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がらくたの家 13 (小説)

 
母が帰国して、そのまま当たり前のようにこの家に滞在して三日目、菊代ちゃんが死んだ。シゲが泣きながら電話してきて、七海は受話器を片手にぺたりと座り込んだ。朝、いつも早起きの菊代が起きないので怪訝に思ったシゲが見ると、眠ったように死んでいたそうだ。急性心不全だった。
「菊代ちゃんらしい、誰にも迷惑をかけないで死んでいくなんて」
祐生が鼻をすすりながら言った。
 
喪主を務めた七海の父親は、通夜のときから目を真っ赤にして立っているのもやっとという様子だった。今にも泣き崩れそうな父親とおろおろしている母親の横で七海は顔をまっすぐ上げて姿勢よく立っていた。
 
凛たちは七海に是非にと言われて火葬場まで行かせてもらうことにした。
「ほんのちょっとのお別れだから。またどうせすぐ会えるさ」
一回り小さくなったように見えるシゲはそんなことを言って、
「菊代ちゃんの旦那さんと俺の奥さんと三人でビールでも飲みながら待っててくれよ。おかげで死ぬのがちっとも怖くなくなったな」と泣きながら笑った。
菊代の横たわる棺にみんなで真っ白な菊の花を入れた。
「花嫁さんみたいだなあ」とシゲが言った。
棺のふたが閉められ菊代の顔が見えなくなるのを、シゲは名残惜しそうに、七海の父親は呆然と見つめていた。
まさかこんな理由で使うとは思ってもみなかったけれど、念のため持ってきていた制服を着て母の横に立ち、祐生や刈谷たちに抱えられた菊代の小さな棺が車に運ばれるのを見つめていた凛が口を開いた。
「私、学校や将来のことよく考えて自分でちゃんと決めるから。それで、どんな結果になっても絶対にお母さんとかお父さんのせいになんかしない」
凛の視線の先で、菊代の小さな棺はあっさりと車の中に納まってしまった。凛は涙がこぼれるのを慌ててぬぐって、口をきゅっと引き締めた。

火葬場で火が入ると、七海の父親はふらついて壁に手をついた。七海の母親が支えようとするのを乱暴に払って嗚咽している。七海はそんな父親をただ見ていた。父親のねじれた心の中で後悔や寂しさが渦巻いているのだろうか。いや、それでもやっぱり無意識に、全て自分に都合のいい記憶に書き換えてしまうのだろう。自分の弱い心を守るために。哀れな人だ、と七海は自分の父親をそんな風に考えてしまうことを悲しく思う。

菊代ちゃんは小さな骨と灰になった。
七海の父親は消耗しきった顔でその場にぼんやりと立ち尽くしていた。

精進落としの場で、七海は親族と離れて凛たちの座る席へとやってきた。ビールをついで菊代の思い出話をして涙と笑みとを交互に繰り返した。凛はたった一度会っただけの菊代の存在の大きさを感じていた。
「うん、いい子いい子」にこにこした菊代がそう言って、凛の半そでのシャツから出た腕をぴたぴたと軽くたたくように触ったことを思い出す。シゲの家に住むようになるまで、吉祥寺の家を作り上げてきたのは菊代だ。広くて居心地がよくて何もかも飲み込む不思議な包容力を感じさせるあの家は、まるで菊代そのもののように思えた。
 
その時、親族席でざわめきが起こった。七海の父親が酔っ払って真っ赤な顔してフラフラと立ち上がるのが見えたかと思うと、大きな怒鳴り声が響く。
「七海、あの家はすぐ壊して売りに出すからな。さっさと荷物まとめて出て行けよ」
凛がびっくりして七海の顔を見ていると、七海は静かに「わかってる」と言うのだった。七海の父親は、ふんっと鼻を鳴らし、どっかと座ってまた酒のグラスを手にする。
「あんな家、親父が死んだときに壊しちまえばよかったんだ。税金だ修繕費だと金ばかりかかるあんな古い家、さっさと壊して売っぱらっちまえばあんなに働く必要もなかったのに」
マリモは急に何かを呑み込むようにすごい早さでお酒を飲み出して祐生にたしなめられては「うるさいな」と言ってまた飲んだ。刈谷と大志は二人して黙りこくってしまい、そうしていると二人はそっくりに見えた。

凛は呆然としたままぽつりと七海に言った。
「家、壊すって」
七海が頷く。
「こんな家壊しちまえっていうのがあの人の口癖だったから」
「どうして」
凛は力のない声で言う。強く憤慨したいのに、何だかもう力が入らない。
「あの人の考えてることはわからないよ。働き詰めだった菊代ちゃんに甘えることができなかったせいで、二人の関係はすっかりおかしくなってたから、家売ってれば少し余裕ができて親子関係も違ってたはずと思ってるのかもしれない。菊代ちゃんがどんな思いで自分を育てたか、家だって夫じゃなく息子のために残したかったんだろうとか、大人になればわかりそうなことも絶対に認めようとしない、そんな人なのよ」
「厄介」
凛がため息をつくと
「厄介だよ、特に血の繋がってる場合はね」
と七海が応える。
何故だか凛は力なく笑った。はは。七海も小さく笑った。ふっ。
「本当に壊しちゃうのかな」
「みんなの前で言っちゃったから、後には引けないかもね」
凛と七海がそう言って黙ると
「どうして遺言状とか書かなかったのかしら」
早紀代が言う。
「そこに、息子さんへの思いがあるような気がします」
刈谷が応える。
「かまってあげられなかった息子さんへの申し訳なさや悔やみはずっとあったんでしょう」
シゲの言葉に七海が頷いた。
「好きなようにしなさいっていう、遺言なのかもしれないね」
祐生がぽつりと言う。

しばらく誰も喋らず、七海の父親の酔っ払った大声だけが聞こえていた。
「でもね、仕方ないって思う部分もあるの」
口を開いた七海にみんなが視線を向ける。
「形あるものはいつかは壊れるものでしょう。私たちも、居心地がいいからっていつまでも同じ場所にとどまってちゃいけない。もしかしたら菊代ちゃんは、私たちのためにも、そろそろ動き出しなさいってやさしく背を押してくれてるのかもしれない」
七海はグラスのビールを飲み干して、
「私は自分のマンションに戻って仕事を探すつもり」
と宣言するように言う。
「仕事って、アロママッサージは?」と聞く凛に七海は微笑む。
「仕事としてはもうしない。希望があればみんなには施術するけど、お金は取らない」
「どうして?」
祐生の心配そうな顔に七海はゆっくり話す。
「私のアロママッサージは誰のことも本当に救うことはできない。ただ、その時抱えている重たいものを整理する手助けをするだけ。あとはみんな自分でどうにかするしかないんだもの。それでも意味があるのはわかってるけど、お金もらってするのはもう嫌なの」
「そんなの、かえってこっちが心苦しい」
マリモが言うと祐生も頷く。
そんな二人に七海は明るい声で言った。
「でもね、本当言うと、みんな私の助けなんてもう必要ないと思う。ちゃんと自分で前に進んでるでしょ。最近はダメージ酷くてほとんど施術できなかったけど大丈夫だったじゃない。だいたい、こんなちょっとしかできないんじゃ稼ぎとしては全然足りなくて生きてけないよ」
最後は軽い調子で笑う七海に祐生が口を開く。
「いつまでも七海に頼ってばかりじゃいけないもんね」
みんなのはっとした顔を見て七海は慌てたように続けた。
「そんなんじゃないの。さっきも言ったように私の力なんて小さいものなんだから」

それから七海は口調を改めて話した。
「それにね、私、また会社で働きたいって思うようになったの。仕事は大変でも楽しかったことや達成感覚えることも同じくらいたくさんあった。楽じゃないし、理不尽だらけってわかってるけど、闘ってるって生きてるってことなんだな、って思うようになったの。結局、私の方がみんなから生きる力をもらったのかもしれない」
七海の言葉をみんな黙って聞いていた。
刈谷が口を開く。
「僕は、アトリエも作れる広めの部屋を井の頭公園の近くで探してみます」
「僕も、料理に関係する仕事を探してみる。家庭菜園も続けたいからこの辺りで部屋も探すよ」
祐生が続けた。
「私のマンションにみんな遊びに来ればいいんだし、凛ちゃんだって東京に来ればいつだってみんなに会えるよ。何も変わらない」
七海の言葉に頷きながら、それでもやっぱり変わってしまうのだろうと凛は思う。

この夏休み、あの家で過ごしたあの時間は失われてもう二度と手に入らない。誰のものかわからない靴が散乱していた玄関、みんなが集まれる広い居間、祐生がいつも立ち働いていた台所、刈谷の城だったアトリエ、いつもアロマの香りが漂う空間、私が知らない世界が詰まった壁一面の本棚、それらがみんななくなってしまう。そう思うと、菊代がもうこの世にはいないことと同じくらい寂しく、取り返しがつかないという焦燥を覚えずにはいられない。
 
だけど、と凛は思う。変わりたくなんかないけど、それでも変わってゆくしかないこともある。失いたくなんてなくても、失われてゆくこともある。理不尽だと思ってもどうにもできないことが必ずある。

仕方ない。そう言って諦めることは弱さだと思っていた。でも、どうにもならないことをそのまま受け止めて進んでゆくのは、強くなきゃできない。深く強い心がなければできないことなんだ。

 
その時、ずっと黙っていた大志が突然立ち上がって「僕はやだよっ」と叫んだ。小さな身体を震わせてわーんと大きな声で泣き出す。感情が溢れどうにもならないその泣き方はまるで子どもで、それはいつもの大人びた大志からは想像できない姿だった。
「あの家が壊れてなくなるなんて嫌だっ」
大志の素直な叫びは、そこにいるみんなの気持ちだった。言っても仕方ないからって心の底に閉じ込めた言葉。
ああ、そうか、そうだよなと凛は理解する。
どうにもならなくても、言葉にしたほうがいいことがあるんだ。感情をきちんと言葉にして外に出す。それで現実が何も変わらなくても、私たちの中の何かはきっと変わるから。
凛は泣き叫ぶ大志を見つめた。
刈谷が大志を抱きしめ「お父さんも嫌だよ」と言った。マリモが顔も覆わずに涙をだらだら流してすっかり化粧のはげた顔でへたりこむ。祐生は正座した膝の上で拳をぎゅっと握っている。
七海が凛の隣でふっと息を吐く。
「菊代ちゃんがいなくなって、あの家もなくなって、みんなとばらばらになって、私は生きていけるのかな」
七海は鼻の頭を赤くして涙をはらはらとこぼした。声を出さない泣き方は見ていて苦しくなる。凛はいつの間にか自分の顔もすっかり濡れていることに気づいた。
そうして、大志の叫び声で堰を切ったように溢れ出した感情でみんなは思い切り泣いた。

ひとしきり泣いて泣きつかれて重い頭と瞼で放心したように顔を見合わせた時、凛の視界に親族席で畳に突っ伏して号泣している七海の父親の姿が映った。
七海の父親の菊代への愛情は最後まで複雑にねじくれて、そのねじれは誰にも、おそらく本人にも理解されないまま、心の中で爆発を起こしてはぷすぷすとした燃えカスが臭気をたて続けるのだろう。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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