自分が情けない。しがみついていた自分のキャリアと、きみと過ごす人生とを天秤にかけようとしていたことがが愚かしい。きみがいいることで諦めねばならないキャリアなど大したキャリアではない。そんなつまらないことどうだっていいと今は言える。

関西人のやっかいな性で話にオチや結論がないと、ブログの意味がないと思っていたので、noteに手を付けるまで時間がかかってしまった。もったいぶっているわけでも、育児に忙しくて余裕がなかったわけでもない。むしろ娘は昼間よく寝てくれていて、私も産前よりよっぽど快調だ。ただ娘のおかげでしばらくはイキって、なんかうまいこと言ってやろうとか、つまりこういうことが言いたいとか、主義主張の強い文が書けそうにない。それもまたいいか。人生はうまく言い当てられることがすべてじゃない。人は理由なく誰かを好きになれるし愛せる。言葉にすることが重要視される世の中だけど、生身の感情だって大事にしたらいいじゃないか。

とにかく君に会えてうれしい。今はただそれだけだ。


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