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悔しさを忘れてしまった君に

ピンと張られたそれと、鞭との違いが分からなかった。

ヒュッと風を切る音。何重にも土の上に描かれる跡。
安定したリズムが、心臓の音によって乱されていく。

何よりも、クラスメイトの視線が怖かった。



ボールは上手に投げられた。
でも、それだけだった。

小学生にとって運動が出来るか出来ないかは天と地ほどの差がある。わたしは後者で体育の授業はまさに地獄のようだった。

仮病と病欠の境目が分からなくなったのはいつからだったろう。体育の授業の前だけ、いつだって具合が悪かったような気がする。

50m走は10秒を切れなかった。
前転は1回まわるだけで酔ってしまった。
二重跳びも跳び箱も、一度だって跳べたことは無い。
逆上がりなんて、そもそも鉄棒に触った記憶がほぼ無い。

苦痛だった。
それでもそれらは自分1人だけで完結する。


クラス対抗の大縄跳び大会は、一人では完結しない。



タン、タン、タン、タン……

一定のリズムで土の上に縄の跡が刻まれていく。
クラスメイトが間を空けずに縄に入り、跳んで、出る。
それは残酷なほど整った行為。

他の人が跳んでいる時は遊び道具に見えるのに、いざ自分の番になると大きくて痛い鞭のようにしか見えない。何度見てもタイミングが掴めなかった。

あっという間に自分の番が回って来る。身体全体でタン、タン、とリズムを取って「ここだ」と思うタイミングで縄に入る。入れた。跳ぶ。跳べた。その後だ、出るときに必ず後ろの足が引っ掛かってしまう。

さっきまで一定だったリズムが、止まる。

聞こえてくるのは沢山のため息。


「ちゃんとやれよ」って、やってるよ。やってるんだけど、出来ないんだよ。「時間の無駄」って、それも分かってる。ごめん、わたしのせいで。ごめんね。

やってるってわたしは思っているけれど、これは「ちゃんとやっていないこと」になるんだろうか。
わたしは周りから見たら「ちゃんとやっていない人」として見られているんだろうか。


視界が歪む。
それでもすぐに自分の番が回ってくる。

タン、ドッ、タドッ、タン、ドッ、ドッタドッ…

自分の心臓の音にかき消されて縄のリズムが聞こえない。
どうせ引っかかるならせめて間を開けずに入りたいとそう思うのに、目の前でヒュッと風を切る鞭が怖い。逃げ出したい。ああ、また、入れない。


「休めば良かったのに」

はっきりと告げられたその言葉がこだまする。

頑張りたい、出来るようになりたい、出来なくて悔しい。
そう思う気持ちは消えてしまった。

あの頃のわたしがみんなのために出来たのは、みんながわたしに望んでいたことは、足を引っ張らないように休むこと、ただそれだけだった。



スポーツ漫画を読んでいて共感することなんてほぼ無かった。

本気になって目の前のことに取り組んで、出来ないもどかしさや負けた悔しさをバネに仲間とともに成長していく姿は、わたしには眩しすぎた。スポーツ漫画はわたしにとってある種ファンタジーだったんだ。

だって彼らは仲間に「いてほしい」と思われる存在で、「休めば良かったのに」と言われたわたしとは真逆なんだもの。

だけど、バレーボール漫画『ハイキュー!!』では「悔しさを感じられなくて悔しい」の気持ちが描かれていた。それは、わたしがスポーツに対してずっと抱いている気持ちそのものだった。


「まあ…うちは所謂"弱小校"だから」

常波高校のインハイ予選・初戦の相手は烏野高校。
池尻と中学で同じバレー部だった澤村がいる学校だ。

久しぶりに会場で再会した澤村は変わっていた。
身長は池尻の方が1cm高いが、物理的な意味ではなく澤村が大きく見えた。ガタイが違う。気迫が違う。練習量だって、多分違う。

そんな澤村を前にして池尻の口から出た言葉は
「まあ…うちは所謂"弱小校"だからーー」

言いながら池尻はハッとする。
試合前に、これから戦う相手に対して出た言葉。その言葉には「だから負けても仕方ない」が含まれている。格好悪い、言う必要の無い言い訳。


中学最後の試合、初めての初戦突破。

二回戦の強豪を相手に、誰もが諦めムードだった。

「あの最後の大会ん時さ
相手はすげー格上で 勝てるなんて全然思えなくて
負けても"やっぱりなァ"って感じで
そんなに悔しかった覚えが無くてさ」

圧倒的な実力差を前にして部員たちが戦意を喪失していくなか、澤村だけが最後まで諦めずにボールを繋ごうとしていた。勝とうとしていた。

「それまでの苦しい練習が
明日からはもう無いんだっていう開放感すらあって
でも
お前だけが黙って唇噛みしめてた」

相手だって同じ中学生だ、ネットを挟んだら格上も格下も関係ない、勝とうとしなきゃ勝てない、そう鼓舞してくれたのは澤村だった。

「お前一人だけ苦しそうだったけど 何でか俺は
そんな風な澤村が 少し羨ましかった」

池尻は中学の時のことを思い出して、先ほどの自分の言葉を訂正する。弱小校なんて関係ない。元強豪なんて関係ない。
勝とうとしなきゃ、勝てるものも勝てないから。


澤村を羨ましく思った池尻の気持ちがよく分かった。

本気で取り組んだ人のところにだけ悔しさという感情は降り注ぐ。わたしは自分が最後いつ何に本気で取り組んだのかが思い出せない。苦しいほどの悔しさを最後に感じた経験が思い出せない。

わたしだって、澤村が羨ましい。

そして澤村に羨ましかったと真っ直ぐに伝えられる池尻もまた、わたしには輝いて見えるのだ。

澤村のような苦しさや悔しさを自分は感じられなかった、羨ましかった、と伝えるのは勇気のいることだと思う。だってそれは澤村ほどの気持ちで向き合えていなかった、と伝えることでもあるから。本気で取り組んでいた人に対してそれを言うのは恥ずかしくて、ちょっと怖い。

それでもそれを伝えた池尻は、烏野との試合で最後までボールを追いかける。たとえどんなに点差がついていたとしても。絶対かなわないような相手でも。

勝とうとしなきゃ、勝てないから。


池尻の高校バレーは初戦で終わる。
夏が来る前、高3の6月だった。

多分 こんな風にあっけなく"部活"を終わる奴が
全国に何万人と居るんだろう

何試合もある予選を全部勝ち抜いて 全国へ行って
これが物語だとしたら 全国へ行く奴らが主役で
俺たちは脇役みたいな感じだろうか

それでも

俺たちもやったよ
バレーボール
やってたよ

運動音痴のわたしが思わず共感するくらい『ハイキュー!!』は登場人物の心理描写が丁寧だ。今回書いた池尻の出番は決して多くなく、話数で言えば5話程度。それでもこうして話したいエピソードがある。

高校卒業後もバレーを続けるひと、高校でバレーをやめるひと、辛い練習から逃げたひと、がむしゃらに頑張るのが嫌いなひと、チームプレーが苦手なひと。
選手だけじゃない、マネージャー、選手の兄姉、OB、監督、コーチ。

読む人の数だけ共感するエピソードが違ってくると思う。
それだけ魅力的でリアルな登場人物が沢山出てくる。

だからわたしは『ハイキュー!!』が好きなんだ。
それぞれの進んだ道が、みんな平等に描かれているから。



いつしか無意識のうちに出来ないことの理由を先に作るようになっていた。出来なくても仕方ない、そんな言い訳を用意していた。

だって十分に練習していなかったから。
だって時間が足りなかったから。
だって周りのひとたちが○○だったから。
だって休めば良かったのにって言われたから。

わたしがなりたいのは、そんなわたしじゃない。

池尻のように悔しいと感じられなかったことに悔しさを感じられるのであれば、きっとまだ出来る。言い訳出来ないくらい何かに打ち込んで「ダメだった」と悔しさを感じることが。



悔しさを忘れてしまった、わたしへ。

言い訳を用意するのはもうやめよう。
怖くても、目の前にあるのは風を切る鞭なんかじゃない。
休めば良かったのに、と言う人はもう誰もいない。

「悔しい」を思い出せたのなら、また一段と高く跳べる気がする。縄が無くても、きっともう自分のリズムで跳べるはず。


『ハイキュー!!』で描かれているのは「敗者の明日」だ。

今日 敗者の君たちよ
明日は何者になる?


わたしは明日も何者にだってなれる。

さあ、明日のわたしは何者になる?


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